EP.07 六年ぶり、俺の妹
救急の医師の見立てでは、外から衝撃を受けて意識を失った可能性は低いらしい。
体に外傷はなく、レントゲンでも骨に異常は見つからなかった。
となると、突然の病気か、何か体に害のあるものを口にした可能性のほうが高いという。
どちらにせよ、血液検査の結果が出るまではわからない。
「…………」
俺はベッド脇の椅子に座り、青白い顔をした妹を見つめていた。
胸の中の不安は、いつまでも消えなかった。
それに──懐かしさも、少しあった。
こうして美杏の姿を直接見たのは、いったいいつ以来だ?
六年?
……そうだ。もう六年になる。
俺の妹は……なんと言えばいいんだろう。心を病んでいる。
それも、ひどく。
小学三年の頃から部屋に閉じこもり、誰とも顔を合わせられなくなるほどに。俺も、親父も例外じゃない。
やり取りする手段は、ネットを通じた文字だけだった。
食事も、あらかじめ部屋のドアの前に置いておかなければならない。
美杏は誰もいないのを確かめてから、それを自分で部屋に運び込む。食べ終われば、食器を洗濯物と一緒に外へ出してくる。
トイレや風呂は部屋についているから、その心配はない。
笑えるのは、あいつが無事に生きているかどうか、時々聞こえてくるトイレの水を流す音で確かめていることだ。
はは。悪い冗談だろ。
そんな馬鹿げた日々を送るうちに、あっという間に六年が過ぎた。
小学三年生だった妹も、そろそろ恋に目覚めたっておかしくない年頃──十五歳になっていた。
俺は眠ったままの妹を、黙って見つめた。
六年の間に、幼かった目鼻立ちは少し大人びていた。
丸かった顔の輪郭もすっきりしてきたけれど、まだあどけなさは残っている。
それに、前髪をまっすぐ切り揃えた、顎くらいまでの短い髪が、中学生のあいつによく似合っていた。
可愛くて、清楚で。
こういうのを、おかっぱ頭っていうんだろうか。
誰にも切ってもらえないんだから、たぶん動画でも見て、自分で覚えたんだろう。
顔がいいだけじゃなく、物覚えもいい。
ひどい「対人恐怖症」さえなければ、きっとクラスでも一、二を争う人気者になっていただろう。
そう思った途端、拳に力がこもった。怒りが胸の奥から一気に押し寄せてくる。
──俺は、いじめが何より嫌いだ。
妹がこうなったのは、いじめのせいなんだから。
偏見を向けられ、いじめられ、誰にも助けてもらえず、最後には人を信じられなくなった……
妹をこんな目に遭わせた連中を、俺は今でも許せない。当時、あいつらも小学三年生だったとわかっていても。
「広志さん。今は妹のことが心配なのはわかってるんです。でも、ひと段落したら、私の言ったことを必ずちゃんと考えてほしいんです」
物思いに沈んでいた俺の横から、ルビーの声がした。
堂々と宙に浮いているのに、救急外来の誰一人として、不審に思う様子はない。
きっと防犯カメラにも映らないんだろう。
「……何を考えろって?」
「とぼけないで。霞さんのことです」
「…………」
「今のあなたには信じられないかもしれないけど、記憶が戻れば、私の言っていることが全部本当だってわかるはずです」
ルビーは長いまつげを伏せ、しばらく黙ったあと、重々しく告げた。
「あの子は狂ってるんです。正真正銘の化け物なんです」
「……」
「早く距離を置かないと、あなた自身も、周りのすべても壊される──家族も、妹も」
「……!」
「もちろん、妹が倒れたことに、あの子が必ず関わってると言ってるわけじゃないんです。でも、広志さん。本当に怖いのは、そこなんですよ」
「……どういう意味だ?」
「あの子の本性を知ったら、だんだんわからなくなるんです」
ルビーは真剣な顔で言った。
「どこまでがあの子の仕業で、どこからがそうじゃないのか」
「…………」
「あの子が何かしたという証拠は見つからない。だけど、心の底から信じることもできない。ずっと、そんな宙ぶらりんの状態が続くんです」
「それは……」
「何より、彼女を疑っちゃいけないと思っているのに、どうしてもあの子の仕業じゃないかと考えてしまう。疑うたびに、あの子に申し訳なくて、たまらなく苦しくなる。だけど、いくら信じようと自分に言い聞かせても、その疑いは消えないんです」
ルビーは少し間を置き、ゆっくりと言った。
「それが、あなたの未来なんですよ、広志さん」
「…………」
「とにかく──覚えておいてください。あの子は、あなたが思っているより、ずっと危険なんです」
俺はとっさに言葉が出なかった。
この半年、あいつと過ごした時間を思い返す。
あの笑顔も、告白してきたときの恥ずかしそうな様子も。何か恐ろしいことと結びつけるのは、とても難しかった。
俺の知っている霞は、ずっと優しい女の子だった。
何かと気にかけてくれて、いつも優しくしてくれた。
ただ、確かに変わったところはある。
あいつは俺のことには異様なくらい熱心なのに、ほかの人間にはまるで興味がない。
クラスメイトに話しかけられても、適当に相槌を打ってやり過ごす。
クラスの行事にも、自分から参加することはほとんどなかった。
だから、霞にはクラスで友達と呼べる相手がほとんどいない。
もっと交友関係を広げたらどうだ、と勧めたこともある。だけど、返ってきたのはこんな言葉だった。
『どうして? 私は広志くんさえいてくれれば、それでいいんだよ?』
……あいつは普通じゃない。
俺に頼りすぎている。
そこまで大事にされると、時々、受け止めきれなくなる。まるで俺が、あいつの世界の中心にいるみたいで。
だけど──
あいつが少し普通じゃないからって、何か恐ろしいことをするとは限らないだろ?
結局、俺のことが好きすぎるだけなんだ。
少なくとも、この半年、俺を本当に傷つけるようなことは、一度もしていない。
……そう。少なくとも、「俺には」していない。
「広志さん。決めるなら早いうちですよ。別れるのに一番いいタイミングを逃してしまうから」
ルビーは気楽な様子で肩をすくめた。
俺の頭の中は、ますます混乱していく。
くそ。いったいどうなってんだ?
ほかの誰にも見えないし、触れもしない。ただの幻覚かもしれないやつを本気で信じて、自分の彼女に別れを切り出せっていうのか?
はは……くそ、俺の頭、大丈夫かよ?
「うぅ──……」
頭を抱えて考え込んでいると、ベッドから漏れた声が、その思考を止めた。
俺は慌てて立ち上がり、ベッドの柵に身を寄せて妹の名前を呼んだ。
「美杏? 美杏!?」
「う、うぅ──……」
「おい、大丈夫か? 先生、呼んでこようか?」
「お、お兄ちゃん……?」
眉を寄せ、ぼんやりした大きな目をぱちぱちさせながら、妹が言った。
──お兄ちゃん。
その言葉を聞いた瞬間、さっきまでの不安が吹き飛び、胸がいっぱいになった。
お兄ちゃん。
今、俺のことを「お兄ちゃん」って呼んだんだよな?
文字じゃなく、自分の声で。俺のことを、お兄ちゃんって呼んでくれたのか?
おお、おおおおお……
今は泣いてる場合じゃない。そうわかっているのに、涙が勝手にこぼれてきた。
六年だ。
六年も、こう呼ばれていなかった。
久しぶりに妹から「お兄ちゃん」って呼ばれるのが、こんなにも嬉しいことだったなんて……!
「おおおおお……」
「そちらのご家族の方、ほかの患者さんもいらっしゃいますので、お静かにお願いします」
「あ、はい。すみません」
カウンターの看護師さんに、冷たい目で見られた。
俺は慌てて頭を下げ、再び妹へ目を向けた。
まだ半分眠っているような美杏は、布団の中で手足を気だるげに動かした。
顔立ちは整っているのに、体は見るからに痩せている。ちゃんと飯を食ってるんだろうか。
「美杏、まだどっか具合悪いか?」
ベッドの柵に身を寄せて尋ね、顔をよく見ようと、上半身をぐっと乗り出した。
俺に見つめられた美杏は、最初こそぼんやりしていた。
だけど、綺麗な瞳に意識が戻った途端、体をびくりと震わせ、目を見開いた。
まるで幽霊でも見たような顔で、俺と目が合う。
「…………美杏?」
「…………」
「どうした? なんで黙ってんだ?」
「……! ……!」
「俺だよ。兄貴の広志だ。わかんないのか?」
「────!」
──パァン!
不意に、痛みが走った。
顔を真っ赤にした妹が、俺の頬をひっぱたいたのだ。
その音は、救急外来中に響き渡った。
/////////
くそ、なんでだよ!
六年ぶりだぞ? 普通、感動の再会になるところじゃないのか?
なんで目を覚ましたばかりの妹に、ビンタを食らわなきゃならねえんだ?
俺にだってプライドはある。いきなり殴られたら、そりゃ腹も立つ……
だけど、文句を言う間もなく、美杏は胸を押さえた。
冷や汗が流れ出し、息ができないかのように、その顔が苦痛に歪む。
まずい。
なんか、様子がおかしくね?
俺は慌てて医師と看護師を呼んだ。ところが、それがかえって美杏の状態を悪化させたようだった。
眉をきつく寄せ、全身に冷や汗を浮かべ、手足を震わせている。まるでアルコール中毒の患者みたいだ。
「死ぬ、死んじゃう……!」
「美杏!? おい、兄貴をビビらせんなよ、美杏!?」
「ああ、あああああ、ああああああああああ!!」
小さな口から、途切れ途切れの悲鳴が漏れた。
美杏は何かに取り憑かれたようにベッドの上で体を丸め、両腕で自分を抱きしめたかと思うと、今度は首を掴み、髪をかきむしった。
苦しさのあまり、爪で顔の皮膚まで引き剥がそうとした、そのとき──
「押さえて」
医師の指示で、看護師たちが美杏の両手を押さえた。
「こんなに可愛い顔なんだから、傷つけちゃだめだよ~」
優しく声をかける看護師たちに押し出され、俺は離れたところから、呆然とその様子を見ていた。
隣のルビーなんて、怯えて指をくわえ、ぶるぶる震えている。
「サ、サタン……サタンだ……!」
「…………」
「広志さん! 妹さんに魔王が取り憑いてる! 魔王が取り憑いてるよ~~~!」
黙れよおおおおおこのアホツインテールううううううう────!
くそ、いったい何が起きてるんだ!?
美杏はさっき目を覚ましたとき、元気そうだったじゃねえか。俺にビンタする余裕まであったんだぞ?
それが、たった数秒で、なんでここまで悪くなる?
俺が何もできずにいる間にも、状況は悪化していった。
看護師が機械で美杏の心拍数を確認する。表示された数字はどんどん上がり、百五十八に達しても、まだ止まる気配がない──
うお、くそ!
くそくそくそくそ、本気で怖えよ!
一分間に百八十八回って、どういうことだよ!? 心臓の中でパーティーでもやってんのか!?
まずい。
俺の妹、このまま死んじまうんじゃ……?
俺は拳を握りしめ、冷や汗を流していた。きっと、恐怖で情けない顔になっているんだろう。
そんな俺とは違って、医師はずっと落ち着いていた。
血液検査の結果に目を通し、三秒ほど考えただけで、指示を出した。
「鎮静剤を投与して」
ほどなくして、状況は好転した。
取り乱していた美杏は、薬が効いてきたのか、手足の力が少しずつ抜け、まぶたもゆっくりと閉じていった……
やがて、妹は再び眠りに落ち、辺りには静けさが戻った。
「…………」
俺はほっと息をついた。
まだ動悸の収まらない胸を、そっと撫でた。




