EP.06 神様なんて、ろくなもんじゃねえ
俺は今、救急車に乗っている。
不吉な赤い光。
耳障りなサイレン。
やたらと強い冷房。
そして、窓の外を飛ぶように流れていく街並み。
こんな乗り物に乗るのは、生まれて初めてだ。
できることなら、一生縁のないままでいたかった。
だけど、今はそんなことを言っていられる状況じゃない。
俺は家族として助手席に座り、一緒に病院へ向かっていた。
「聞こえますか? わかりますか?」
後ろでは、救急隊員が患者の頬を軽く叩いている。
「うぅ──……」
返事はない。ただ、弱々しいうめき声が漏れるだけだった。
くそ。頼むから、無事でいてくれ……
俺は必死に祈りながら、保険証を持ってきたか確かめた。
──ストレッチャーに横たわっているのは、俺の妹だ。
/////////
話は、あのデートが終わって間もない頃に戻る。
「死なない限りは──って、なんでそこまで言い切れるんだよ?」
「ん?」
「ったく。朝いきなり現れたと思ったら、幽霊みたいに付きまとって、わけのわかんねえことばっかり言いやがって。着替えのときまでついてくるし……おい、お前はいったい何なんだ? 何が目的だよ?」
霞と別れたあと、俺は買い物袋を提げて帰り道を歩きながら、隣の幻覚さんに話しかけた。
このままじゃ埒が明かない。そう思って、正体不明のこいつと、ちゃんと向き合って話すことにしたのだ。
幽霊なら、これで勘弁してほしい。
俺の潜在意識が作り出した幻覚なら、俺自身に俺を勘弁してほしい。
……だけど、本当は俺も、少し揺らぎ始めていた。
「あら、人に名前を聞くなら、まず自分から名乗るのが礼儀でしょ? 広志さんって、そんなことも知らないの?」
「……は?」
「しかも、この使者様を『おい』呼ばわりなんて……ぷぷっ。そんな態度で答えてもらえると思わないでよね?」
「…………」
どうやら、このピンクのツインテールには、穏便に話し合うつもりなんてないらしい。調子に乗りやがって。
俺はため息をつき、とりあえず名乗った。
「高橋広志。十七歳、高二。父子家庭で、妹が一人──って、そんなこと、とっくに知ってんだろ?」
「うん、もちろん。あなたの口から聞きたかっただけ」
「お前、ぶん殴られたことねえのか?」
うわ、マジで殴りてえ。
幽霊だろうが幻覚だろうが知るか。女をここまで殴りたいと思ったの、久しぶりだぞ!
「あはは、そんなに怒らないでよ、広志さん。せっかくのいい顔に、しわが寄っちゃうよ?」
「…………」
「高橋広志。身長百七十四センチ、体重六十三キロ。とある事情で前の学校を離れ、今の高校へ転校。そこで、彼女の一ノ瀬霞と知り合った高校二年生。違う?」
「へえ、よく知ってんじゃねえか」
「それだけじゃないよ。頑固で、自立心が強くて、ちょっぴり反抗的。育ってきた環境も、人との付き合い方も、ぜーんぶお見通しなんだから」
幻覚さんは、そこそこ膨らみのある胸を張って言った。
俺はぞっとした。
「待て。お前、一体俺のこと、どこまで知ってんだ……?」
「鼻毛の本数から、股のほくろまで、全部」
「うおおおおおおおおお────!」
くそくそくそくそ、マジで怖え! 知りすぎだろ、こいつ!
でも、そこまで俺に詳しいなら、幽霊って線は消して、自分で作り出した幻覚だと断定していいんじゃないか?
自分のことを一番よく知っているのは、自分なんだから。
だけど、ただの幻覚と、こんなに筋の通った会話ができるものなのか?
「お、お前、いったい……?」
俺は足を止め、途方に暮れた。
幻覚さんは「えへへ」と笑って俺の前へ回り込み、スカートの裾をつまんでお辞儀をした。
「改めまして。私の名前は『ルビー』。神様に遣わされて、あなたを助けに来た使者だよ」
「し、使者……?」
「『神の代行者』って言ってもいいかな? あはは、そこまで大層なものじゃないけどね!」
幻覚さんは楽しそうに舌をちょろりと出し、自分でツッコミを入れた。
「代行者というよりは、部下かな。いわゆる『天使』ってやつ」
「天使?」
「そう。神様は基本的に指示を出す役。現場、つまり人間界を駆け回るのは、だいたい天使なんだよ」
「…………」
「ただ、私はまだ正式な天使じゃなくて、実習中の『天使候補生』なの。広志さんのこの恋がどう決着するかで、昇格できるかどうかが決まるってわけ」
「………………」
悪い、誰かこのツインテールが何言ってんのか訳してくれないか?
神様だの、天使だの、候補生だの……おい、ラノベでも書いてるつもりか?
「あれれ、信じてないって顔だね。この使者様が、でたらめを言ってるとでも?」
「悪いけど、話がぶっ飛びすぎててさ。まともな人間に信じろって言われても……」
「広志さん。あなたはもう、一度死んでるんです」
不意に、ルビーは初めて現れたときと同じ言葉を口にした。
その声は重く、真剣だった。
宝石のような桜色の瞳が俺をまっすぐ見つめている。まるで、魂の奥まで見透かすように。
俺は買い物袋を下ろし、頭をかいた。
「……ええと、確か、痴情のもつれで殺されたとか言ってたよな?」
「そうですよ。あなたの可愛くて、魅力的で、狂った彼女──一ノ瀬霞さんに殺されたんです」
「マジかよ……」
「今から五年後、大学を卒業する年のことです。あなたは彼女を深夜の公園に呼び出し、別れを切り出そうとして、刺し殺された。……覚えてないんですか?」
「覚えてると思うか?」
今から五年後の話なんだろ? 五年後の記憶なんて、俺が持ってるわけねえだろう?
嘘をつくなら、もうちょっと設定を練れよ──そうツッコむつもりだった。
だけど、今日のデート中に聞いた「幻聴」と、腹に走った「幻の痛み」を思い出し、また自信がなくなってきた。
もしかして、本当ってこともあるのか……?
「まあ、急がなくてもいいよ。神様が記憶の断片を保存して、この時代に送ってくれるって言ってたから。そのうち思い出すんじゃないかな」
「……」
「さ、聞きたいことがあったら、何でも聞いて。手伝う以上、信頼関係は必要だもんね」
ルビーは気楽な様子で、空中にごろんと横になった。
俺は額をぐっと押さえ、脳みそを総動員して、今の話を理解しようとした。
「……つまり、お前は俺を助けるために、未来からここへ戻ってきたってことか?」
「ううん。天界には時間って概念がないの。それがあるのは人間界だけ」
「…………」
「あなたを助けるために、神様が人間界の時間を、あの子と付き合い始めた翌日──つまり今日まで巻き戻したの。それで、悲劇を防ぐために私をここへ遣わしたってわけ」
「……悪い。聞けば聞くほど、でたらめにしか思えなくなってきた」
「ええ~! なんでだよ! こっちは真面目に話してるのに!」
ルビーが拳を振って抗議する。
「説明がおかしいんだよ。全然筋が通ってねえ」
「どこが?」
「まず、なんで神様が俺なんかをわざわざ助けるんだ? 人間界全体の時間まで巻き戻してさ」
そうだ。たった一人の凡人のために、そこまで手間をかけるなんて、おかしいだろ?
すると、ルビーはあっさりと肩をすくめた。
「さあ? 運がよかったんじゃない?」
「……」
「私たちから見たら、人間なんて蟻みたいなものだもん。よっぽど目立つか、運がいいかしないと、目にも留まらないよ。助けるかどうかは、神様のお好み次第だし」
「神様って、好き嫌いで仕事してんのかよ?」
「そりゃそうでしょ。神様には、一人残らず救う義務があるとでも思ってるの?」
「…………」
義務ないのか?
「広志さんは、たまたま神様の目に留まって、『このまま死なせるのは惜しい』って思ってもらえたんじゃないかな。それで、もう一度チャンスをくれたんだと思う」
「……」
「それに、この天使候補生は、ちょうど試験を控えてたの。広志さんの件が試験にぴったりだったから、神様が私を遣わしたってわけ。丸く収められたら、晴れて天使に昇格!」
「じゃあ、失敗したら?」
「失敗なんてしないよ。この使者様を誰だと思ってる? ふふん!」
彼女は自信満々に腕を組み、うなずいた。ピンクのツインテールが、それに合わせて揺れる。
俺は盛大にため息をつくと、死んだ魚のような目で、再び歩き出した。
「どう? これで信じてくれた?」
「……いや、まだだ。お前が俺の妄想だって可能性を、完全には捨てきれない」
正直、そっちの可能性のほうが高い。
ストレスで幻覚を作り出した挙げ句、妙な設定まで勝手に補完してるんじゃないか……親父の言う通り、一度病院へ行ったほうがいいのかもしれない。
「もー、しつこいなあ、広志さん。そんなんじゃ女の子にモテないよ?」
「残念だったな。俺には、と~っても可愛い彼女がいるんだよ」
「でも、その彼女に殺されるんだよね」
「…………」
「信じて、広志さん。あの子があなたに見せてる優しさは、全部偽物なんです」
「偽物?」
「そう。仮面の下にいるのは、完全に狂った──化け物です」
「────」
化け物。
その言葉が、なぜか胸の奥に響き、俺は息を呑んだ。
どうしてなのかはわからない。
だけど、電流が走ったような感覚とともに、それ以上ないほどぴったりな言葉だと思ってしまった。
でも、すぐに、霞に対してあまりにも失礼な呼び方だと気づき、俺は眉をひそめて黙り込んだ。
はぁ。こうやって人を偏見で見るのが、一番嫌いなはずなのに……
「……ルビー。そう呼んでいいんだよな?」
「いいよ」
「お前の話については、とりあえず判断を保留する。最後に一つだけ聞きたい。正直に答えてくれ」
「何?」
俺は買い物袋を提げたまま、大きく息を吸い、落ち着いた声で切り出した。
「言ったよな? 神様がお前を遣わしたのは、俺が霞に殺されるのを防ぐためだって」
「ちょっと違うかな。正確には、『広志さんと霞さんの恋愛トラブルを、適切に解決すること』だよ」
「恋愛トラブル?」
「あの子が殺意を抱くのは、広志さんが別れるって決めたときだけ。だから、一生一緒にいるって覚悟を決めて、絶対に別れを切り出さず、浮気もしないって約束できるなら、それで一件落着。この使者様が手間をかける必要もないよ」
そう言うと、ルビーはすかさず付け加えた。
「まあ、無理だろうけどね。そのうち泣きながら、この使者様に別れさせてって頼むことになるよ~」
俺は腕を組み、その言葉をじっくり噛みしめてから言った。
「でも、それっておかしくねえか? 俺が痴情のもつれで殺されるのを防ぎたいなら、なんで霞と付き合う前まで時間を戻さなかったんだ? いっそ、知り合う前でもいいだろ」
「ん~?」
「どう考えても、そこが一番おかしい。お前の言う通り、霞が別れを切り出しただけで俺を殺すような恐ろしい女なら、最初からそうならないようにすりゃいいだろ。なんでわざわざ、付き合い始めた翌日なんだよ?」
そう。これが一番根本的な疑問だ。
そんな恐ろしい相手と一度付き合ってしまったら、別れるのは難しい。
だったら、最初から関わらないのが一番だろう。
なのに、神様が選んだタイミングは妙だ。
付き合い始めてから使者を送り込んで、穏便に別れる手伝いをさせるなんて。
……遠回りしてないか、それ?
ところが、俺の疑問を聞いたルビーは、すぐに首を振ってため息をついた。やれやれ、とでも言いたげに。
「はぁ。ぜーんぜんルビーの話を聞いてないんだよね、広志さんは」
「あ?」
「ちゃんと聞いてたら、少し考えるだけでわかるはずなんだけどなあ。それなのに、この使者様にそんな間抜けな質問をするなんて。もしかして、広志さんって実はおバカさん? ん?」
彼女は小馬鹿にするように首をかしげ、肩まで軽くすくめた。
またぶん殴りたくなった。
「まあ……確かに? 広志さんの言うことは、その通りだよ。危ない恋人への一番の対処法は、そもそも対処する必要がないようにしておくこと。付き合う前に相手の本性を見抜いて、こっちから離れる。できるなら、知り合いにすらならない。それなら、面倒事とは無縁でいられるもんね」
「だったら、なんで……?」
なんで俺と霞が付き合ってから、助けを寄越したんだ?
その疑問に、ルビーは両手を広げ、少し苛立った声で答えた。
「さっき言ったでしょ? これは、この使者様が昇格できるかどうかを決める試験でもあるの」
「試験?」
「そう。広志さんの恋愛問題をどううまく解決するかで、天使の仕事を任せられるだけの知恵があるかどうかを見極めるわけ。もし広志さんが霞さんと付き合ってなかったら、そもそも知り合いですらなかったら──」
ルビーは、さも当然のように言った。
「何もかも問題なし。それじゃ、試験もクソもないじゃん?」
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馬鹿野郎。あんまりだろ。
人の恋愛トラブルを、天使候補生の試験問題にしやがって……
その神様ってやつ、そもそも俺を助ける気なんてないんじゃねえの?
たまたまツイてねえやつのツイてねえ恋愛事情を見つけて、試験に使えそうだから助けを寄越しただけじゃねえの?
「ちっ。やっぱ神様なんて、ろくなもんじゃねえ……」
「ん? 何か言った、広志さん?」
「別に」
俺は買い物袋を提げ、薄暗い住宅街を歩いていた。
両側には、見慣れた家々がいつも通りに並んでいる。特別みすぼらしくもなければ、豪華でもない。ごく普通の中流家庭が暮らす住宅街だ。
そんなありふれた景色を見ていると、俺とあの子では住む世界が違うんだと、改めて思い知らされた。
ルビーは、霞が狂っていると言った。化け物だとまで言った。
そんなこと、あるのか?
普通に考えたら、衣食に不自由しない環境のほうが、心も体も健やかに育ちそうなもんじゃないか?
うまい飯を食って、暖かい布団で寝て。それで心を病むような子に育つなんて、筋が通らない──
本当にそうか?
いや、言い切れない。
どこの家にも、それぞれ事情があるもんだ。
上流階級には上流階級なりの面倒があるのかもしれない。俺が知らないだけで。
今になって考えてみれば、あの子と知り合って半年。数えきれないほど一緒に笑ってきたのに、家庭のことは何一つ知らなかった。
わざと隠していたんだろうか? 霞は家の話をしない。
俺に気を遣って、あえて避けていたのか?
でも、俺がどういうやつなのか、あいつはわかっているはずだ。
金持ちのクラスメイトだろうが、貧乏なクラスメイトだろうが、話が合えばいいやつだ。
相手が誰だろうと、へりくだりもしなければ、見下しもしない。偏見を持って、それを理由に人をいじめたりもしない。
俺──高橋広志が、一番嫌いなのはいじめだ。するのも、されるのもな。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか、見慣れた我が家が目の前にあった。
リビングの掃き出し窓は真っ暗だ。親父は今日も、定時には帰れなかったらしい。
はぁ。仕事が終わるまで帰れないって、怖えよな。
社会の厳しさを嘆きながら、俺は鍵で玄関を開け、人の気配のない家に足を踏み入れた──
その瞬間、妙な空気を感じた。
「広志さん! あれ……!」
「!!」
ルビーに言われるまでもなく、俺には見えていた。
買い物袋を放り出し、廊下にうつ伏せで倒れている妹へ駆け寄って、その体を抱き起こした。
「美杏! 美杏!!」
大声で名前を呼んでも、まともな返事はなかった。小さな口から、苦しげなうめき声が漏れるだけだ。
顔は真っ青で、手足は力なく垂れている。触れた体までひどく冷たい。
どう見ても、ただ事じゃなかった。
くそ、何があった?
家にいただけのはずなのに、なんで美杏が倒れてるんだ?
いつからこうなってた?
自分で転んだのか?
それとも、泥棒に襲われた?
頭が混乱する中、ルビーの言葉がよみがえった。
『仮面の下にいるのは、完全に狂った──化け物です』
嫌な予感が胸に巣食った。
まさか、先に帰った霞が……?
「…………」
嘘だろ?
そんなこと、あるわけないよな?
お前は、こんなことをするやつじゃないよな、霞……?
混乱と疑いで、どうすればいいかわからなくなった──そのとき、ピンクのツインテールが視界に飛び込んできた。
「何ぼーっとしてるんだよ、このバカ人間!!」
「え……?」
「救急車! 早く救急車を呼んで!」
「そうだ……!」
彼女のことはあとだ。今は美杏が最優先だ。
俺はリビングへ駆け込み、急いで一一九番に電話をかけた。




