EP.24 出口のない愛
俺は、本当にバカだ。
そう思うやつは多いだろうな。高橋広志はバカだって。
あいつがまともじゃないとわかっていたくせに、さっさと荷物をまとめて逃げもせず、こんな事態になるまで引っ張っちまったなんて。
俺は、霞の中で、自分が大きな存在なんだと思っていた。
それだけ大切に思われているなら、話し合えば何だって解決できるはずだ──そんな甘いことを考えていた。
だけど、それは全部、独りよがりな幻想だった。
俺は、自分の愚かさの代償を払うことになった。
ヒーローになれなかったどころか、どこにあるのかもわからない、暗い部屋に閉じ込められている。
自分の手さえ見えない暗闇での──
監禁だ。
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目を開けると、明かりがついていた。
目の前には、食欲をそそる香りを漂わせるステーキがある。
肉は丁寧に一口大に切り分けられ、皿に並べられていた。ミディアムに焼かれた断面は、しっとりとしたピンク色で、少女の唇を思わせる鮮やかさだ。
見ているだけで食欲をそそられる。
「はい、あ~ん」
一切れの肉が、口元に押しつけられた。
霞は肉を切ってくれただけじゃなく、食べさせてくれるつもりらしい。
甘い吐息を漏らしながら、肉を俺の唇にこすりつけてくる。口元が肉汁で濡れた。
「ふふ、口紅を塗ってるみたい」
「……」
「どうしたの? 食べないの……?」
「……自分で食える」
俺はあいつを押しのけた。
今は左手しか使えないけど、肉をフォークで刺すくらい、どうってことない。自分で食べるつもりだった。
霞は不満そうに唇を尖らせたものの、おとなしく向かいの席へ戻った。テーブルを挟み、俺と向き合って座る。
「気に入った? 今日のお昼は、私が焼いたんだよ」
「……」
「夜は何が食べたい? 何でもいいよ」
「……」
「あ、それとも──わ・た・し?」
彼女はからかうように襟元を引き開け、白い胸の谷間をちらりとのぞかせながら、艶っぽい視線を向けてきた。
俺は何の反応も返さなかった。見る気にもならない。
霞はしょんぼりと服を整え、席に座り直した。
「いつになったら、ここから出してくれるんだ?」
「ヒロが、もう一度私を好きになってくれるまで」
「こんなことをすれば、俺の気が変わると本気で思ってるのか?」
「ふふ、きっと変わるよ」
霞は迷いなく答え、頬杖をついて、幸せそうに俺を見つめる。
「一日で駄目なら、一か月。一か月で駄目なら、一年」
「……」
「どれだけかかっても、ずっと待ってるから」
「お前……」
こいつ、いつまで俺を閉じ込めておくつもりだ?
フォークを置くと、胸の奥から怒りが湧いてきた。
「こんな何もないところに閉じ込めて、俺がお前を好きになるとでも思ってるのか? 甘すぎるだろ」
「何もないなんて、どうして? 私がいるじゃない」
「何……?」
「話し相手になれるのも、一緒に遊んであげられるのも、お腹を満たしてあげられるのも、私だけ……だから、私がいないときも、ヒロは私のことしか考えられなくなるの。そうしているうちに、きっとあの泥棒猫のことなんて忘れて、また私を好きになってくれるよ」
「…………」
「今は受け入れられないかもしれないけど、少しずつ、少しずつ……私が来るのを楽しみにするようになるよ。そのうち、私なしじゃいられなくなるから、もう少しだけ我慢してね。ふふ」
彼女は楽しそうに笑い、俺の鼻先を指でつついた。
俺は額に手を当てた。吐き気がした。
「そんな俺を、俺だと言えるのか?」
「……?」
「こんなところにずっと閉じ込められてたら、本当にお前に頼るようになるかもしれない。だけど、そうなった高橋広志を、まだ高橋広志だと思えるのかよ?」
「…………」
「本当に、それでいいのか? そんな恋愛、自分を騙してるだけじゃないのか?」
少し気恥ずかしい台詞だったけど、もう気にしていられなかった。
正気でいられるうちに、言いたいことは全部言っておかなきゃならない。
霞の顔から笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは、暗く、傷ついた表情だった。
「──それでも、ヒロを失うわけにはいかないの」
「……」
「失いたくない……ヒロを失うなんて、絶対に嫌なの!!」
「……」
「全部、ヒロのせいなんだよ?」
「俺のせい???」
「そうだよ。あんなに優しくするから……私、ヒロがいないと駄目になっちゃったんじゃない」
彼女は胸に手を当て、心の底からそう思っているように言った。
俺はどっと力が抜けた。
「……まだ何日かしか付き合ってないんだぞ。そこまで深い気持ちを、お互いに注いできたとは思えないんだけどな」
「付き合ってるかどうかなんて、関係ないの……最初から、どんな手を使ってでも、ヒロを手に入れるって決めてたんだから」
「……」
「たとえ手に入らなくても、ほかの女の人と一緒になるなんて許せない。そんなことになったら──私、きっと耐えられないから」
霞は目を伏せた。これ以上ないほど悲しそうだった。
俺は首を横に振った。
狂ってる。
一周目の俺は、霞は俺を愛しすぎたせいで、付き合っていくうちに少しずつ壊れていったんだと思っていた。
だけど、またしても思い知らされた。
あいつは、最初から壊れていたんだ。
俺と付き合うより前から、とっくに壊れていた。
「……そういえば、ヒロ」
ふと思い出したように、霞が温度のない声で言った。
「あの泥棒猫が今、どこに隠れてるか知ってる?」
「その『泥棒猫』って、誰のことだよ?」
「とぼけちゃ駄目だよ? うまいことを言って、ヒロの気持ちを変えさせた子のこと」
「……『篠原翼』のことを言ってるなら、全部お前の勘違いだ。俺とあいつの間には、本当に何もない。好きでもない」
「また嘘ついて。私には、ちゃんとわかってるんだよ」
霞は目を細め、目の前の肉を優雅に切り分けた。一切れ、また一切れ。微笑みながら、流れ出す血のような肉汁を見つめている。
そして、大きな目を上げ、前髪の隙間からこちらを窺った。
「ほかの子を好きになったんでしょ?」
「……」
「わかってるよ。今のヒロには、気になる人がいる。その人は、私じゃない」
「どうして、そんなことが言い切れる?」
「女の勘は鋭いんだよ。好きな人のことなら、なおさらね」
「……」
「おかしいよね……ほんの何日か前までは、ヒロが私を好きだって感じられたのに。どうして、たった何日かで、ほかの女の人に気持ちが向いちゃったんだろう? どう考えても変だよ。きっと、あの泥棒猫が何か言ったんだよね」
「……」
「でも、一時的なものだよ。ヒロは騙されてるだけだもん。私には、ちゃんとわかってるから。ふふ」
霞は甘い笑みを浮かべた。自分の出した結論に、満足したらしい。
気になる人、か……
はぁ。外れているとは言えないけど、いちばん肝心なところを勘違いしている。
とはいえ、説明しようにも、何から話せばいいのかわからなかった。
「今思えば、付き合い始めてから、ヒロはずっと変だったよね。一晩で別人になったみたいで、私を避けてる感じもしたし。きっと、あの泥棒猫が私たちの仲を引き裂こうとしてたんでしょ?」
それは、記憶が戻ったからだ──そう言ったところで、でたらめを言っているとしか思わないだろう。
ため息が出た。
感情が高ぶっている霞とは違い、俺には、どうしようもないという思いしかなかった。
「……委員長の居場所を聞いて、何をするつもりだ?」
「もちろん、ちゃんとお仕置きするんだよ! ひどいじゃない。人の彼氏を誘惑して、誕生日のお祝いに誘おうとまでしてたんだから!」
「霞、一つ教えてやろうか」
「何?」
「篠原は、俺の誕生日を祝うために店を予約してたんだよな? 何人分だったと思う?」
「何人って、二人でしょ!? あの図々しい泥棒猫、誕生日にかこつけて、人の彼氏と二人きりでデートするつもりだったんだよ!」
霞は腹立たしげにテーブルを叩いた。
俺は何も言わず、指を三本立てて見せる。
「違う。三人だ」
「三人……?」
「そう。篠原を追いかけたとき、店の受付でそれも確認したんだ。どうして、そんな予約をしたと思う?」
「……」
「お前の言う通り、俺だけを誘って誕生日を祝いたかったなら、どうして三人分なんだよ?」
霞は眉をひそめた。少し、動揺しているようだった。
俺は口を開いた。いろんな感情が、声に混ざった。
「あいつは、俺だけを誘いたかったんじゃない。俺たち二人を、一緒に誘うつもりだったんだ」
「私と……ヒロを?」
「ああ」
頷きながら、篠原と交わした言葉や、ふとした拍子に見せた気持ちを思い出した。
「あいつさ……お前とは、うまく付き合えないって言ってた」
「……」
「お前ら、二人とも最初は性格のせいで、クラスにうまく馴染めなかっただろ。だからあいつは、お前を仲間みたいに感じてたんじゃないか? 俺にも、よくわからないけどさ。ただ、あいつはずっと、お前と仲よくなりたがってたんだ」
「そ……そんなわけ……」
「知らなかったんだろ? あいつは不器用だし、お前は周りに無関心だからな。知ってるか? この前だって、もっとお前を大切にしろって、俺に言ってたんだぞ。たぶん、お前の孤独がわかるからだろうな」
「……」
「あいつは、お前に近づこうと頑張ってた。なのに、お前は見向きもしなかった。好意を踏みにじっただけじゃなく、人を使って襲わせて……自分がどれだけひどいことをしたか、わかってるのか?」
「……」
「霞、お前にいちばん必要なのは、恋人じゃなくて、本音で話せる友達なのかもしれない。篠原は、そうなれたかもしれないのに、お前が拒んだんだ」
「……」
「今なら、まだ間に合う。俺をここから出して、警察に自首して、あいつに謝れ。きっと、世間も委員長も、許してくれるよ」
「──ううん。もう遅いんだよ、ヒロ」
霞は否定し、食器を片づけ始めた。ワゴンに皿を重ねていく。その顔は、暗く沈んでいた。
「もう、何もかも引き返せないの。あの子を消さなきゃ」
「どうしてだよ?」
「だって……ヒロが、あの子を好きになっちゃったんだもん……」
「……」
「ヒロが、ほかの子と一緒になるなんて、受け入れられない……考えるだけで、胸が苦しくて、苦しくて、息ができなくなりそうなの……だから、あの子には消えてもらわないと」
霞は目を閉じ、弔うように、残念そうに言った。
俺の胸に怒りがこみ上げた。目を見開き、呼吸が荒くなる。
「……そうかよ。だったら、言わせてもらう」
出ていこうとする霞の背中に、俺は言った。
「お前は病んでる。霞、本当に病んでるんだ。その考え方を正さなきゃ駄目なんだよ」
「……」
「お前の恋愛観は間違ってる。相手の世界には自分だけ、自分の世界には相手だけ。そのためなら、邪魔なものは何でも消していい──だけどな、いったい誰が、そんな付き合い方を望むんだよ? 少なくとも、俺は嫌だ!」
「……」
「前は、お前が俺を大切にしてくれてると思ってた。いつだって全身全霊で尽くしてくれて、本気で愛してくれてるんだって。だけど、今はようやくわかったよ。霞、お前は俺の気持ちなんか、ちっとも気にしてない。ただ、自分のやりたいことをやってるだけだ。独りよがりな好意を一方的に注ぎ込んで、それを愛情表現だと思って、勝手に満足してる。相手が受け止めきれるかどうかなんて、お構いなしに」
俺はその背中を睨みつけ、厳しい言葉をぶつけた。
「一ノ瀬霞、お前がやってるのは、独りよがりな恋愛にすぎないんだ」
「……」
「尽くすことで得られる満足感に、浸ってるだけだ。自分を燃やせば燃やすほど、幸せになれる。結局、俺はその気持ちを満たすための道具でしかないんだろ」
──そうだ。
俺は、せいぜい道具だ。あいつが自分を満足させるための道具でしかない。
だから、ずっと胸の奥にしまっていた疑問を、口にした。
「本当は、相手が高橋広志かどうかなんて、お前にはどうでもいいんじゃないのか?」
「………………そう、かもね」
長い沈黙のあと、霞が振り返った。
整った顔には、深い悲しみが浮かんでいた。
「ヒロの……言う通りなのかもしれない」
「……」
「私、ただ、想いを注げる相手が必要なだけなのかもしれない……そうしていないと、生きてるって感じられないから」
ルビーが以前、霞について語っていたことを思い出した。
──自分というものがないんです。あなたに尽くし続けることでしか、自分の存在を確かめられない。
愛してくれる誰かが必要なんじゃない。自分が愛せる誰かが必要なんだ──それは、いったいどんな気持ちなんだろう。
俺には、わからなかった。
だけど、そんなふうに依存して生きるのは、間違っているに決まっている。
あまりにも、病的なほどに間違っている。
「でも、一つだけ間違ってるよ。ヒロ」
「何……?」
霞の目尻から、一筋の涙がこぼれた。
「その相手は、ヒロじゃなきゃ駄目なの。もう今さら……誰もヒロの代わりにはなれない」
「……」
「だから、ヒロが誰かのものになるなんて、受け入れられないの」
そう言い残し、霞は明かりを消した。
部屋が、再び闇に満たされる。
唯一の出入り口が閉ざされるまで、俺はその背中を見つめていた。
──想いを注げる相手が必要で、そうしていないと、生きていると感じられない。
今思えば、霞の本音を本当の意味で聞いたのは、これが初めてだったのかもしれない。
記憶の中のあいつは、いつも「好き」「愛してる」「ヒロが大好き」と言っていた。
だけど、どうしてそこまでして誰かを愛さずにはいられないのか、一度も話してくれなかった。
俺は五年の時を越え、この恋の始まりへ戻ってきた。
皮肉なことに、今になってようやく──
初めて、あいつの魂に触れられたような気がした。




