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彼女を振っても刺されない方法って、ある?  作者: 柊弐男
第六章 クソ野郎の救いと陥落
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EP.23 最後の陥落

 スマホが震え続けていた。

 かけてくるのは、いつも同じ相手──霞だ。

 出ることも、拒否することもせず、ただ振動が収まるのを待つ。それを、何度も何度も繰り返した……


 どれくらい経っただろう。

 バッテリーはもう切れそうなのに、スマホはまだ震えている。

 どうやら、俺が出るまでかけ続けるつもりらしい。

 そばでルビーが俺を見張っていた。情にほだされるのを警戒しているのか、「出ちゃ駄目だよ?」と、何度も念を押してくる。

 俺は答えず、ベッドに横になったまま、画面に表示された霞の写真を見つめていた。胸の中には、いろんな感情が渦巻いていた。


 ルビーは言っていた。「成長」とは、いろんな結果の積み重ねで、いいことも悪いことも、すべてに意味があるのだと。

 無数の「過去」が「今」を作り、その「今」が「未来」につながっていく。


 今回のことで、家族が俺を気にかけてくれているとわかった。自分が、なぜここまで過激な行動に走るのかも。

 妹がいて、親父がいて、小学生の頃のあの経験があって、こんな家庭で育ったからこそ──高橋広志は、今の高橋広志になった。


 じゃあ、霞は?


 何度も考えたことがある。どんな環境で育てば、あんな性格になるんだろう?

 未来の五年間、あいつの生い立ちを探ろうとしたことは、何度もあった。

 だけど、あいつは口が堅く、手がかり一つ教えてくれなかった。

 結局、謎は謎のままになった。


 今思えば、おかしな関係だった。

 霞は俺のことをいろいろ知っているのに、俺はあいつを何も知らない。金持ちの家のお嬢様だということくらいしか……


 あれこれ考えていると、ピピッと音がして、スマホの電源が落ちた。どうやら、バッテリーが切れたらしい。

 俺はため息をつく。

 まあ、これでよかったのかもしれない。もう振動に気を揉まされずに済む。


 ルビーもほっとしたようだった。

 警戒を解くと、そのまま俺のそばに飛んできて、ベッドの空いているところにごろんと横になった。ほどなく、ぐっすり眠り込んでしまう。本当に疲れていたらしい。


 触れられないとはいえ、すぐ隣に女の子が寝ている。しかも、やたらと近い。さすがに、少し落ち着かなかった。

 ベッドから追い出そうと声をかけたけど、こいつはもう、気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 おいおい、のび太かよ。三秒で寝るなんて……


 寝顔を見られたくなかったんだろうか。ルビーは俺に背を向け、横向きに寝ていた。

 袖のないワンピースが細い腰の線を描き、桜みたいに綺麗なピンク色の長い髪が、背中から白いシーツへと広がっている。


 ふと、不思議に思った。

 この世界のものには触れないはずなのに、どうやってベッドに「寝て」いるんだ?

 髪だって、どうして自然にベッドの上に広がる?


 それに、さっき俺の肩に頭を預けていたのも……

 俺に触れないんだったら、あのときは、隣で勝手に頭を傾けていただけってことになるんじゃないか?


「ぷっ……」


 急に間抜けに思えてきた。

 しかも、それって、めちゃくちゃ首が疲れそうだ。思わず笑ってしまった。


 この世には、俺の理解できない法則が多すぎる。

 もしかしたら、こいつにとって、ここは無重力空間みたいなものなのかもしれない。頭を傾けていても、首なんか疲れないんだろうか?

 まあ、時間が巻き戻るなんて、もっと不思議なことまで見ているんだ。細かいところを気にしたって、野暮なだけか。


 深く息を吸い、左手を頭の下に敷いて、気を緩めた。

 病室は静かだった。

 空調の音に交じって、二人の女の子の寝息が聞こえる。ルビーと、美杏だ。


 その静けさに包まれて、俺の呼吸も、少しずつ穏やかになっていく……

 まぶたも、ゆっくり、ゆっくり閉じていく……

 気がつけば、意識が途切れていた。



 どれくらい眠ったんだろう──ふと、ほのかな香りに包まれた。

 体中が心地よさに満たされる。同時に、懐かしさもこみ上げてきた。


 そうだ。

 よく知っている香りだ。


 この香りに心を奪われ、胸を熱くしたこともあった……

 どれだけの笑顔を共にして、どれだけの悩みを呼び起こしてきたんだろう。


「…………」


 目を開けると、誰かが俺を抱きしめていた。

 俺の上に身を伏せ、顔を埋めて泣いている。

 起こしたくないのに、感情を抑えきれない。そんなふうに、声を殺して泣いていた。


 ──一(・)ノ(・)瀬(・)霞(・)。

 ど(・)れ(・)だ(・)け(・)逃(・)げ(・)て(・)も(・)、ど(・)れ(・)だ(・)け(・)隠(・)れ(・)て(・)も(・)、結(・)局(・)は(・)向(・)き(・)合(・)わ(・)な(・)き(・)ゃ(・)い(・)け(・)な(・)い(・)女(・)だ(・)っ(・)た(・)。



 /////////



「うわあああ、なんであの子がここにいるのおおおお──@#$%^&*」


 目を覚ましたルビーの第一声が、それだった。

 突然現れた霞に、相当驚いたらしい。顔色を失うどころか、まともな言葉さえ出てこなくなっていた。


 病室には美杏がいる。霞に長居させるわけにもいかず、俺はあいつとエレベーターで一階に下りた。


 朝の五時半。空は、うっすら明るくなっていた。

 病院の正面玄関はまだ閉まっていたけど、つながっている救急外来からは出入りできた。

 病院着のまま、動かしづらい右腕を白い三角巾で吊り、霞と外の東屋へ向かう。石のテーブルを挟んで、向かい合って座った。


 よく見ると、あいつはまだ、昨夜の肩の出たドレスを着ていた。白い首には、金色のアクセサリーもかかったままだ。

 あんなに華やかな格好なのに、顔は驚くほどやつれていた。目元は少し腫れ、目の下には薄い隈までできている。


 こいつ……まさか、このまま一晩中、俺を捜してたのか?


 視線が自然と下がり、そこで気づいた──靴を履いていない。

 ハイヒールを履いていたはずの足は、裸足だった。

 右の足首は、はっきりわかるほど腫れている。足の裏にも、長い距離を歩いてきた跡が残っていた。


 ……たぶん、俺を捜し回っている途中で、ヒールのせいで足をくじいたんだろう。それで靴を捨て、裸足のまま捜し続けたんじゃないか。

 そのせいで、足の裏まで傷ついていた。

 柔らかな皮膚はあちこち擦りむけ、細工物みたいに綺麗な爪の周りにも、血がにじんでいる。


「…………」


 こんなになるまで自分を痛めつけた姿を、見て見ぬふりはできなかった。

 病院に戻り、患者用のスリッパを持ってきてやった。ついでに氷嚢も手に入れ、ひとまず足首を冷やさせる。


 霞の話によると、俺と連絡が取れなくなってから、ずっと捜していたらしい。

 最初は俺の家の前で待っていたけど、いくら待っても帰ってこない。

 親父と美杏が慌ただしく出かけていくのを見て、ようやく何かあったと気づいたのだという。

 それでも、俺の居場所を知る手段はなかった。

 病院にいるとしかわからず、途方に暮れながら市内の大きな病院をいくつも回り、やっとここを見つけたらしい。


 一通り聞き終えると、俺は静かに言った。


「まだ、何か隠してるだろ?」

「……!」


 霞がびくりとした。

 図星らしい。


「一晩中捜してたのは、本当なんだろうな。家の前で待ってたのも。だけど、どうして病院にいるってわかった?」

「……」

「親父は美杏を車に乗せて出かけたんだ。二人の会話なんて聞こえなかっただろ。そもそも、あいつらは声に出して話さない。メッセージでやり取りしてたはずだ──だったら、どうして俺が病院にいるって言い切れる?」

「……」

「手(・)下(・)に教えてもらったんじゃないのか?」


 手下。

 その言葉を口にした時点で、俺は、篠原を襲わせた張本人は霞だと突きつけたも同然だった。

 張本人なら、計画が失敗したとき、当然、誰かが報告するだろう。


 霞は弁解せず、ただうつむいたまま、むき出しの両肩を小さく震わせていた。

 否定しないのは認めたということだ。そう受け取り、俺はため息をついた。


「──本当は、風邪なんか引いてなかったんだろ?」

「!!」

「一昨日は熱で学校を休んだくせに、昨日はぴんぴんしてたじゃねえか。スタンド能力でも持ってるんじゃなきゃ、嘘をついてたってことだろ」

「……」

「おいおい、仮病で休むのはよくないぞ? 俺も、人のことを言えた義理じゃないけどさ」


 黙り込んだ霞を見つめ、尋ねた。


「それで? わざわざ仮病まで使って、あの日、何をしに行ったんだ?」


 答えは、もうわかっていた。

 学校を休んだあの日、篠原を襲わせる手はずを整えていたんだろう。


 よく考えれば、一周目にも同じことがあった。

 篠原が襲われる前日、霞は同じように病欠した。

 なのに翌日は、何事もなかったように学校へ来て、俺の誕生日を祝ってくれた。

 元気いっぱいで、具合が悪そうなところなんて、一つもなかった。


 つまり──あのときも、たぶん風邪なんか引いていなかったんだ。


 当時の俺は、何もおかしいと思わなかったが、今になって、ようやく気づいた。

 霞は俺には優しい。だけど、嘘をつかないわけじゃない。

 今なら、あいつが黒幕だと確信できる。


 なぜか?

 篠(・)原(・)の(・)襲(・)わ(・)れ(・)方(・)が(・)変(・)わ(・)っ(・)た(・)こ(・)と(・)こ(・)そ(・)、霞(・)が(・)仕(・)組(・)ん(・)だ(・)と(・)い(・)う(・)何(・)よ(・)り(・)の(・)証(・)拠(・)だ(・)か(・)ら(・)だ(・)。


 一周目の俺が、この数日間に何をしていたかというと──


 月曜日:霞の告白を受け入れ、付き合い始めた。

 火曜日:二人で仲よく登校。校内でいちゃつく一方、霞は予定通り、模試の申込書を委員長に提(・)出(・)し(・)た(・)。

 水曜日:霞が学校を休んだ。理由は、体調不良。

 木曜日:俺の誕生日。そして、篠原が襲われた日。


 本来、篠原は刃物で切りつけられるはずだった。

 顔に傷は残るけど、命までは奪われない。肝心なのは、犯人の武器がナイフだったということだ。


 だけど、ルビーが現れ、記憶が戻ったことで、二周目の俺の行動は変わった。

 その影響が、篠原にも及んだのだ。


 ──火曜日。

 すべての変化は、ここから始まった。


 本来なら、何事もなく霞と登校し、いちゃついていたはずの俺は、ルビーの出現で混乱した。

 美杏の昼飯を用意し忘れ、あの晩、空腹で倒れたあいつを病院に運ぶことになっただけじゃない。霞まで、俺の気晴らしに付き合って丸一日学校をサボったせいで、申(・)込(・)書(・)を(・)予(・)定(・)通(・)り(・)出(・)せ(・)な(・)く(・)な(・)っ(・)た(・)。


 そして水曜日。

 霞が学校を休んだ日、申込書を集めきれなかった篠原は、霞の家を訪ねるよう言われ、俺を連れていった──ここが、変化の鍵だ。

 一周目の高橋広志は、篠原と一緒に霞の家へ行っていない。道であんな話をすることも、励(・)ま(・)そ(・)う(・)と(・)し(・)て(・)肩(・)に(・)手(・)を(・)置(・)く(・)こ(・)と(・)も(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。


 たぶん、この周回の霞は、あれで俺と篠原の関係を勘違いしたんだろう。

 あの日、あいつは人を使って俺を尾行させていたらしい。当然、あの場面も耳に入ったはずだ。


 一周目では、霞は篠原が一方的に俺を好きなだけだと思っていたんじゃないか。

 篠原はもともと綺麗だし、俺と接する機会も多かった。

 霞の性格なら、とっくに目障りだと思っていて、排除しなきゃいけない相手だと決めつけていてもおかしくない。

 だから、篠原に手を出すつもりではあっても、目的はあくまで「俺に片想いしているらしい恋敵」を遠ざけ、俺のそばから消すことだった。


 だけど、今回は違う。


 俺は篠原に付き添って霞の家へ向かい、二人きりで歩き、肩にまで手を置いた。

 ──俺のほうも、篠原に気があるのかもしれないと、あいつは考えた。


 それなら、霞にとって、篠原の脅威はまるで違ってくる。

 一方的に俺を好きなだけの恋敵じゃない。俺を、霞のそばから奪おうとしている女だ。


 篠原への憎しみを強めた霞は、最初の指示を変えた。

 犯人の武器は「ナイフ」から、もっと殺傷力の高い「銃」に。命令も「顔を傷つけること」から「殺すこと」に変わったのだ。


 もちろん、すべては「霞が指示した」という前提で組み立てた推論だ。

 だけど、ルビーが言っていた通り──

 無数の「過去」が「今」を作り、その「今」が「未来」につながる。


 新しい要素が入り込まない限り、運命は元の道筋をたどるはずだ。

 一足す一が必ず二になるように、二周目の出来事も、一周目と同じ結末に向かうはずだった──


 例(・)外(・)が(・)あ(・)る(・)と(・)す(・)れ(・)ば(・)、俺(・)の(・)影(・)響(・)を(・)受(・)け(・)た(・)場(・)合(・)だ(・)け(・)。


 未来の記憶を持つ高橋広志は、その式を狂わせる、唯一の変数なんだ。

 逆に言えば、誰かが一周目と違う行動を取ったなら、その違いの原因をたどっていけば、俺に行き着くはずだ。

 これこそが、篠原の襲撃事件に黒幕がいると考えた根拠だった。


 でも、俺はあの犯人とは何の関わりもない。

 向こうは俺を知らないし、篠原のことさえ知らなかった。

 だったら、もともと俺と何の関係もないやつが、どうして俺の行動が変わったせいで、二周目に違う行動を取ったんだ?


 答えは、一つしかない。

 ──俺とあいつの間に、も(・)う(・)一(・)人(・)いる。


 一周目で逮捕された犯人は、篠原が嫌いだったから襲ったと言っていた。

 だけど、それは嘘だ。

 昨夜話した限り、あいつは篠原を知らなかった。嫌う理由なんて、どこにある?


 つまり、見ず知らずの相手を襲ったのは、誰かに指示されたからだ。

 そして、指示したやつは俺を知っていて、俺の行動によって考えを変える。

 だったら、俺と篠原が親しくしていたせいで、最初の指示を変える理由だってある──


 ここまで考えれば、霞以外に答えは思いつかなかった。


 一周目の頃から、疑ってはいた。だけど、確かな証拠がなかった。

 怪しいと思う一方で、あいつがそんなことをするはずがないと信じたかった。その矛盾に、ずっと苦しめられてきた。


 今、二つの周回の違いを比べることで、ようやく疑問が全部つながった。

 こんな推論は、法廷じゃ通用しないだろう。それでも、少なくとも──

 俺自身は、ようやく納得できた。


 霞は確かに、俺の知らないところで、ひどいことをいくつも仕組んでいたんだ。

 だから、こう言うしかなかった。


「自(・)首(・)し(・)ろ(・)」

「……!」

「どんな理由があったって、人を傷つけるのは間違ってる。なあ、現実がアニメだったら、お前は極悪なラスボスみたいなもんだぞ。そんな役になってもいいのか? 『一ノ瀬霞』と『魔王』が、同じ意味になってもいいのかよ?」

「……」

「今なら、まだ遅くない。さっさと汚名返上しろよ。視聴者だって、きっと許してくれるさ」


 もちろん、ここに視聴者なんかいない。

 わざとふざけた言い方をして、動揺をごまかしているだけだ。


 俺の前では、あんなに優しくて、気立てのいい女の子だった。

 それが、人を傷つけた犯罪者になった。

 今でも、その二つが同じ人間だとは、なかなか思えなかった。


 皆に、何を寝ぼけたことを言ってるんだと、思われるかもしれない。

 それでも、信じたかった──あいつは、心の底から人を傷つけたいわけじゃない。

 ただ、人の愛し方が過激すぎて、不器用すぎた。

 大切な想いを守ろうとして、やってはいけないことをしてしまったんだ。


「私……! 私……!」


 責められた霞は、全身を震わせていた。

 わかっている。罰を受けるのが怖いんじゃない。俺が抱いていた自分のイメージが壊れるのを、怖がっているんだ。


 はぁ。こいつは、いつもそうだ。

 世間にどう見られるかより、俺にどう思われるかを気にする。まるで、俺がすべてみたいに。

 それが、たまらなく重かった。


 不意に、霞が立ち上がった。

 石のテーブルを回り込み、俺を抱きしめる。

 強く、強く……逃がさないように、力いっぱい抱きついてきた。


「待て、そんなにされたら肩が痛い……!」

「自首したら、やり直してくれる?」

「何……?」


 顔を上げ、強い眼差しで俺に問いかける。


「やり直してくれる? ヒロ……」

「…………」


 答えられず、ごくりと唾を飲んだ。

 ルビーも同じように唾を飲み込み、緊張した顔で俺を見ていた。


 この状況は、刺し殺されたときとそっくりだった。

 あのときも、こうして強く抱きしめられていた。


「……悪い。もう、やり直せないんだ。霞」


 できるだけ優しく、それでも、はっきりと言った。


「話は聞くし、つらいときはそばにいる。でも、恋人としてじゃない。友達としてだ」

「……」

「恋人にはなれなくても、仲のいい友達にはなれるだろ? 前みたいにさ」


 正直、それがお互いのためだと思っていた。

 今ならわかる。

 霞は、付き合い始めてから少しずつ、こうなったわけじゃない。

 恋人になるよりずっと前から、俺への想いは、想像もつかないほど深かったのかもしれない。


 だったら、友達に戻れば、本当に元通りになるのか?

 わからない。


 ただ、恋人になる前は、今よりはまともに付き合えていた。

 少なくとも、俺の前で、はっきり「病んでいる」とわかるような振る舞いはしていなかった。俺も、あいつの重すぎる献身に、息が詰まることはなかった。

 もう一度、互いの境界線を引き直せば、あの頃みたいな関係に戻れる可能性はないだろうか?


 すぐに俺への気持ちを捨ててくれるなんて、期待していない。

 ただ、わかってほしかった──

 誰かを好きだからって、その人を自分のすべてにする必要はない。


 今の関係を続ければ、あいつは俺のために、もっといろんなことをするだろう。

 俺はそれに耐えられなくなるたびに、逃げ出したくなるだけだ。

 そんなの、どっちのためにもならない。


「うぅ……何を言っても、やり直してくれないの? ヒロ……」

「俺たちは合わないんだ。お前を受け入れてくれるやつを、探してくれ」

「まだ何日かしか付き合ってないのに、どうして合わないってわかるの?」

「……」

「どうして、もう少しだけでも試してくれないの? 何だって話し合えるよ。私、そんなに駄目なの?」

「……」


 はぁ。お前は知らないだろう。

 俺たちは、もう五年も恋人だったんだ。

 その結末は、散々だった。


 俺は首を横に振り、ため息をついた。


「この何日か、俺のために使ってくれた金は、何とかして返すよ」

「────」

「俺には、あの気持ちを受け止めきれないんだ」


 霞の瞳に、一瞬、傷ついた色が浮かんだ。

 そのまま顔を伏せる。黒い前髪が、両目を隠した。


「そっか。じゃあ、仕(・)方(・)な(・)い(・)ね」

「……?」

「ヒロがそう決めたんだったら、仕方ないよね」

「霞……?」


 冷たい風が吹き抜けた。

 なぜか、とてつもなく嫌な予感がした。


 俺を抱きしめたまま、霞が突然、くすくすと笑い始めた。

 甲高くて、恐ろしい笑い声だった……頭の皮が引きつるような感覚がして、全身に鳥肌が立つ!


 くそくそくそくそ、何なんだよ、こいつ!?

 まさか、また刺すつもりか!?

 病院の前で? 人目もあるのに──!?


 隣でルビーが「逃げて──!」と叫んだ。

 だけど、今は片腕が使えない。霞を振りほどけねえ!


 怖くて漏らしそうになった頃、ようやく、あの不気味な笑い声が止まった。


 霞がゆっくり顔を上げる。

 その目は、うっとりするほどの幸福に満ちていた。


「!!」


 視界がぐるりと回った。


 霞が、重ねたティッシュで俺の口と鼻を覆っていた。

 何かの気体が鼻に入り、手足の力が抜ける。バランスを失い──倒れた。


 霞はそのまま俺を受け止め、ピクニックでもしているみたいに、膝枕をしてくれた。


「ヒロが悪いんだよ」


 夢を見るような目だった。幸せが、あふれていた。


「ふふ……ふふふ……私じゃなくて、あの泥棒猫を選ぶから」


 見覚えのある、うっとりした顔だった。俺を殺したときと、同じ顔だ。


「でも、大丈夫。ヒロは、ちょっと気の迷いでそうしてるだけだもんね。ほかの泥棒猫に惑わされちゃっただけ。ちゃんと、私のところに戻ってきてくれるようにするから」

「う、うぅ……霞、お前──……!」

「ヒロ、大好き。私から離れちゃ駄目だよ♥」


 ……意識が、薄れていく。

 霞の顔も、ルビーの声も……

 ゆっくり、遠ざかっていく……


 世界が、ミュートになったみたいだった。

 俺は、闇の中へ落ちていった。


 ──予感がする。こ(・)れ(・)が(・)、最(・)後(・)に(・)な(・)る(・)のだと。




~第六章 クソ野郎の救いと陥落(完)~

次の第七章では、いよいよヤンデレとの最終決戦を迎えます。

……なんだか、魔王城でラスボスに挑むような感じですね。


ここまで読み進めてくださった皆さん、応援ありがとうございます。

広志と霞の恋は、果たしてどんな結末を迎えるのでしょうか?

そして、何が今の霞を形作ったのでしょうか?


ぜひ、最後まで見届けてください──この「ヤンデレ」をめぐる恋の物語を!

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