EP.22 優しいクソ野郎
目を開けると、世界がぐるぐる回っていた。
天井の模様がいくつにも分かれ、重なり合い、回転する……一瞬、万華鏡でも見ているのかと思った。
吐き気が押し寄せてきた。
口を押さえ、こみ上げてくる胃酸を必死にこらえる。
全身麻酔のあとには、酔っ払ったときみたいな吐き気がすることもあるとは聞いていたけど、ここまでひどいとは思わなかった。
それとも、まさか、寝てる間に誰かに酒でも飲まされたのか?
「あら、やっと起きたんだね。おバカな広志さん」
ルビーが真上に飛んできて、ベッドに横たわる俺と目を合わせた。小さな形のいい鼻が、俺の鼻先に触れそうなほど近い。宝石みたいな桜色の瞳が、すぐ目の前にあった。
よく見ると、その目には少し責めるような色と、かすかな安堵がにじんでいた。
「……何? そんなにじっと見ちゃって。この使者様に見とれちゃった?」
「ルビー、今何時だ?」
「こら──! 質問に質問で返すな──!」
騒ぎながらも、ちゃんと時間は教えてくれた。
撃たれてから、もう十時間近く経っている。今は翌日の午前四時頃らしい。
パトカーが到着したあと、篠原は事情を聞かれるために警察署へ連れていかれ、俺は救急車で病院に運ばれた。そのまま手術室行きだ。
撃たれたのは、右肩だった。
医者に何を言われたかは、あまり覚えていない。
ただ、肩の構造は思っていたより複雑で、傷口を縫うだけでは済まず、低侵襲手術で組織をつなぎ合わせる必要があった。
知らせを受けた親父は、慌てて病院に駆けつけた。俺は未成年だから、手術の同意書には親父の署名が必要だったのだ。
あんなに取り乱した親父を見るのは、初めてだった。
いつも髪をきっちり撫でつけ、颯爽としている親父が、あの晩は息を切らして救急外来に飛び込んできた。医者につかみかかり、「息子は!? どこを撃たれたんですか!? どこに当たったんですか!?」と叫んでいた。
おいおい、格好悪いぞ、親父。いつもの勇ましさは、どこへ行ったんだよ?
まあ、俺だって家族が撃たれたと聞いたら、同じ反応をするだろうけど。
普段は愛情を表すのが下手な親父も、やっぱり俺たちを大事に思ってくれているんだ。
はぁ。昼間は仕事で忙しいのに、夜中まで入院したバカ息子の世話をさせるなんて、申し訳ねえな──
「ん?」
目をこすった。見間違いかと思った。
付き添っているのは、親父じゃなかった。金を払って頼んだ付き添いの人でもない。
今、布団をかぶり、そばの付き添い用の椅子に横になって、すやすや眠っているのは──
なんと、高橋美杏だった。
「…………」
は?
美杏?
本当に?
見間違いじゃないかと、もう一度目をこすり、頭を振って意識をはっきりさせる。何度確かめても、そこにいるのは美杏だった。
驚きのあまり、ぽかんと口が開いた。
だって……俺の妹だぞ?
あの、人が怖くて仕方ない妹だぞ?
部屋を出ることさえ難しかったあいつが、家を出て、ここで俺に付き添っている。
今、この二人部屋にほかの患者はいない。だけど、人を極端に怖がる美杏にとって、人が行き交う病院を通ってここまで来るのは、とんでもなく大変だったはずだ。
百年に一度の奇跡でも目にしたみたいに、胸が熱くなると同時に、信じられない気持ちになった。
美杏のほうから、連れてきてくれって親父に頼んだのか?
もう部屋を出ても平気なのか?
見回りに来る看護師と顔を合わせても、大丈夫なのか?
疑問で頭がいっぱいになった、そのとき──
ベッド脇のテーブルに、一通の手紙が置かれているのが見えた。そこで、思考が止まる。
よく見ると、手紙じゃなかった。
表紙に「お誕生日おめでとう」と書かれたカードだ。
開くと、見慣れない丸い字で、たくさんの言葉がつづられていた。
難しい言葉は使われていない。むしろ、少し幼いくらいだ。
それでも、きちんとした文章にしようと頑張ったのは伝わってくる。
どの言葉にも心がこもっていて、温かかった。
俺は黙ってベッドを降り、重い足取りで廊下へ出た。隅にある椅子に腰を下ろす。
夜中の病院は静かで、当直の看護師も声を落として話していた。
冷たい白い明かりの下、一人で何度もカードの言葉を読み返した。
誕生日の祝いだけじゃない。
そこには、感謝の言葉があふれていた。
世話をしてくれて、ありがとう。
気にかけてくれて、ありがとう。
私のために、いろんなことをしてくれて、ありがとう。
……それから、謝罪の言葉も。
面倒な妹で、ごめんなさい。
あの日、救急外来で取り乱して、叩いてごめんなさい。
私のせいで、お兄ちゃんの人生をめちゃくちゃにして、ごめんなさい。
それでも、お兄ちゃんは私を妹として大切にして、見捨てずにいてくれた。
ありがとう。
「……」
ここまで読んだとき、正直、何とも言えない気持ちがこみ上げてきた。
切なくて、複雑で、嬉しくて……いろんな感情が混ざり合い、どう反応すればいいのかわからなかった。
そして、カードの次の段落に目を落とす。
『お兄ちゃん、十七歳のお誕生日おめでとう。
あと一年で大人になるんだから、もう無茶しちゃ駄目だよ?
高校二年の一学期に、喧嘩をして転校を勧められたって聞いたとき、美杏、すごく心配したんだ。
お兄ちゃんが今みたいになったのは、私のせいだってわかってるけど。
お兄ちゃん、美杏のことは、お兄ちゃんの責任じゃないよ。どうか、気に病まないで。
私は、お兄ちゃんを許すよ。
だから、お兄ちゃんも私を許して──それから、自分のことも許してあげて。
もう、過激なことをしなくてもいいんだよ?』
「…………」
自分を許せ、か……
驚いた。
顔も合わせず、何年もメッセージのやり取りしかしていないのに、どうして俺の気持ちがわかったんだ?
まさか、超能力でもあるのか……?
『美杏も、ずっと苦手なことを克服しようと頑張ってるよ。お兄ちゃんとお父さんが出かけている間に、部屋から出てみたり、電話でカウンセラーの先生と話す練習をしたりしてるの。
美杏のことは、美杏が頑張るから。
お兄ちゃんは心配しないで、もっと自分のことを大切にしてね。
ここ何日か、何かで悩んでるみたいだね。何があったのかはわからないけど、頑張って。
お兄ちゃんなら、きっと大丈夫!
──お兄ちゃんの願いが叶いますように 美杏』
「……」
カードを閉じた。
胸の中はぐちゃぐちゃで、相変わらず、どんな顔をすればいいのかわからない。
小さくて、臆病で、弱くて、守ってやらなきゃいけないと思っていた美杏が、自分から部屋を出て、逆に俺を気遣ってくれるなんて……
元の未来では、こんなことはなかった。
この数日の出来事が、あいつに影響したんだろうか?
……いや、それだけじゃないと思う。
あいつはずっと、俺の知らないところで頑張っていたんだ。俺に見えていなかっただけで。
俺が撃たれて入院したことが、背中を押すきっかけにはなったのかもしれない。
それでも、こんなことがなくたって、いつかは自分の力で部屋を出ていただろう。
ほんの少しずつでも、確かに前へ進んでいる。
この何年か、世話をしてきたことは、無駄じゃなかったんだ。
ほっとしたところで、カードの裏に、黒いペンで書き足された一文を見つけた。
『PS.本当は、誕生日の朝に直接渡すつもりだったんだけど、お兄ちゃんが変なことをしてるのを見ちゃって、思わず部屋に逃げ帰っちゃった。
……エア友達と遊ぶのはいいけど、ほどほどにしてね?』
「は……はは……ははは……」
乾いた笑いが漏れた。
声はかさついていたけど、心は潤っていた。
俺がルビーと「喧嘩」していたあの朝、美杏が部屋の入り口にいたのは、カードを渡そうとしていたからだったのか……
親父だけじゃない。
妹も、黙って俺を気にかけてくれていたんだな。
いろいろあって、普段はあまり話さないけど、ちゃんと互いを心配している。
家族って、こんなに温かいものだったんだ。
俺は、一人じゃなかった。
長男なんだから、背負わなきゃいけないことは、当然いろいろある。
だけど、一人でいるわけじゃない。俺を気にかけてくれる家族がいる。
そう気づいた途端、胸に何かがこみ上げてきた。
俺は左手で顔を覆い、黙り込んだ。
ルビーがそっと左隣へ飛んできて、丸みのある白い肩を寄せた。
互いに触れることはできない。それでも、温かい空気に包まれているような気がした。
「何してんだよ、ルビー……?」
「広志さんを泣かせようとしてるの」
「……」
「今、すごく感動してるんでしょ? 強がらないで。泣いたら、少し楽になるよ? この使者様がそばにいるんだから」
「お前、ほんとタチ悪いな」
今さらわかった。
ほかはともかく、こいつ、人を泣かせるのは得意らしい。
そんなことされたら……泣きたくなるじゃねえか。
まあ、泣かなかったけどな。
高橋広志は、意地でも格好をつけたい男子高校生だ。
妹からお礼の手紙をもらったくらいで感動して泣くなんて、格好悪すぎる。
(※生成AIを使用して制作した挿絵です。)
「本当は、ずっとこんなふうに救われたかったんでしょ? 広志さん」
「……」
「自分の正義にそこまで固執するのは、妹さんを救えなかった自責の念と、からかわれたときの心の傷があるから。あのとき傷ついたのは妹さんだけだと思ってるかもしれないけど、広志さんだって、傷だらけだったんだよ」
「……」
「誰かに助けてほしかったのに、自分を救ってくれるヒーローは、いつまで待っても現れない。妹さんは、日に日に壊れていく……どうにもできないもどかしさや失望が積み重なって、自分で立ち上がるしかなくなった。最後には強くなれたけど、心の傷は、ずっと癒えないままだった。だから、似たようなことがあると、極端な行動に走りやすくなるんだよ」
「……はぁ。お前の言う通りなのかもな」
未来の篠原が、テレビの中でしていたスピーチを思い出した。
俺の過激な行動は「かつて虐げられたことへの反動」だと言っていた。
今ならわかる。まったく、その通りだった。
そうだ。
いじめるやつらに逆らっていたのは、純粋な正義感からだけじゃない。
どこかで、鬱憤を晴らしていたのかもしれない。
何の鬱憤かって?
自分も、いじめられたことがある。その鬱憤だ。
だから、俺は最初から、正義の味方なんかじゃない。「黄金の精神」があるなんて、買いかぶりすぎだ。
「でも、もう十分じゃない? 広志さん」
「……」
「妹さんは、自分は大丈夫だって言ってくれた。広志さんの責任じゃないって言ってくれた。だから──そろそろ、自分を責めるのはやめてもいいんじゃない? もう、そこに囚われていなくてもいいんだよ」
ルビーの声は、優しかった。
俺は顔を覆ったまま、表情を見られないようにしていた。
それでも、口元には自然と笑みが浮かんだ。
「……不思議だな、ルビー」
「?」
「知り合って、まだ何日も経ってないのに、一生一緒にいたみたいな気がする。……いつも、俺の気持ちをぴたりと言い当てるよな。俺より、俺のことをわかってるみたいだ」
「当然でしょ。最初に言ったじゃない。この使者様は、広志さんの鼻毛の本数まで知ってるんだから」
「そんなこと、誰に聞いたんだよ?」
「神様にもらった資料に書いてあったの」
「……」
「過去も、どんな人生を歩んできたかも読んだんだから、何に悩んでるかだってわかるよ。広志さんって、内側にはいろいろ抱えてるくせに、周りには全然話さないでしょ。だから、こうやって知るしかないんだよね」
からかうような言い方だったけど、声はとても柔らかかった。
ルビーは、ピンク色の小さな頭を俺の肩に預けた。
やっぱり感触は何もない。
それなのに、癒やされている気がした。
ああ、そういうことか……
本当に自分を理解してくれる人に出会うと、こんな気持ちになるんだな……
今、鏡を持ってこられたら、きっと俺は、救われたような、晴れやかな顔をしているんだろう。
──霞も、俺に出会ったとき、同じ気持ちだったのか?
今になってようやく、あいつが俺にあそこまで夢中になった理由がわかった。
世の中には、いくらでも人がいる。
なのに、どうしてよりによって、高橋広志を選んだのか?
それは、たまたま俺が、あいつを救った人間だったからだ。
この世界でただ一人、あいつの心の奥まで入っていけた人間だったから。
今、ルビーが俺にしてくれているのと同じように。
隣の天使候補生を、そっと見た。
楽しそうに鼻歌を歌い、白くすらりとした脚を揺らしている。無邪気な子供みたいだった。
俺の肩に頭を預けているせいで、ピンク色の髪のつむじが、目の前に見えた。
もし体があったら、どんな髪の匂いがするんだろう。ふと、そんなことを考えた。
左手を上げ、垂れたピンク色の髪に触れようとした──
だけど、手はすり抜けた。
「……」
呆然としたまま、手が宙に止まる。
ルビーは俺の動きに気づかず、話し始めた。
「実はね、私、広志さんのこと、すごく尊敬してるんだ」
「……?」
「だって、広志さんが死んだあとのお葬式では、すごくたくさんの人が死を惜しんでくれて、祈ってくれる人もすごくたくさんいたんだ。きっと、今まで広志さんが助けてきた人たちなんだろうね」
「……」
「前に、神様に選ばれたのは運がよかったからだって言ったけど、本当の理由はそれなんです。広志さんが積み重ねてきた徳が、もう一度挑戦する機会につながったんですよ」
「そうだったのか……」
「そうです。人間界の時間を巻き戻すのは、大変なことなんですから。たった一つの魂のために、そこまですることは滅多にないんですよ。広志さんには、それだけの幸運が巡ってきたんです」
そこで、ルビーは俺の肩から頭を離した。
白く整った顔を上げ、眩しいほど綺麗な桜色の瞳で、俺を見つめる。
「──だから、みんなの気持ちを無駄にしちゃ駄目だよ?」
「……」
「委員長さんの人生が変わるのを止められなかったから、この使者様の点数は、かなり引かれちゃっただろうね。やれやれ、合格は危ないかな? でも、どうなっても、広志さんには生きていてほしい。これは任務とは関係なく、私自身の願いだ」
「ルビー……」
「霞さんから、メッセージが来てるんでしょ?」
温かな口調が途切れ、ルビーは真剣な顔になった。本題に入るつもりらしい。
俺は頷き、スマホの画面を開いた。
霞からのメッセージが、何百件も並んでいる。「もう一度話せない?」「どこにいるの?」。内容は、そんなものばかりだった。
「広志さん。今、何をすればいいか、言ってもいい?」
「……?」
「スマホの電源を切って、あの子には返事をしないで、しばらくどこかに身を隠すの。準備が全部整ったら、あの子には黙って、家族と一緒に遠くへ行って」
「……」
「最初から、そうすればよかったんだよ。別れ話なんかする必要はなかった。世界はこんなに広いんだから、何も言わずにいなくなれば、あの子だって見つけられないでしょ? これが、この使者様が提案した、いちばん危険の少ない方法だよ」
だって──付き合うには、二人の同意がいる。だけど、別れるのに、二人の同意はいらない。
ルビーが提案したのは、霞に黙って、気づかれないうちに姿を消すことだった。
それで、すべて終わりにする。
「広志さん、もう一度言うよ。いつまで経っても別れられない原因は、広志さんにあるの」
「……」
「方法を知ってるのに、やろうとしない。黙っていなくなるのは、無責任だと思ってるの? でもね、それは相手によるんだよ」
ルビーの口調が、さらに真剣になった。
「あの子は、最初からまともじゃなかった。付き合った長さも、想いの深さも関係ないの。そもそも、話し合ってどうにかなる相手じゃないんだよ。だから、逃げたって、誰も広志さんを責めたりしない」
ルビーは、きっぱりと言った。
俺は、迷っていた。
接触せず、話し合いもせず、霞の世界から消える。あいつが、俺を見つけられないように──
確かに、それがいちばん安全で、確実な方法だ。
危険な恋人から逃れるために、似たようなことをするやつもいる。
正直、未来の五年間で、何度も考えた。
親父のほうには難しい事情もあるだろうけど、全部正直に話せば、俺のために仕事を辞めてくれるだろう。
それでも、俺は一度もそうしなかった。
人に責められるのが怖かったわけじゃない。別の理由があって、この提案を受け入れられなかったのだ。
あいつは──霞は、病んでいるけど、心の底から俺を愛している。
やり方が過激で、歯止めが利かなくて、不器用でも……
それは、あいつの偽りのない想いであり、すべてを懸けた愛なんだ。
そんな気持ちを、見捨てろと言われても……どうしても、忍びない。
ある日、俺が突然いなくなったら、あいつはどうなる?
間違いなく、壊れるだろう。
俺をすべてだと思っているあいつは、誰よりも深く落ちて、誰よりもひどく傷つく。
突然いなくなったことを信じられず、途方に暮れながら俺を捜し続け、抜け殻みたいになって、帰りを待つ。
その先の人生で、ずっと、ずっと──
そんなの、あまりにも哀れすぎる。
そう思うと、どうしても、あいつを捨てる決心がつかなかった。
本当に別れるにしても、せめて、自分の口で伝えるべきじゃないか。
あいつの中で、この恋に終止符を打ってやりたい。何もわからない空白だけを残すんじゃなくて。そうしなきゃ、あいつは新しい人生を始められない。
俺は、考えていることを全部話した。
案の定、返ってきたのはルビーのため息だった。
「ここまで来ても、まだあの子の心配をするんだね。そういうところが甘いんだよ、広志さん」
「……」
「三百二回も失敗したこと、思い出してよ。そんな生ぬるいやり方で別れられるなら、この使者様は、ここにいないんだから」
「……はぁ。お前の言う通りだよ、ルビー」
「最初からそう言ってるんです。余計な優しさは捨てて、薄情な男になることも覚えて」
「……」
「広志さん、あなたは優しいクソ野郎です」
容赦のない言葉だった。だけど、その声には、少しの呆れと優しさがにじんでいた。
「ちゃらんぽらんに見えて、本当は真面目で、すぐ情にほだされる。でもね、何事にも限度があるんだよ。あの子がしてきたことを考えてみて。そんな相手に、同情する必要がある?」
「はぁ……」
言いたいことは、わかってるんだよ。
襲われた委員長。未来の五年間に、脅されていたかもしれない同級生たち──
霞が、越えちゃいけない一線を越えたのは、間違いない。
俺だけに向けられるならまだしも、ほかの人まで巻き込むなんて、許せなかった。
ルビーの言う通りだ。
こんなやつに、同情する必要なんかない。
ただな……どうしても、心の底から憎めないんだ。
腹は立つ。
それでも、嫌いになれない。
振り切りたいのに、放っておけない。この気持ちを、うまく言葉にできなかった。
霞はほかの人にはひどいやつだけど、俺にだけは、とことん優しい。
信じられないくらいに。俺が、恋に落ちてしまうくらいに。
憎もうとするたび、あの頃の思い出、幸せだった時間、あいつの笑顔、俺のためにしてくれたこと……
いろんな記憶が浮かんできて、心を引っ張る。どうしようもなく、揺れてしまう。
わかってる。この矛盾こそが、俺を死なせた元凶なんだ。
「広志さん、もしかして、まだ霞さんのことが好きなの?」
ルビーが、不思議そうな顔をした。
「いや」
首を横に振り、それから続けた。
「ただ、どうしても考えちまうんだよ……」
「……何を?」
「ほら、俺はあいつと別れたって、親父と妹が気にかけてくれるだろ? 一応、お前も入れとくよ、ルビー」
「……」
「何があっても、お前らは俺の味方で、見捨てずにいてくれる──でもさ。考えちまうんだ。あいつは、どうなんだろうなって」
顔を上げ、天井の明かりを見つめた。
ただ、白い。何もない。
その空っぽの世界は、初めて会ったときの霞みたいだった。
孤独で、何もなかった。
「俺を失ったら、あいつには何が残るんだ?」




