EP.21 偏執の始まり。空っぽな彼女。
夢。
これは、夢だ。
見知らぬ教室に立っていた。周りにいるのは、小学生ばかり。
自分の小さな手を見下ろした途端、これが小学生の頃の光景だとわかった。
──高橋広志。
この名前のせいで、当時の俺はからかわれていた。
スケベだの、足が臭いだの、ひげが生えてるだの。
そう、『クレヨンしんちゃん』の「ひろし」と同じ扱いだ。
そのとばっちりで、美杏まで自分のクラスで「みさえ」と呼ばれていた。
妹なのに、なんで嫁の名前なんだよ。小学生の理屈は、よくわからない。たぶん、面白ければ何でもよかったんだろう。
小学生ってのは、現実とフィクションをごっちゃにしがちだ。
俺がいつの間にか野原ひろしと同一視されていたように、妹も、野原みさえと同じ「乱暴なやつ」だと思われていた。
誰にも危害なんか加えない性格なのに、「乱暴ないじめっ子」というレッテルを貼られ、少しでも周りと違うことをすれば、すぐに責められた。
クラスでの美杏の立場は、俺よりずっとひどかった。
俺はからかわれるだけだったけど、あいつには明らかな悪意が向けられていた。
馬鹿にされ、仲間外れにされ、無視される。何でもありだった。
しかも、あいつらは罪悪感すら抱かなかった。あいつらにとって、高橋美杏は悪者だったからだ。
そうして、あいつらは歪んだ正義を振りかざし、美杏へのいじめを日に日にエスカレートさせていった。
小学生のいじめを、甘く見ちゃいけない。
小学生だからこそ、卑劣なことを平気でやるし、加減も知らないのだ。
あいつらは殴ったり蹴ったりして美杏を傷つけるんじゃない。いろんな言葉や態度で、心を傷つける。わざとあいつの物を壊して、美杏が先生に叱られるよう仕向けることもあった。
四面楚歌。
美杏の味方になるやつは、誰もいなかった。
担任まで、あいつらに騙されていた。小学生にとって、それがどれだけの重圧だったか。
やがて、美杏は人を信じなくなり、心を閉ざした。
学校に助けを求めたこともある。
だけど、はっきりした証拠がないからあいつらに対しては何もできないと言われるか、先生にやんわり注意してもらうだけだった。
親父も転校を提案してくれたが、その頃にはもう、美杏は誰も信じられなくなっていた。別の学校でやり直すことさえ、怖がっていたんだ。
仕方ない。あの先生たちには、俺たち子供が何もできずにいるもどかしさなんて、わからないんだ。
あいつらにとって、小学生のすることなんて、しょせん子供のすること。大騒ぎするほどじゃないんだ。
最後には、俺も先生たちを信じるのをやめた。自分の中の正義を貫くことにしたのだ。
あれが、俺の──目覚めた瞬間だった。
心を病んだ美杏が学校へ行かなくなった、その翌日。俺はあいつらの教室に乗り込み、妹の仇を討った。
男も女も関係ない。手当たり次第に殴った。
あの頃の俺にとって、いじめたやつは有罪。見て見ぬふりをしたやつも、同じく有罪だった。
怒っていた。
いや、怒り狂っていた。
何が正しくて、何が間違っているかなんて、考える余裕もなかった。
結局、多勢に無勢で、俺は傷だらけになり、罰として立たされた。
それでも、自分の行動で、あいつらに思い知らせてやった──
高橋兄妹に手を出したら、ただじゃ済まねえぞ、と。
自分のクラスに戻ってからも同じだ。
からかってくるやつがいれば、誰だろうと暴れてやった。
そのうち、みんな口を閉ざした。俺がからかわれることは、もうなくなった。
だけど、美杏は俺ほど強気にはなれなかった。
こんなやり方で自分の意地を通すこともできず、最後までいじめられる側のままだった。
申し訳なくて仕方がなかった。
もっと早く気づいていれば、美杏を助けられたかもしれない。あそこまで深く傷つかずに済んだかもしれない。
あの日から、俺はずっと後悔していた。
どうして妹の力になれなかったのかと、自分を責め続けた。
そして、決めた。
もう二度と、仲間外れに加担しない。目の前でいじめをさせない。
たとえ、暴力に暴力で対抗することになっても。
過激だって? かもな。
だけど、俺の中には、ずっと一本の物差しがある。
他人の基準なんか関係ない。自分の目盛りでしか、物事の善し悪しを測れないんだ。
たとえやり方が間違っていても、高橋広志は、自分の中の正義を貫く──
そうしなければ、かつて何もできなかった自分を、許せないから。
/////////
夢。
また、夢だ。
景色が、小学校から見慣れた高校の教室へと切り替わった。
周りは高校生ばかりで、どいつも見覚えのある顔だった。
みんな半袖の制服を着ている。俺が転校してきたばかりの、まだ夏の暑さが残る九月頃だろうか。
騒がしさからして、今は休み時間らしい。
クラスの連中は、それぞれおしゃべりをして、たった十分の暇を潰していた。
転校してきたばかりの俺には知り合いもおらず、まだ、みんなの話に入れなかった。
俺のほかにも、この賑やかな教室で、妙に静まり返っている場所があった。
その冷たい空気だけが、教室から切り離されているようだった。
俺の隣の席──一ノ瀬霞。
すらりと背が高く、目鼻立ちの整った、綺麗なやつだった。
見た目に文句のつけようがないだけじゃなく、家も金持ちらしい。
ラノベにしか出てこないような女神級の存在に、転校したばかりの俺は、ずいぶん驚いたものだ。
そんな女が、なぜかいつも退屈そうな顔で頬杖をつき、窓の外を眺めていた。
誰も寄せつけない空気を、全身から漂わせている。クラスの連中が距離を置くのも、無理はなかった。
ときどき疑ったくらいだ──俺の周りまでこんなに静かなのは、こいつのせいじゃないのか?
霞は美人だった。
だけど、同時に変わり者でもあった。
普通、こういう勝ち組なら、わざわざ人に媚びなくたって、友達やら言い寄ってくるやつやらが、周りにうじゃうじゃいるもんだろう。
なのに、こいつはいつも、ぼっちみたいに一人でぼんやりしていた。
話しかけられても、ろくに反応しない。
何にも興味が湧かないみたいで、まるで生気がなかった。
そんな態度だから、当然、クラスでは疎まれていた。わざと無視しているやつも、少なくなかった。
だけど、霞本人は気にする様子もなく、我が道を行っていた。
新入りの俺にも、このクラスの空気はすぐにわかった。
……何ていうんだ?
「暗黙のルール」とか、「流れ」とか、そういうやつ?
こいつに話しかけたら、話しかけたほうまで変な目で見られる。まあ、そんな感じだった。
だけど、そういうものは、この高橋広志には関係ない。
新入りのくせに空気も読まず、クラスのルールを破って、俺は隣の席の女を遠慮なく眺めていた。
夏の名残の朝日が、綺麗な横顔を照らし、どこか夢みたいな美しさを生んでいた。長いまつげと、ときどき漏らすため息が、物憂げな雰囲気を際立たせる。
絵の中の少女みたいに、目を引いた。
それに──へへ。
半袖からのぞく白い腕に、夏服の似合うすらりとした姿……
こんな美人を見て見ぬふりしろって? そいつは俺の流儀じゃない。
そうして、話しかけてみたくなった。
気になったのだ。
何があったら、あんな死んだような顔になるんだ?
あんなに綺麗なのに、目には光がない。
空っぽで、諦めきったようで、まるで自分がこの世にいないかのようだった。
──孤独。
そう、孤独だ。
あいつからは、嫌というほど孤独を感じた。
皮肉なことに、本当に一人の時間を楽しんでいるやつは、あんな孤独を漂わせない。むしろ、気楽で満ち足りた顔をしているはず。
人を拒みながら、誰かに救ってほしいと願っている──そういうやつだけが、霞みたいな顔をするんだ。
俺は、その状態をよく知っていた……心が壊れる直前の妹も、同じだったから。
だから、放っておけなかった。あいつと話してみようと決めた。
最初は、俺も周りと同じやつだと思われたらしく、無視された。
一日、二日、三日……日々が過ぎていく。
この高橋広志が、諦めることなく──図々しく──話しかけ続けた末に、口から出まかせを並べる自慢の話術で、少しずつ心を開かせることができた。
学園の美人。
お嬢様。
近寄りがたい女……
みんな、いろんなレッテルであいつを決めつけていた。
だけど、実際に接してみると、思っていたよりずっと人間くさいやつだった。
泣くし、笑う。
得意なこともあれば、不器用なところもある。
周りに期待しなくなったのは、本当のあいつを知ろうとするやつが、誰もいなかったからじゃないだろうか?
誰もが一方的にレッテルを貼り、一方的に持ち上げ、羨み、妬む──
まあ。美人には、美人なりの悩みがあるってことか!
あいつが欲しかったのは、ただ、お互いに向き合える関係と、本当に心を通わせられる相手だったのかもしれない。
初めてその願いを言葉にしてやったとき、あいつは泣いた。
ようやく心の声を聞いてくれる相手に出会えたみたいに、救われたような顔をした。瞳には光が戻り、幸せそうに微笑んだ。
それをきっかけに、俺と霞の距離は一気に縮まった。
あいつの隣は俺の指定席。そんな認識が、クラスにも定着した。
──そうだ。
一周目の俺は、あいつを無邪気で、優しくて、気立てのいい女だと思っていた──
自分が見ていたのは、氷山の一角にすぎないとも知らずに。
付き合いが深まるほど、あいつの本当の顔は、わからなくなっていった。




