EP.25 脱獄
外の様子を見られる、とある情報員によると、俺はここに閉じ込められて、丸一週間になるらしい。
あの日、霞に意識を奪われ、目を覚ましたときには、このバス・トイレ付きの部屋にいた。
窓はセメントで塞がれ、壁には古い一体型エアコンが一台だけはめ込まれていた。
明かりはなく、自分の手さえ見えない。
一瞬、地獄にいるのかと思ったが、エアコンに小さく表示された温度の数字を見つけて、ようやく、ここがまだ人間の世界だとわかった。
部屋には照明のスイッチもあったけど、何度押しても反応しない。
どうやら、明かりをつけるかどうかは、完全に霞の手に委ねられているらしい。
あいつがいなければ、部屋は真っ暗だ。おかげで、トイレに行くにも手探りだった。
まあ、明かりがあったところで、何もできないんだけどな。
ここには最低限の家具しかなく、暇を潰せるものが一つもない。スマホやゲームはもちろん、テレビも新聞もなかった。
霞いわく、これは訓練なんだそうだ。あいつがいない間は何もできず、あいつのことだけを考えるようにするための。
はは……狂ってる。
どうしようもなく狂ってる。
だけど、効果はあった。
ここに放り込まれたおかげで、孤独と退屈こそが、何より致命的な毒なんだとわかった。
こんな環境に長く置かれれば、おかしくなるのも時間の問題だ。きっと、それが霞の狙いなんだろう。
俺の世界に、あいつしかいなくなる。
毎朝、目を覚ますたびにあいつを待ち望み、あいつだけが、俺の解毒剤になる──
はぁ。『キャスト・アウェイ』の主人公が、どうしてバレーボールを友達にしたのか、ようやくわかったよ。
結局、人間は群れで生きる動物なんだ。
他人と言葉を交わすことで、自分というものを保っている。それができなきゃ、混乱して、おかしくなる。
幸い、俺にはバレーボールで友達を作る必要がなかった。
幽霊の友達兼情報員が、そばにいてくれたからだ。
ルビー。
突拍子もない性格で、空気の読めないことばかり言う天使候補生。
今は、その存在に、誰よりも感謝していた。
「全部確認できたか、ルビー?」
真っ暗な空間に向かって問いかける。
闇の中から、聞き慣れた声が返ってきた。
「うん。でも、本当にやるの? 広志さん」
「当たり前だろ。ここで死ぬのを待てっていうのか?」
「このまま待ってたら、警察が見つけてくれるかもしれないよ?」
「俺も考えたさ。でも、もう一週間だぞ。何の動きもないってことは、あまり期待できないだろ。とにかく、自力で逃げるしかないんだよ」
「うーん……」
「それに、本当に警察が来たら、あいつ、俺を道連れにするかもしれない。そういうことをやりかねないんだ」
どっちにしても、何もせずに死ぬのを待つなんて、この高橋広志の流儀じゃない。
少しでも望みがあるなら、その可能性に賭けるべきだ。
右腕を回してみると、筋肉の動きに引っ張られて、肩に激痛が走った。七日程度じゃ、回復にはまるで足りないらしい。
それでも、やるしかない。
片腕だけで、ここを出るんだ。
だけど、どうやって?
ドアには頑丈な鍵がかかり、窓は塞がれている。
トイレにも通気口はない。外につながる場所なんて、どこにもなさそうだ──
こんな牢獄みたいな部屋から、どうやって逃げ出せばいい?
俺は、動いている一体型エアコンに目を向けた。温度表示は、快適な二十四度のままだ。
霞も思いつかなかった突破口が、そこにある。
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ルビーは、壁に行く手を阻まれない。だから、この間、周りの様子をできる限り調べてもらっていた。
あいつによると、ここは七階建てのビルで、俺がいるのは最上階らしい。
しかも、普通のオフィスビルやマンションじゃない。ヤクザの拠点だった。
一階は、一見普通に営業している宝飾店。二階から上は、ヤクザの事務所になっている。
具体的に何をしているのかはわからないけど、まともな商売じゃないのは確かだ。
五階までは仕事場で、六階は丸ごと居住用。七階は倉庫や空き部屋になっている。
俺が閉じ込められているのは、その七階の空き部屋だ。
建物自体は新しく、ここ数年で建てられたものなんだろうか。
廊下のあちこちに監視カメラがあり、警備には隙がない。
それだけじゃない。
外部の勢力が入り込むのを防ぐためか、二階から上では、黒服の警備員が何人も定期的に巡回しているらしい。
こんなところから、誰にも気づかれずに逃げ出すなんて、ほとんど不可能だ。
部屋の鍵を開けられたところで、廊下には黒服が大勢待ち構えているだろう。
中を通って逃げられないなら、別の道を探すしかない。
──外からだ。
そう、外。
ビルの外側──つまり、外壁だ!
俺の計画は、一体型エアコンを取り外し、その穴から外へ出て、各階の足場を使いながら、一階ずつ下りていくというものだった……三階くらいまで下りれば、あとは飛び降りられるんじゃないか?
大丈夫だ。
ルビーが確認したところ、六階には立てるベランダがある。そこから三階までも、エアコンの設置台を足場にできるらしい。
俺の運動能力なら、きっといける。
どうせ、どっちにしても死ぬかもしれないんだ。
こんな場所で死ぬくらいなら、落ちて粉々になったほうがましだ。
背水の陣の覚悟で、さっきステーキを食ったときに隠しておいたナイフを取り出した。
温度表示のかすかな明かりを頼りに、手探りでエアコンのネジを回す。
一体型エアコンは大きくて重そうに見えるけど、実際は主に二本のL字金具で壁の開口部の枠にネジ留めされ、あとは両側のパネルと少しの隙間埋め材で固定されているだけだった。
それを外せば、本体を丸ごと室内に引き込めるはずだ。
ステーキナイフは、やっぱりドライバーじゃない。使いづらい上に、利き手でもない左手で作業しているせいで、刃先が何度も十字の溝から滑り、かすかな金属の擦れる音がした。
ようやくネジは緩んだけど、エアコンはまだ、がっちりとはまっていた。
続けて、両側の隙間に沿って刃先を差し込み、力を入れてこじったり、切ったりして、スポンジ材と古いテープを剥がしていく。
「ふぅ……」
汗を拭った。
これで、ようやく準備ができた。
問題は、ここからだ。
一体型エアコンは、少なくとも三十キロはある。この大きさからすると、五十キロ近いんじゃないか?
両手が使えれば、少しずつ運べるかもしれない。だけど、今は片手しか使えないんだ。そのまま落とすしかない。
室内に引き込んでも、受け止められるわけがない。床に叩きつけることになる──当然、ものすごい音がするだろう。
気づかれないよう、俺はそっとベッドをエアコンの下へ移動させた。その上に落とせば、衝撃と音を吸収してくれるはずだ。
「広志さん……!」
闇の中で、ルビーの声がした。
ドアを見ると、下の隙間を影が横切った。
誰かが部屋の前を通ったらしい。警備員だろうか。
駄目だ。
もっと慎重にやらないと。
エアコンの穴から逃げるつもりだとバレたら、本当に打つ手がなくなる。
俺は暗闇に向かって、親指を立ててみせた。ルビーを安心させるためでもあり、自分を安心させるためでもあった。
右手を動かすと、抗議するように肩が激しく痛んだ。
できれば使いたくない。
だけど、もう、そんなことを言っていられなかった。
歯を食いしばり、無理やり右腕を動かして、両手に力を込める。
重いエアコン本体が、室内へ動き始めた。
そのままベッドに落とすつもりだった。
だけど、さっき通りかかった警備員のことが頭をよぎり、落ちる瞬間、無理をして支えてしまった。少しでも、落下の勢いを弱めるために。
「………………」
ドアの外に、動きはない。
どうやら、うまくいったらしい。
不思議なものだ。
アドレナリンのせいだろうか。右肩の痛みが抑え込まれたみたいで、その代わりに、力が次々と湧いてきた。
狭い穴から、久しぶりの日差しが部屋に差し込んだ。
青い空と白い雲が、エアコンを外した穴に切り取られ、小さな長方形を作っていた。
今は昼だったのか。
穴に顔を寄せ、外の空気を深く吸い込んだ。
──自由の匂いだ。
かすかに車の排気ガスも混じっていたけど、それでも、胸が熱くなるのを抑えられなかった。
「広志さん、本当にやるの? ここ、七階だよ?」
ルビーが心配そうに尋ねた。白い顔に、不安があふれている。
俺はあいつを見返した。
一瞬、何を言えばいいのかわからなくなった。
胸の中に、いろんな感情が湧いてきた。
──この子なんだ。
記憶が戻ってから、ずっとそばにいて、支えてくれた女の子。
監禁されている間も、そうだった。
こいつがそばにいなかったら、一日中、耳元で騒いでくれなかったら、とっくに耐えられなくなっていたかもしれない。
こいつと一緒にいると、いつも気持ちがすっとする。
うるさいし、面倒くさいと思うこともあるけど、心の中は、いつも温かかった。
霞は、今の俺には気になる相手がいると言った。実は、自覚があった。
だけど、その相手は篠原じゃない。ルビーだ。
──この気持ちは、「恋」なのか?
…………
わからない。
だけど、一つだけ確かなことがある。
「ルビー」
空を見つめながら、俺は言った。
「お前がいてくれることも、お前がくれたものも、全部、感謝してる」
「広志さん……?」
「前に病院で美杏からカードをもらったとき、お前、俺自身も知らなかった本音を教えてくれた。だから、そのお返しに、今度は俺が、お前自身も知らない本音を、一つ教えてやるよ」
きょとんとするルビーを前に、俺は格好をつけて、口の端を上げた。
「──ただし、ここから無事に逃げ出せたらな!」
言い終えると、エアコンを外した穴から外へ這い出した。
一週間ぶりに、ようやく、この檻の外へ出たんだ。
──さて、派手に暴れてやろうぜ!
この高橋広志が、誰かの手のひらの上で踊らされるだけの操り人形なんかじゃないってことを、行動で証明してやる!




