EP.19 人間の特権
「結局、最悪の展開になっちゃったね、広志さん」
店を出るなり、背後からルビーの皮肉が飛んできた。
だけど、相手をしている暇はない。
スマホを取り出し、あのビュッフェレストランまでの最短ルートを調べて、走り出した。
学校が終わるのは五時。
霞との食事に一時間かかったから、今は六時だ。
ビュッフェのディナー営業は五時半から。
篠原は何時に予約していたんだ? キャンセルしに来たのは何時だ?
そのあとは? まっすぐ家に帰ったのか?
それとも、どこかで夕飯を食ってから帰ったのか?
くそ。情報が少なすぎる。
襲われた正確な時刻も、場所もわからない。
もう、何もかも手遅れなんじゃないか?
さらに足を速め、人波を縫って走った。通行人にぶつかっても、振り返らなかった。
ルビーは両手を頭の後ろに回し、仰向けに浮かびながら、必死に走る俺の横をついてくる。
「さっきは自信満々にこの使者様の提案を断ったくせに。あんなふうに霞さんを刺激しちゃって、これからどうするつもり?」
「……」
「ねえねえ、聞いてるの、人間? あんたの命と、この使者様の出世がかかってるんだよ! あの子、今頃もう刃物を研いでるかもね?」
「……」
「ふん。広志さんがわけのわからない意地を張るから、この使者様の合格がどんどん遠のいちゃうじゃない。試験に落ちたら、どう責任を取ってくれるの?」
「……」
「何とか言ってよ! こら──!」
騒ぎ立てるルビーを、俺は無視した。さっき、こいつが俺の助けを求める目を無視したのと同じように。
しばらく走ってデパートに入り、エレベーターを待つこともせず、エスカレーターを駆け上がった。息も絶え絶えになりながら、ようやく七階のビュッフェレストランにたどり着く。
……篠原の姿はない。
呼吸を整える余裕もなく、今にも息絶えそうな声で受付に尋ねた。
「ここに、『篠原翼』って人が、予約をキャンセルしに来ませんでしたか?」
返ってきた答えは──
「二十分ほど前にいらっしゃいました」
くそ、二十分前って、俺があの店を出た頃じゃねえか!
やばいやばいやばい!
心の中で叫び、ちぎれそうな足を引きずりながら、七階から一階まで必死に駆け下りた。デパートの入り口を飛び出す。
辺りは人であふれ、道路では車がひっきりなしに行き交っていた。
その光景を前に、俺は途方に暮れた。
そうだ。こんなに広い街を、たった二本の足でどう探せばいい?
この人の海から、どうやって一人の女の子を見つけ出すんだ?
篠原の電話番号は知らない。ほかに連絡する手段もない。
表向きは仲が悪かったから、LINEすら交換していなかった。
こんな状態で探すなんて、砂漠で針を探すようなもんじゃねえか?
それでも足を踏み出し、必死に記憶を探った──そうだ。覚えているはずだ。
あいつが襲われた場所を、俺は覚えているはずなんだ。
篠原のことで罪悪感を抱いていたのなら、この高橋広志が、事件を気にかけなかったはずがない。現場を見に行こうと思ったはずだ。
どこだ?
いったい、どこだった?
歩道の真ん中で頭を抱え、記憶を掘り起こそうとする。脳細胞を目覚めさせようと、何度も頭を掻きむしった。通りすがりの人から見れば、薬の禁断症状が出ているやつと大差なかっただろう。
幸い、恥を捨てて思い出そうとした甲斐はあった。
頭の中を稲妻が走り、映像が少しずつ鮮明になる……
「!!」
そうだ! わかった!
グーグルのストリートビューを開き、記憶の中の光景と照らし合わせる。篠原が襲われたのは、近くの住宅街だった。
(よし。今から行けば、十分以内には着ける……!)
頷き、深く息を吸って、踏み出した──
ゴンッ!
壁にぶつかり、足が止まった。
…………
壁というか、電柱だった。
「ルビー。どういうつもりだ……?」
鼻を押さえ、腹立たしげに問い詰める。
俺を電柱にぶつからせた張本人は、気楽そうに肩をすくめた。
/////////
現在、六時半。
篠原が予約をキャンセルしてから、もう三十分近く経っているはずだ。
つまり、いつ襲われてもおかしくない帰り道を、あいつはもう、かなりの時間歩いていることになる。
一分一秒を争うこの状況で、ようやく襲撃の場所を思い出し、急いで向かおうとしたのに──
ルビーがわざと目の前に立ちはだかり、視界を塞いだせいで、うっかり電柱にぶつかってしまった。
いくら手で追い払おうとしても、ルビーはどかない。どうしろっていうんだ?
こいつは霊体だけど、半透明ってわけじゃない。本気で目隠しをしようと思えば、俺にはどうすることもできなかった。
「ルビー。どういうつもりだ……?」
鼻を押さえ、腹立たしげに問い詰める。
「広志さん。篠原さんが襲われた場所に行くつもりなんでしょ? そこに行って、何をするつもり?」
「何って、決まってるだろ。襲われるのを止めるんだよ」
「はぁ。やっぱりね」
ルビーは気楽そうに首を振り、肩をすくめ、おまけにため息までついた。
「広志さん、正直に話すね。神様がこの使者様に与えた任務は、あなたと霞さんの恋愛問題を解決することだけじゃないんです。もう一つあるんですよ」
「もう一つ?」
「そう。あなたが、ほかの人の人生をかき乱すのを止めることです」
ルビーはきっぱりと言った。宝石のような大きな瞳には、強い意志が宿っている。
「俺が、人の人生をかき乱すって?」
「そうです。神様はあなたのために時間を巻き戻し、記憶の一部をまとめて渡して、やり直す機会を与えた。でも、それは自分が死ぬ未来を変えるためのものなんです。ほかの人の未来まで変えることは、勧められていないんですよ」
「…………」
「運命は、とてもつかみどころのないものです。ほんの小さな変化が、大きな違いを生むこともある。まして、一生を左右するような出来事なら、なおさらです。ここで篠原さんを助けるのは、善意からかもしれない。だけど、運命が変わったあの子が、元の未来よりも幸せになれると、どうして言えるんですか?」
「何……?」
顔に傷を負わなかった篠原のほうが、傷を負ったあいつよりも不幸になるかもしれないっていうのか?
そう尋ねると、ルビーは一言、答えた。
「わからないんです」
「……」
「わからないからこそ、軽々しく手を出してはいけないんです。広志さん、よく考えて。五年後のあの子が、一度でも『もし』と言ったことはあった?」
「……もし?」
「『もし、あのとき襲われていなかったら』『もし、顔にこの傷がなかったら』──そんなことを言ったことがあった?」
「……」
覚えている限りでは、確かにない。
「広志さんなら、わかるはずです。ここで襲われても、あの子は自分の力で、その過去を乗り越えられる。逆に言えば、その過去がなければ、五年後のあの子もいないんです」
「…………」
「『成長』とは、いろんな結果の積み重ねです。いいことも、悪いことも、すべてに意味がある。広志さんだって、今までたくさん間違えてきたでしょ? 悔いの残ることもあったよね? どうしようもないこともあったよね? 泣きたいのに泣けないときもあったよね? そういう経験があったからこそ、今の広志さんがいるんです」
そこまで言うと、ルビーは寂しそうに笑った。
その表情に、ゲームセンターの前で立ち止まっていたときのあいつを思い出す。
「──正直、私は、あなたたち人間が羨ましい」
「……?」
「肉体を持って、この世に生まれて、こんなにもたくさんの苦しみを自分で経験して、そこから成長できる……神様に創られた私たちには、その資格がないの。本を通して知ることしかできない」
「……」
「あなたたちには、『苦しむ』権利がある。それは、人間だけの特権なんだよ──広志さん」
ルビーは笑みを消し、真剣な顔になった。
「この先、あの場所に行くかどうかは、広志さんが決めて。この使者様は、もう邪魔しない。どうせ、言って止まるような人じゃないでしょ?」
「……」
「ただ、私は、どんな経験にも意味があると思う。それを全部、否定するべきじゃない。人生の途中で傷つくのは、必ずしも悪いことじゃないんだよ。ときには、誇りにさえなる。その傷跡も、その人の一部になっていくんだから」
俺が揺らいでいるのを見て、ルビーは優しい声で言った。
「まさか、あの子の苦しみを奪ってしまうつもりなの?」




