EP.18 決裂
篠原が襲われたのは、ある食べ放題のレストランの近くだった。
俺の知る限り、あいつは倹約家で、普段は家で食事を済ませ、めったに外食をしない。
それなのに、なぜかビュッフェレストランに予約を入れていた。
そして、これまたなぜか、食事をする前にその予約をキャンセルした。
厄介なことに、その店には妙な決まりがあった──当日に予約をキャンセルして予約金を返してもらうには、本人が直接店へ行って手続きをしなければならないのだ。
だから、篠原はあの日、放課後に店へ足を運んだ。
そして、キャンセルの手続きを終え、一人で家へ帰る途中で襲われた。
──本当は、わかっている。あいつは俺の誕生日を祝うために、予約してくれたんだ。
あの店のチラシは見たことがある。「三月生まれの方は誕生日当日半額! お誕生日会はサービス料無料、ミニケーキもプレゼント」と書いてあった。
何より、一周目のあの日の放課後、委員長も今日と同じように、俺をどこかへ誘おうとしていた。
ただ、あのときはすでに霞と別の予定があったから、俺はやんわりと断ったのだ。
俺の誕生日を祝おうとしなければ、あいつはあんな目に遭わずに済んだ。
あるいは、俺が誘いを受けていれば、防げたかもしれない……
あの事件を防ぐ選択肢は、いくらでもあった。
どっちにしろ、あいつの顔に残った傷は、俺と無関係じゃない。
俺が悪いわけじゃない。それはわかっている。
それでも、俺が霞と楽しく高級料理を食っていた間、篠原はたった一人であの犯人と向き合っていたのだと思うと、どうしても自分を責めずにはいられなかった。
あのビュッフェは、そこまで高い店じゃない。一人四千円台で、霞が予約した店に比べれば、ずっと安かった。
だけど、委員長の気持ちがこもっていた。
勇気を出して誘ってくれたのに、その気持ちを察することもできず、断ってしまった。挙げ句、あんな目にまで遭わせてしまった自分が嫌でたまらない。
あいつは、どんな気持ちで予約をキャンセルしたんだろう。
そして、そのあと、顔に傷を負ったことを、どんな気持ちで振り返ったんだろう。
(くそ、早く行かねえと……!)
あんなに優しいやつに、もう一度あんなつらい思いをさせるわけにはいかない。
俺は立ち上がり、振り向いた──
「ヒロ? どこに行くの……?」
霞に引き止められた。
彼女はテーブル越しに身を乗り出し、片手で体を支え、もう片方の手で俺をつかんでいる。
長い黒髪が流れ落ち、その顔を覆っていた。
だけど、前髪の隙間から、ブラックホールみたいな大きな瞳が俺を窺っているのは見えた。
冷たく、執念のこもった眼差し。
俺は猫に睨まれたネズミみたいに、全身が冷え、手足がこわばった。
霞が首をかしげる。綺麗な瞳は、どこか濁っていた。
天使みたいに整ったその顔に、狂気の色がちらついた気がした。
──篠原のことで罪悪感を抱いているのは、ただ誘いを断ったからじゃない。
霞がやったんじゃないかと、疑っているからだ。
恋に目がくらんでいた時期が過ぎ、彼女の知られざる一面に気づいてから……振り返ってみると、何もかもがおかしかった。
逮捕された犯人は、篠原が嫌いだったから襲ったと話していた。
だけど、篠原は相手を知らないと言っていたし、同じクラスになったことすらない。いったい何の恨みがあるっていうんだ?
まして、顔にあんな傷を残すほどの。
熱烈に言い寄っていた相手が、愛をこじらせて憎むようになったとでも?
そうだとしたら、まず言い寄って、相手にされず、その腹いせに襲ったという流れになるはずだ。
だけど、警察の調べでは、篠原に言い寄っていた相手もいなかったらしい。
犯行の動機からして、この事件は妙だった。
理由に中身がなさすぎる。
誰かに指示されたと言われたほうが、よほど納得できた。
それに、よりによって俺と霞が付き合い始めたばかりで、誕生日を祝っていた日を選ぶなんて……どこか、見せつけるような意図を感じる。
もちろん、証拠はない。
全部、憶測だ。直感でしかない。
だけど──篠原が転校したあと、担任がそのことをクラスに伝えたとき、俺は隣の席の霞をそっと見たことがあった。
あいつの口角は、上がっていた。
ほんのわずかだったし、見間違いだった可能性もある。
だけど、みんなが委員長の身に起きたことを気の毒に思う中、霞だけは、まるで気分が沈んだ様子がなかった。
それどころか、どこか嬉しそうですらあった。ずっと邪魔だったものが、ようやく消えてくれたみたいに……
「ヒロ、どこに行くつもりなの……?」
俺の手を握り締める霞の瞳には、激しい感情が潜んでいた。
「……悪い。ちょっと具合が悪いんだ。先に帰ってもいいか?」
少しでも早くここを離れるため、俺は嘘をついた。
霞はすぐに席を離れ、心配そうに俺の額に触れた。
「どうしたの? もしかして風邪? 熱はなさそうだけど……一緒に病院に行こう?」
「い、いや、いいって。一人で行けるから──」
「駄目!」
霞の叫び声に、周りの客が何事かと目を向けた。
その視線の中で、あいつは俺にしがみついた。
「お願い。心配させないで?」
「……」
「嫌……こんなふうに、私を置いて行かないで……今ヒロに行かれたら、心配でおかしくなっちゃう……」
「……!」
くそ。
こっちは焦ってどうにかなりそうだってのに、こいつはまだ甘えたことを言ってやがる。
委員長は今にも襲われるかもしれない。
なのに、俺はこんなくだらないことで足止めを食っている。
どうすりゃここから抜け出せるんだ?
何か助言をもらおうと、ルビーに助けを求める目を向けた。
ところが、あいつはぷいっと背を向けやがった!
こ、このクソツインテール……!
あとで神様にアンケートでも渡されたら、自由記入欄にお前への苦情を書き殴ってやるからな!
「……霞、とりあえず離してくれ。みんな見てる」
「嫌! 手を離したら、ヒロがいなくなっちゃいそうだもん……」
「頼む。もう時間がないんだ。急いで行かなきゃいけないところがある」
「どこに行くの? 私を一人にして、行っちゃうの……?」
あいつは顔を上げた。大粒の涙が目にたまり、必死にすがる姿は、捨てられた犬みたいだった。
だけど、同情するどころか、疑いが湧いてきた。
「霞……お前、なんでそこまで必死なんだ?」
「…………」
「俺をここから出したくない理由でもあるのか?」
「…………」
「離せ。もう行く」
「行かせないよ? ヒロ」
不意に、霞はすがるような態度をやめ、背筋が寒くなるような笑みを浮かべた。
「あの女のところに行くんでしょ? 行かせないよ?」
「あ、あの女……?」
声が震えた。
霞は顔を寄せ、艶やかな唇を声もなく動かした。
──し・の・は・ら・つ・ば・さ。
「!!」
こ、こいつ、最初からわかって……!
「ヒロのことなら、何でもわかるんだよ?」
「……!」
「昨日、二人で道端で話してたって、教えてくれた人がいるの。ヒロ、あの泥棒猫の肩に手まで置いてたんだって。ずいぶん仲よさそうだったみたいだけど、何を話してたの?」
「お前……霞、お前……!」
信じられない。
昨日、学校を休んでいる間に、人を使って俺を尾行させてたのか!
「──でも、ヒロは悪くないよ。ヒロは素直だから、きっとあの泥棒猫に騙されちゃったんだよね。それで、私と別れたくなっちゃったんでしょ?」
「……!」
「ねえ、ヒロ……私、ちゃんと大事にしてあげられてない? あの泥棒猫と比べて、そんなに魅力がないの?」
霞はさらに強く俺を抱きしめ、胸を押しつけてきた。
自分を見てほしいとでもいうように、大きな瞳で俺を見つめ、香りをまとってすり寄ってくる。背中に回された細い指が、俺をくすぐった。
吐き気しかしなかった。
胃がひっくり返り、消化しきれていないステーキが、胃酸と一緒に喉元までこみ上げてくる。
──この女は、まともじゃない。
気持ち悪くて仕方がない。
さっきまではまだ迷いがあったが、今の霞を見て、はっきりわかった。
こいつは化け物だ。
正真正銘の、化け物だ。
このまま放っておけば、俺が殺される結末は、必ず繰り返される。
「ヒロ……お願い。私の言うこと、聞いてくれるよね?」
「……!」
「ここであの泥棒猫を選んだら──絶対に後悔することになるよ?」
「それ……どういう意味だ?」
「ふふ♥」
目を細め、何かを隠したように笑う。
何を考えているのかわからなくて、妖しくて、意地が悪い──
どうやら、俺はこの女を甘く見ていたらしい。
今までは、付き合いが深まるにつれて、俺への感情が少しずつ制御できなくなっていったのだと思っていた。
だけど──そもそも、違っていたとしたら?
霞は「あとからこうなった」んじゃなく、最初から壊れていたとしたら?
俺への想いは、付き合い始めたその日から、もう取り返しがつかないほど深かったのかもしれない。
いや、付き合う前から、そうだったのかも。
あのとき告白を断っていたら、あいつは本当に、おとなしく受け入れたんだろうか?
それとも──とっくに、狂った手段に出る準備をしていたんじゃないか?
たまたま俺が頷き、すべてが望み通りに進んだから、その狂気を表に出す必要がなかっただけ。
うまく隠していたせいで、一周目の俺は、付き合い始めてしばらく経ってから、ようやく少しずつ異変に気づいたのだ。
「……!」
思わず、数歩後ずさった。
霞は逃がさないとでもいうように、追ってくる。
目の前のあいつは、いつも無邪気で、寂しがり屋で、単純な子犬を思わせるやつだった。
だけど、今はまるで小悪魔だ。
頭がよくて、ずる賢くて、女としての駆け引きまで心得ている。
こいつ……篠原に何をするつもりなんだ?
俺に隠れて、いったいどれだけひどいことをしてきたんだ???
今思えば、大学に入ってからも、同じグループになった女子と何人か仲よくなったことがあった。
だけど、なぜか、しばらくするとみんな俺を避けるようになった。中には、授業を取るのをやめてまで、俺から離れようとしたやつもいた……
あのときの、言いたいことがあるのに言えないような、歯切れの悪い態度。まさか、あいつらも陰で何かされていたんじゃないのか?
今回の篠原の件と同じように!
そう思った途端、俺は周りの目も気にせず、霞を強引に突き放した。
「うぅ……痛いよぉ……」
床に尻餅をついたあいつは、涙を浮かべ、いかにもかわいそうな姿をさらした。
一瞬にして、非難の視線が俺に集まる。
だけど──知るか。
勝手に思ってろ!
最低な男だと思われようが、この高橋広志、こんな狂った女と一秒だってくっついていたくない。
「信じられねえよ。お前が、あんなことをするなんて……!」
「ヒロ……?」
「俺の人間関係を断ち切るためなら、汚い手を使って人を傷つけることも平気なのかよ。それじゃ悪鬼と変わらねえだろ!?」
大きく息を吸い、目の前の少女に怒鳴った。
「俺たちは、もう終わりだ。霞!」
言い終えると、俺は背を向け、その場を離れた。迷いはなかった。
後ろからは、引き止める声も、すすり泣きさえも聞こえてこない。
霞は、どんな気持ちで俺を見送っているんだろう?
怒りか?
憎しみか?
恨みか?
気になって振り返り、そっと様子を窺った──
「…………」
あいつは、傷ついた顔をしていた。
まるで、叱られた子犬みたいに。
心が折れて、力が抜けて……ただ、悲しみに沈んでいた。
(※生成AIを使用して制作した挿絵です。)
明日は2話更新します。
20:10 と 20:20 に1話ずつ公開予定です。
よろしくお願いします!




