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彼女を振っても刺されない方法って、ある?  作者: 柊弐男
第四章 封ざされた未来
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EP.16 高橋広志のBAD END、その後。

 霞があまりにもしつこくまとわりついてくるので、学校に着くなり、俺はいつものようにトイレを口実に逃げ出し、そのまま男子トイレへ駆け込んだ。


 さすがに哀れに思ったのだろうか。ルビーもようやく無視をやめ、俺のそばへ飛んできて話しかけた。


「朝っぱらから両手に花なんて、広志さんは幸せ者だね」

「……」

「この使者様の胸を揉んだだけじゃなく、彼女の胸にまで寄りかかっちゃって。やれやれ、本当に罪深い男だな~」

「いや、お前の胸なんて一ミリも触ってねぇよ」


 俺はさっさと用を済ませ、ファスナーを上げると、洗面台へ向かって顔を洗った。

 登校中のことを思い出し、思わずため息が漏れる。


 一日会えなかった反動だろうか。霞は道中、ずっと俺にべったりだった。

 腕にぴったりくっつき、鼻歌を歌いながら、俺の肩に頭をすり寄せてくる。

 人目なんてまるで気にしていない。自分はこの男のものだと、宣言しているみたいだった。

 甘い言葉をかけてきたけど、一言も頭に入らなかった。


 吐き気がする。

 こみ上げるものを抑えるだけで精いっぱいで、距離を置くことさえできない。

 会話なんて、なおさらだ。


 一ノ瀬霞、無邪気な彼女。

 一ノ瀬霞、狂おしい愛に取り憑かれた人殺し。


 そのあまりの違いに、頭がおかしくなりそうだった。

 世界が歪み、ぐるぐる回っているような気がする……

 現実感が少しずつ剥がれ落ちていく。車酔いに似た感覚だった。


「ふぅ……」


 洗面台に溜まった水を見つめる。そこには、疲れ果てた顔が映っていた。

 この情けない姿が、今の高橋広志だ。


「ねえ、ほんとに情けないね、広志さん」

「あ……?」

「もう、今朝この使者様と言い合ってた元気はどこに行っちゃったの? そんなんじゃ、みっともないよ?」


 ルビーが俺の肩を拳で小突いた──もちろん、そのまますり抜けた。


「今の霞と、五年後に俺を殺したやつが同じ人間だなんて、信じられねえんだよ……」


 俺には、一つ考えがあった。

 考えというより、願望か。


 ──全部、ただの夢なんじゃないか?


 霞に殺される未来なんて、存在しない。

 記憶にあるあの五年間は、今の高橋広志が見た悪夢にすぎない。

 そう。

 たとえば、初めて彼女ができた不安から、彼女に殺される展開を勝手に想像してしまった、とか……


「いいえ。全(・)部(・)、本(・)当(・)に(・)あ(・)っ(・)た(・)こ(・)と(・)な(・)ん(・)で(・)す(・)、広志さん」


 ルビーは俺の弱さを見透かし、その一言で妄想を吹き飛ばした。


「あの子には、今はまだまともなところも残っているのかもしれない。だけど、もうすぐ広志さんへの愛に溺れて、化け物になってしまうんです」

「…………」

「だから、この使者様から聞くけど──今のあなたに、ほ(・)か(・)の(・)こ(・)と(・)を考えている余裕があるんですか、広志さん?」


 宝石のような桜色の瞳が、俺を見据えた。いつもは表情豊かな顔も、今は厳しく引き締まっている。


 ほかのこと──篠原のことを言っているんだろう。

 委員長に関する記憶が戻ってから、確かに俺は、ずっと落ち着かなかった。

 記憶によれば、あいつは高校二年の三学期のある日、何者かに襲われる。そして、顔を台無しにされたと言ってもいいほどの刀傷が残るのだ。


 深く、長い、恐ろしい傷だった。

 あれを見たら、誰だって息を呑むに決まっている。

 いったい、どんな気持ちで刃を振るえば、女の子の顔をあんなふうに切りつけられるんだ?

 想像もしたくない……


 鼻筋を横切ったあの一撃が、あと三センチ上にずれていたら、どうなっていた?

 両目とも見えなくなっていたんじゃないか。


 胸の中で怒りが燃え上がる。

 それと同時に、不思議な感情も湧いてきた。


 そう。

 俺──五年後の高橋広志は。

 なぜか、篠原の傷に罪悪感を抱いていた。


 詳しい理由は、俺にもわからない。まだ欠けている記憶があるせいだろうか。

 俺はすべてを聞こうと口を開いた。

 だけど、ルビーはそのつもりだと察したのか、俺が声を出すより先に言った。


「──人の未来を心配するより、まず自分の心配をしたらどうなの、広志さん」

「……」

「自分が死んだあと、何が起きたか知りたくない?」


 含みのある言い方に、まんまと興味を引かれた。

 そうだ。高橋広志が死んだあと、いったい何が起きたんだ?


「『大学生が痴情のもつれで殺害、凶器はまさかのドライバー!?』って、ニュースにはそんな見出しがあふれてたよ。どう? ラノベみたいでしょ?」

「ラ、ラノベって……」

「霞さんにどうやって殺されたか、覚えてるよね? ……そう、コーヒーでも混ぜるみたいに、お腹の中をぐるぐるかき回されて、胃も腸もぐちゃぐちゃ。手口が残酷だったうえに、犯人は若くて綺麗な霞さんだったから、ものすごい騒ぎになったんだよ。広志さんが気にしてる、あのモデルより話題になったくらい」


 モデル──言うまでもなく、篠原のことだ。

 自分に待っていた未来がそこまで悲惨だったと知り、冷や汗が噴き出し、体が震えた。


 だけど、ルビーの口からは、さらに恐ろしい事実が続いた。


「あれ? あの子が、広志さんを殺しただけで終わりにしたと思ってるの?」

「……は?」

「霞さん、すごいんだよ。広志さんの息が止まったあと、首を切り離して、頭だけにしちゃったの。それを深夜の公園で膝に乗せて、キスまでして。まるで恋人とデートしてるみたいで、甘々だったよ!」

「…………」

「しかも、ナイフなんて持ってなかったんだよ? ドライバーで少しずつ突き刺したり、引っかいたりして、神経を切って、首の骨をねじって。やっとのことで頭を切り離したの。よく頑張ったよね!」

「~~~~~~!」


 くそ! こいつ、怪談を語る才能ありすぎだろ! もう漏れそうなんだけど~~!


 慌てて小便器の前へ戻り、ファスナーを下ろして構えた。いつ膀胱が緩んで、その場で漏らしちまうかわからない。

 そこでルビーは、怖がらせるような口調をやめ、真剣な顔で言った。


「ただ、あの子は結局、警察には捕まらなかったんです」

「……何?」


 捕まらなかった? そんなことあるか???


「本当ですよ。あの子は一日も刑務所に入っていないんです」

「…………」

「警察が公園に着く前に、霞さんは広志さんの頭を持って立ち去っていたんです。そして、捕まる前に死んでしまった」

「し、死んだ?」


 唾を飲み込んだ。

 強い好奇心に駆られ、真相を知ろうとするのを止められなかった。


 死んだって、どういう展開だ?

 そのあと何があった?

 俺のあとを追って死んだのか?


 俺の疑問に、ルビーは首を横に振った。


「あとを追って死ぬなんて、そんなロマンチックな話じゃないんです。霞さんは、殺されたんですよ」

「殺された?」

「そう」


 ルビーは頷いた。

 そのあと、あいつの口から出たのは、どうしても信じられない答えだった。


「あ(・)な(・)た(・)の(・)妹(・)──高(・)橋(・)美(・)杏(・)に(・)殺(・)さ(・)れ(・)た(・)ん(・)で(・)す(・)」

「────」


 激しい耳鳴り。

 周りのすべてが、一瞬で遠ざかったような気がした。


 ……何?

 美杏?

 美杏が霞を殺した?


 どういうことだ?

 俺が死んだあとの未来で、いったい何が起きたんだ???


 頭が完全に止まった。

 呆然とする俺の前で、ルビーはただ肩をすくめ、淡々と続きを語り始めた──



 /////////



 俺は黙って、ルビーの話を聞いた。高橋広志の死が、そのあと何を引き起こしたのかを。


 まず、犯人の霞。

 あれほど残酷な罪を犯したのに、警察はあいつを捕まえることができなかった。

 何らかの勢力に匿われていたらしく、いつまで経っても居場所がつかめなかったという。そのことで、世間には不安や怒りが広がった。


 頭を持ち去られたせいで、俺の遺体は揃わなかった。葬儀で「最後に顔を見る」ことさえできない。

 そういうことを気にする人もいるんだろうけど、親父は迷信を信じる人間じゃない。

 そのまま葬儀を行い、頭のない遺体を火葬した。そうすることで、少しでも悲しみに区切りをつけようとしたらしい。


 俺の告別式には、結構な人数が来たそうだ。

 事件が大騒ぎになったせいだろうか。とにかく、小学校から大学までの同級生たちが集まったという。

 遺影の前で泣きじゃくり、いつまでも涙が止まらなかったやつもいたらしい。


 皮肉なことに、それは高校以来一度も会っていなかった有名モデル──篠原翼だった。


 委員長にとって、俺みたいな「ろくでなし」は、そこまで泣いてくれるような存在だったのか……?


 そして、肝心の美杏。

 自分の妹に、そこまでの行動力があったなんて、思ってもみなかった。

 俺が死んだあと、あいつは部屋に閉じこもり、一人で霞を呼び出す方法を探っていた。

 驚いたことに、それを本当に成功させてしまったのだ。


 俺のSNSアカウントにログインして、霞を誘い出したのか? それとも、掲示板で俺になりすましたのか?

 とにかく、美杏は霞と連絡を取ることに成功し、ある廃ビルの屋上で会う約束をした。


 屋上。

 二人きり。

 向かい合う二人。


 実際にどんな言葉を交わしたのか。それは誰にもわからない。

 わかっているのは、その対面の末に、美杏が霞を屋上から突き落とし、殺したということだけだ。


 十階の高さから落ちた。生き残る確率はゼロ。

 霞の血肉は飛び散り、無残な死にざまをさらした──


 何より恐ろしいのは、命を失ってなお、折れた骨が突き出した腕で、俺の頭を抱きしめていたことだ。

 まるで女の子がテディベアを抱くように、大切そうに胸に抱えて。


 ──死(・)ん(・)で(・)も(・)な(・)お(・)、手(・)放(・)さ(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。


 あまりに悲惨で、劇的な一連の事件は、世間に大きな衝撃を与え、人々を不安に陥れた。

 そして、美杏が刑務所に入ったことで、ようやく悲劇の幕は下りた。


「…………」


 すべてを聞き終えた瞬間、小便が出た。

 いい年した男が、話を聞いただけでビビって漏らすなんて……先に小便器の前へ移動しておいてよかった。

 でなきゃ、人生にまた一つ汚点を残すところだった。


 くそ。なんだよ、そのおぞましい事件は。本当に高橋広志の未来なのか?

 『School Days』でも見てるのかと思ったぞ!


 軽い調子で考えようとはした。だけど、美杏の結末を思うと、どうしても笑えなかった。

 俺と霞だけの問題だと思っていたのに、妹まで巻き込んでしまった。それどころか、あいつの人生を変え、人殺しにしてしまったのだ。


 俺の仇を討つために、霞を殺したんだろうか。

 あの内気で小柄な美杏に、そんな激しい一面があったなんて、想像もつかない……

 とはいえ、何年もまともに話していない俺は、本当の美杏を知らない。


 だけど、外へ出られたということは、対人恐怖症もかなりよくなっていたんじゃないか?

 五年後の美杏は、ちょうど二十歳。もう大人だ。

 当然、自分の犯した罪の責任は、自分で負うことになる。


 結末はあんなに悲惨だった。

 それでも、あいつの症状が五年の間によくなっていたことには、少しだけ救われる思いがした。


「これでわかったでしょ、広志さん。もう、あなただけの問題じゃないんです」

「…………」

「このまま放っておけば、高橋家の悲劇だけでは終わらない。社会にも、大きな悪影響を及ぼすんです。そこまで影響の大きい痴情のもつれによる事件だからこそ、神様は、この使者様の力を試す課題に選んだんですよ」

「…………」

「もう一度聞くけど、広志さん。今は、ほかの人の心配をしている場合なの?」


 もう何度目かわからない忠告だった。

 そうだ。言っていることは、全部わかる。

 今は、ほかのやつに気を回している場合じゃない。


 霞は狂っている。霞は化け物だ。

 付き合い始めたばかりで、まだ関係が深くなっていない今こそ、別れるにはいちばんいい時期なのだ。

 ここを逃せば、どんどん難しくなっていく。


 ──それでも。


 同級生にもうすぐ何か起きると知っていて、しかも俺なら止められるかもしれない。

 それを、見て見ぬふりしろっていうのか?


「余計な義理人情は捨てて、広志さん。あの子のことは、あなたには関係ないんです」

「俺には……関係ない?」

「そう。篠原翼と高橋広志の人生が交わるのは、今だけ。そのあとは、どんどん離れていく。交点を通り過ぎた二本の直線みたいに、二度と交わることはないんです」

「…………」

「余計なことに首を突っ込むより、自分のやるべきことをやってよ。広志さんのバカ」


 ルビーは叱るように言った。

 厳しい口調の中にも、どこか柔らかさがある。俺の気持ちを気にかけているのがわかった。


 へえ。このピンクツインテールにも、気遣いのできるところがあるんだな。

「天使候補生」の肩書きも、まったくの飾りってわけじゃないらしい。


「……ルビー。教えてくれ。俺はどうすりゃいい?」

「ん?」

「どうすれば、霞と穏便に別れて、あの一連の悲劇を避けられるんだ?」


 真剣にあいつを見つめた。

 何も思いつかない今、頼れるのはルビーしかいなかった。


「広志さんは、死ぬまでに三百一回、穏便に別れようとしてるんだよ。理屈を尽くして話しても、本心を打ち明けても、あの子とは別れられなかった。第三者に説得してもらっても駄目。男が好きなんだって嘘をついたことまであるけど、それでも失敗したの」

「…………」


 俺、そんな嘘までついてたのか。


「そして、三百二回目のとき、広志さんは土下座して頼み込んだ。それでも受け入れてもらえなければ、無理にでも別れるつもりでね。もう後には引かないって決意が伝わったのかもしれない。霞さんは、すべてを終わらせることを選んだ。それが、あの悲劇に繋がったんだよ」

「……それじゃ、もう打つ手がないってことじゃねえか?」


 男が好きだと嘘までついても、穏便には別れられない。

 強引に別れようとすれば、殺される。

 穏便にやっても、強引にやっても駄目。

 どうすれば、殺されずにあいつと別れられるんだよ?


 ルビーは、きっぱりと言った。


「方法なら──あるよ。それに、本当は広志さん自身が、いちばんよくわかってるはず」

「俺も、わかってる……?」

「そう。この使者様から見れば、別れられなかった原因は、あの子じゃない──広(・)志(・)さ(・)ん(・)、あ(・)な(・)た(・)の(・)ほ(・)う(・)に(・)あ(・)る(・)ん(・)で(・)す(・)」


 言葉に力を込め、ルビーが鋭い視線を向けてきた。


 原因は……俺にある?


 戸惑う俺を、ルビーはじっと見据えた。反応を観察しているようでもあり、考えを探っているようでもあった。

 そして、大きくため息をつく。


「仕方ないね。現実を見ようとしないなら、この使者様が、はっきり言ってあげる──」


 小さな唇を開き、あいつは語り始めた。「俺自身、本当はとっくに知っていた別れ方」を。


 …………


 あたりが静かになる。時間の流れが遅くなる。

 ルビーの声が耳に響くにつれ、すべてが腑に落ちていくような感覚が押し寄せ、俺は黙り込んだ。


「──これでわかった、広志さん?」

「…………」

「付き合うには、二人の同意が必要──だけど、別れるのに、それは必要ないの」

「…………」

「問題が広志さんにあるって言ったのは、この方法があると知っていながら、選ばなかったからだよ。そのせいで別れられず、殺されることになったの」

「悪い。その案は受け入れられねえよ……ルビー」


 俺は苦い顔で答えた。

 確かに、わかりやすい方法だった。拍子抜けするほど簡単でもある。

 ちゃんと別れられるし、霞を怒らせることもない。一連の悲劇だって起こらない。これ以上ない答えだ。


 それでも、俺は断った。


「はぁ。やっぱりね」


 ルビーは、わかっていたという顔で首を振った。


「それができるなら、とっくにやってるよね。あんなことになるはずないもん」

「…………」

「広志さん、や(・)っ(・)ぱ(・)り(・)ま(・)だ(・)、あ(・)の(・)子(・)の(・)こ(・)と(・)が(・)大(・)事(・)な(・)ん(・)だ(・)ね(・)」


 ルビーは軽い調子で言った。

 だけど、その顔に浮かんでいたのは、困ったような、寂しそうな笑みだった。

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