EP.16 高橋広志のBAD END、その後。
霞があまりにもしつこくまとわりついてくるので、学校に着くなり、俺はいつものようにトイレを口実に逃げ出し、そのまま男子トイレへ駆け込んだ。
さすがに哀れに思ったのだろうか。ルビーもようやく無視をやめ、俺のそばへ飛んできて話しかけた。
「朝っぱらから両手に花なんて、広志さんは幸せ者だね」
「……」
「この使者様の胸を揉んだだけじゃなく、彼女の胸にまで寄りかかっちゃって。やれやれ、本当に罪深い男だな~」
「いや、お前の胸なんて一ミリも触ってねぇよ」
俺はさっさと用を済ませ、ファスナーを上げると、洗面台へ向かって顔を洗った。
登校中のことを思い出し、思わずため息が漏れる。
一日会えなかった反動だろうか。霞は道中、ずっと俺にべったりだった。
腕にぴったりくっつき、鼻歌を歌いながら、俺の肩に頭をすり寄せてくる。
人目なんてまるで気にしていない。自分はこの男のものだと、宣言しているみたいだった。
甘い言葉をかけてきたけど、一言も頭に入らなかった。
吐き気がする。
こみ上げるものを抑えるだけで精いっぱいで、距離を置くことさえできない。
会話なんて、なおさらだ。
一ノ瀬霞、無邪気な彼女。
一ノ瀬霞、狂おしい愛に取り憑かれた人殺し。
そのあまりの違いに、頭がおかしくなりそうだった。
世界が歪み、ぐるぐる回っているような気がする……
現実感が少しずつ剥がれ落ちていく。車酔いに似た感覚だった。
「ふぅ……」
洗面台に溜まった水を見つめる。そこには、疲れ果てた顔が映っていた。
この情けない姿が、今の高橋広志だ。
「ねえ、ほんとに情けないね、広志さん」
「あ……?」
「もう、今朝この使者様と言い合ってた元気はどこに行っちゃったの? そんなんじゃ、みっともないよ?」
ルビーが俺の肩を拳で小突いた──もちろん、そのまますり抜けた。
「今の霞と、五年後に俺を殺したやつが同じ人間だなんて、信じられねえんだよ……」
俺には、一つ考えがあった。
考えというより、願望か。
──全部、ただの夢なんじゃないか?
霞に殺される未来なんて、存在しない。
記憶にあるあの五年間は、今の高橋広志が見た悪夢にすぎない。
そう。
たとえば、初めて彼女ができた不安から、彼女に殺される展開を勝手に想像してしまった、とか……
「いいえ。全部、本当にあったことなんです、広志さん」
ルビーは俺の弱さを見透かし、その一言で妄想を吹き飛ばした。
「あの子には、今はまだまともなところも残っているのかもしれない。だけど、もうすぐ広志さんへの愛に溺れて、化け物になってしまうんです」
「…………」
「だから、この使者様から聞くけど──今のあなたに、ほかのことを考えている余裕があるんですか、広志さん?」
宝石のような桜色の瞳が、俺を見据えた。いつもは表情豊かな顔も、今は厳しく引き締まっている。
ほかのこと──篠原のことを言っているんだろう。
委員長に関する記憶が戻ってから、確かに俺は、ずっと落ち着かなかった。
記憶によれば、あいつは高校二年の三学期のある日、何者かに襲われる。そして、顔を台無しにされたと言ってもいいほどの刀傷が残るのだ。
深く、長い、恐ろしい傷だった。
あれを見たら、誰だって息を呑むに決まっている。
いったい、どんな気持ちで刃を振るえば、女の子の顔をあんなふうに切りつけられるんだ?
想像もしたくない……
鼻筋を横切ったあの一撃が、あと三センチ上にずれていたら、どうなっていた?
両目とも見えなくなっていたんじゃないか。
胸の中で怒りが燃え上がる。
それと同時に、不思議な感情も湧いてきた。
そう。
俺──五年後の高橋広志は。
なぜか、篠原の傷に罪悪感を抱いていた。
詳しい理由は、俺にもわからない。まだ欠けている記憶があるせいだろうか。
俺はすべてを聞こうと口を開いた。
だけど、ルビーはそのつもりだと察したのか、俺が声を出すより先に言った。
「──人の未来を心配するより、まず自分の心配をしたらどうなの、広志さん」
「……」
「自分が死んだあと、何が起きたか知りたくない?」
含みのある言い方に、まんまと興味を引かれた。
そうだ。高橋広志が死んだあと、いったい何が起きたんだ?
「『大学生が痴情のもつれで殺害、凶器はまさかのドライバー!?』って、ニュースにはそんな見出しがあふれてたよ。どう? ラノベみたいでしょ?」
「ラ、ラノベって……」
「霞さんにどうやって殺されたか、覚えてるよね? ……そう、コーヒーでも混ぜるみたいに、お腹の中をぐるぐるかき回されて、胃も腸もぐちゃぐちゃ。手口が残酷だったうえに、犯人は若くて綺麗な霞さんだったから、ものすごい騒ぎになったんだよ。広志さんが気にしてる、あのモデルより話題になったくらい」
モデル──言うまでもなく、篠原のことだ。
自分に待っていた未来がそこまで悲惨だったと知り、冷や汗が噴き出し、体が震えた。
だけど、ルビーの口からは、さらに恐ろしい事実が続いた。
「あれ? あの子が、広志さんを殺しただけで終わりにしたと思ってるの?」
「……は?」
「霞さん、すごいんだよ。広志さんの息が止まったあと、首を切り離して、頭だけにしちゃったの。それを深夜の公園で膝に乗せて、キスまでして。まるで恋人とデートしてるみたいで、甘々だったよ!」
「…………」
「しかも、ナイフなんて持ってなかったんだよ? ドライバーで少しずつ突き刺したり、引っかいたりして、神経を切って、首の骨をねじって。やっとのことで頭を切り離したの。よく頑張ったよね!」
「~~~~~~!」
くそ! こいつ、怪談を語る才能ありすぎだろ! もう漏れそうなんだけど~~!
慌てて小便器の前へ戻り、ファスナーを下ろして構えた。いつ膀胱が緩んで、その場で漏らしちまうかわからない。
そこでルビーは、怖がらせるような口調をやめ、真剣な顔で言った。
「ただ、あの子は結局、警察には捕まらなかったんです」
「……何?」
捕まらなかった? そんなことあるか???
「本当ですよ。あの子は一日も刑務所に入っていないんです」
「…………」
「警察が公園に着く前に、霞さんは広志さんの頭を持って立ち去っていたんです。そして、捕まる前に死んでしまった」
「し、死んだ?」
唾を飲み込んだ。
強い好奇心に駆られ、真相を知ろうとするのを止められなかった。
死んだって、どういう展開だ?
そのあと何があった?
俺のあとを追って死んだのか?
俺の疑問に、ルビーは首を横に振った。
「あとを追って死ぬなんて、そんなロマンチックな話じゃないんです。霞さんは、殺されたんですよ」
「殺された?」
「そう」
ルビーは頷いた。
そのあと、あいつの口から出たのは、どうしても信じられない答えだった。
「あなたの妹──高橋美杏に殺されたんです」
「────」
激しい耳鳴り。
周りのすべてが、一瞬で遠ざかったような気がした。
……何?
美杏?
美杏が霞を殺した?
どういうことだ?
俺が死んだあとの未来で、いったい何が起きたんだ???
頭が完全に止まった。
呆然とする俺の前で、ルビーはただ肩をすくめ、淡々と続きを語り始めた──
/////////
俺は黙って、ルビーの話を聞いた。高橋広志の死が、そのあと何を引き起こしたのかを。
まず、犯人の霞。
あれほど残酷な罪を犯したのに、警察はあいつを捕まえることができなかった。
何らかの勢力に匿われていたらしく、いつまで経っても居場所がつかめなかったという。そのことで、世間には不安や怒りが広がった。
頭を持ち去られたせいで、俺の遺体は揃わなかった。葬儀で「最後に顔を見る」ことさえできない。
そういうことを気にする人もいるんだろうけど、親父は迷信を信じる人間じゃない。
そのまま葬儀を行い、頭のない遺体を火葬した。そうすることで、少しでも悲しみに区切りをつけようとしたらしい。
俺の告別式には、結構な人数が来たそうだ。
事件が大騒ぎになったせいだろうか。とにかく、小学校から大学までの同級生たちが集まったという。
遺影の前で泣きじゃくり、いつまでも涙が止まらなかったやつもいたらしい。
皮肉なことに、それは高校以来一度も会っていなかった有名モデル──篠原翼だった。
委員長にとって、俺みたいな「ろくでなし」は、そこまで泣いてくれるような存在だったのか……?
そして、肝心の美杏。
自分の妹に、そこまでの行動力があったなんて、思ってもみなかった。
俺が死んだあと、あいつは部屋に閉じこもり、一人で霞を呼び出す方法を探っていた。
驚いたことに、それを本当に成功させてしまったのだ。
俺のSNSアカウントにログインして、霞を誘い出したのか? それとも、掲示板で俺になりすましたのか?
とにかく、美杏は霞と連絡を取ることに成功し、ある廃ビルの屋上で会う約束をした。
屋上。
二人きり。
向かい合う二人。
実際にどんな言葉を交わしたのか。それは誰にもわからない。
わかっているのは、その対面の末に、美杏が霞を屋上から突き落とし、殺したということだけだ。
十階の高さから落ちた。生き残る確率はゼロ。
霞の血肉は飛び散り、無残な死にざまをさらした──
何より恐ろしいのは、命を失ってなお、折れた骨が突き出した腕で、俺の頭を抱きしめていたことだ。
まるで女の子がテディベアを抱くように、大切そうに胸に抱えて。
──死んでもなお、手放さなかった。
あまりに悲惨で、劇的な一連の事件は、世間に大きな衝撃を与え、人々を不安に陥れた。
そして、美杏が刑務所に入ったことで、ようやく悲劇の幕は下りた。
「…………」
すべてを聞き終えた瞬間、小便が出た。
いい年した男が、話を聞いただけでビビって漏らすなんて……先に小便器の前へ移動しておいてよかった。
でなきゃ、人生にまた一つ汚点を残すところだった。
くそ。なんだよ、そのおぞましい事件は。本当に高橋広志の未来なのか?
『School Days』でも見てるのかと思ったぞ!
軽い調子で考えようとはした。だけど、美杏の結末を思うと、どうしても笑えなかった。
俺と霞だけの問題だと思っていたのに、妹まで巻き込んでしまった。それどころか、あいつの人生を変え、人殺しにしてしまったのだ。
俺の仇を討つために、霞を殺したんだろうか。
あの内気で小柄な美杏に、そんな激しい一面があったなんて、想像もつかない……
とはいえ、何年もまともに話していない俺は、本当の美杏を知らない。
だけど、外へ出られたということは、対人恐怖症もかなりよくなっていたんじゃないか?
五年後の美杏は、ちょうど二十歳。もう大人だ。
当然、自分の犯した罪の責任は、自分で負うことになる。
結末はあんなに悲惨だった。
それでも、あいつの症状が五年の間によくなっていたことには、少しだけ救われる思いがした。
「これでわかったでしょ、広志さん。もう、あなただけの問題じゃないんです」
「…………」
「このまま放っておけば、高橋家の悲劇だけでは終わらない。社会にも、大きな悪影響を及ぼすんです。そこまで影響の大きい痴情のもつれによる事件だからこそ、神様は、この使者様の力を試す課題に選んだんですよ」
「…………」
「もう一度聞くけど、広志さん。今は、ほかの人の心配をしている場合なの?」
もう何度目かわからない忠告だった。
そうだ。言っていることは、全部わかる。
今は、ほかのやつに気を回している場合じゃない。
霞は狂っている。霞は化け物だ。
付き合い始めたばかりで、まだ関係が深くなっていない今こそ、別れるにはいちばんいい時期なのだ。
ここを逃せば、どんどん難しくなっていく。
──それでも。
同級生にもうすぐ何か起きると知っていて、しかも俺なら止められるかもしれない。
それを、見て見ぬふりしろっていうのか?
「余計な義理人情は捨てて、広志さん。あの子のことは、あなたには関係ないんです」
「俺には……関係ない?」
「そう。篠原翼と高橋広志の人生が交わるのは、今だけ。そのあとは、どんどん離れていく。交点を通り過ぎた二本の直線みたいに、二度と交わることはないんです」
「…………」
「余計なことに首を突っ込むより、自分のやるべきことをやってよ。広志さんのバカ」
ルビーは叱るように言った。
厳しい口調の中にも、どこか柔らかさがある。俺の気持ちを気にかけているのがわかった。
へえ。このピンクツインテールにも、気遣いのできるところがあるんだな。
「天使候補生」の肩書きも、まったくの飾りってわけじゃないらしい。
「……ルビー。教えてくれ。俺はどうすりゃいい?」
「ん?」
「どうすれば、霞と穏便に別れて、あの一連の悲劇を避けられるんだ?」
真剣にあいつを見つめた。
何も思いつかない今、頼れるのはルビーしかいなかった。
「広志さんは、死ぬまでに三百一回、穏便に別れようとしてるんだよ。理屈を尽くして話しても、本心を打ち明けても、あの子とは別れられなかった。第三者に説得してもらっても駄目。男が好きなんだって嘘をついたことまであるけど、それでも失敗したの」
「…………」
俺、そんな嘘までついてたのか。
「そして、三百二回目のとき、広志さんは土下座して頼み込んだ。それでも受け入れてもらえなければ、無理にでも別れるつもりでね。もう後には引かないって決意が伝わったのかもしれない。霞さんは、すべてを終わらせることを選んだ。それが、あの悲劇に繋がったんだよ」
「……それじゃ、もう打つ手がないってことじゃねえか?」
男が好きだと嘘までついても、穏便には別れられない。
強引に別れようとすれば、殺される。
穏便にやっても、強引にやっても駄目。
どうすれば、殺されずにあいつと別れられるんだよ?
ルビーは、きっぱりと言った。
「方法なら──あるよ。それに、本当は広志さん自身が、いちばんよくわかってるはず」
「俺も、わかってる……?」
「そう。この使者様から見れば、別れられなかった原因は、あの子じゃない──広志さん、あなたのほうにあるんです」
言葉に力を込め、ルビーが鋭い視線を向けてきた。
原因は……俺にある?
戸惑う俺を、ルビーはじっと見据えた。反応を観察しているようでもあり、考えを探っているようでもあった。
そして、大きくため息をつく。
「仕方ないね。現実を見ようとしないなら、この使者様が、はっきり言ってあげる──」
小さな唇を開き、あいつは語り始めた。「俺自身、本当はとっくに知っていた別れ方」を。
…………
あたりが静かになる。時間の流れが遅くなる。
ルビーの声が耳に響くにつれ、すべてが腑に落ちていくような感覚が押し寄せ、俺は黙り込んだ。
「──これでわかった、広志さん?」
「…………」
「付き合うには、二人の同意が必要──だけど、別れるのに、それは必要ないの」
「…………」
「問題が広志さんにあるって言ったのは、この方法があると知っていながら、選ばなかったからだよ。そのせいで別れられず、殺されることになったの」
「悪い。その案は受け入れられねえよ……ルビー」
俺は苦い顔で答えた。
確かに、わかりやすい方法だった。拍子抜けするほど簡単でもある。
ちゃんと別れられるし、霞を怒らせることもない。一連の悲劇だって起こらない。これ以上ない答えだ。
それでも、俺は断った。
「はぁ。やっぱりね」
ルビーは、わかっていたという顔で首を振った。
「それができるなら、とっくにやってるよね。あんなことになるはずないもん」
「…………」
「広志さん、やっぱりまだ、あの子のことが大事なんだね」
ルビーは軽い調子で言った。
だけど、その顔に浮かんでいたのは、困ったような、寂しそうな笑みだった。




