EP.15 欠けた記憶
「襲われた……?」
眠りから覚め、天井を見つめた俺が最初に口にしたのは、それだった。
見慣れた部屋。寝慣れたベッド。見慣れない夢。
何度まばたきをしても、さっき夢で見たものが信じられなかった。
篠原のあの綺麗な顔に、いったい何があったら、あんな傷が残るんだ?
「未来」の記憶を探る──そうだ。
確か、篠原の刀傷は、高校二年の三学期に誰かに襲われたときのものだった。
そして、その事件こそが、あいつが突然転校した理由だったはずだ。
相手は誰だ?
どうして、そんなことをした?
確か、犯人は同じ学校のやつだった気がする。
そいつの顔を必死に思い出そうとする。だけど、どうしても思い出せない。
記憶は、壊れたディスクみたいだった。肝心なところで情報が欠けていて、考えがうまく繋がらない。
何より、篠原が襲われた具体的な日付が、まだわからなかった。
「……」
くそ。いちばん忘れちゃいけない情報だろうが。それなのに、頭の中には残っていない。
未来の俺はボケちまったのか? なんでこんなに記憶が穴だらけなんだよ?
どうでもいいエロ動画の番号は完璧に覚えているくせに!
焦りながら頭を掻き、どうにか脳細胞を働かせようとする。
そこで、相談できる頼もしい助っ人がいたことを思い出し、顔を上げた──
「あれ? どこ行った?」
ところが、助っ人のルビーが見当たらない。
いつも当たり前のように宙に浮いているあいつが、今日は定位置にいなかった。
右を見て、左を見る。部屋中を探しても、あのピンクツインテールはどこにもいない。
ちっ。使えねえやつ。
普段から大して役に立ってないくせに、いちばん必要なときに限って姿をくらましやがって──
そう思った途端、ベッドの右側から物音がした。
「んん──……広志、さん……?」
「???」
すんません。今、どういう状況?
わけがわからないまま右を見ると、鮮やかなピンクの長い髪が、ベッドの上に広がっていた。まるで桜色の花びらを敷き詰めたみたいだ。
その桜色の中に、若い女が横向きに眠っている。
いやいや、若い女って何だ。うちの残念な天使候補生、ルビーじゃねえか。
なんで俺の隣で寝てんだよ?
つーか、霊体にも睡眠って必要なのか?
戸惑う俺とは対照的に、ルビーの顔は実に安らかだった。
小さな鼻から規則正しい寝息が漏れ、口元からはよだれが垂れている。いい夢でも見ているらしい。
俺はそのまま視線を下へとスライドさせた。
子供のようにあどけない寝顔の下では、豊満な胸が横向きの寝姿勢で押し寄せられ、形を変えながら、悪魔のように俺を誘惑していた。
ごくり、と俺は思わず唾を飲み込んだ。
頭の中で、天使と悪魔が激しく争っている。
幸い、理性が邪念に打ち勝った。
俺はふうっと息を吐き、ベッドから起き上がって、この危険地帯を離れようとした──
ところが、その瞬間、俺の手が謎の力に乗っ取られた!
勝手に動き出した手が、すっと伸びていく……
ルビーの胸へと、遠慮もためらいもなく──
史上最低の手つきで、むんずとわしづかみにしてしまった。
「…………」
強烈な虚無感と罪悪感が俺を襲った。
うおおおお、完全にすり抜けちまったああ──これが虚無感の理由。
うおおおお、こんな残念天使への欲情に負けちまったああ──これが罪悪感の理由。
俺が心底残念そうな顔で、ルビーの胸元で何度も空をつかんでいると……
突然、針で刺すような視線を感じ、ぴたりと手を止めた。
「一体何をやっているんですか、広志さん?」
ルビーがギロリと俺を睨みつけていた。まるでゴミでも見るような目で。
「すまん、指が痺れたから、ちょっと動かしてみただけだ」
俺はしれっと白々しい嘘をつきながら、再び指をピクピクと動かしてみせる。
「へぇ〜、そうなんだぁ?」
「ああ、そうそう」
「なるほどなるほど。指が痺れたんですか。それなら仕方ないですね──って、そんな見え透いた嘘が通用すると思ってんのか、このスケベ野郎! 変態! セクハラ男! 大バカ者! 高橋広志ーーっ!!」
ルビーは怒りの叫びを上げながらベッドから飛び上がり、俺に「廬山昇龍覇」を叩き込んできた。
もちろん、見事にすり抜けて俺に触れることはない。
「テメェ、勝手に俺の名前を悪口に混ぜんじゃねえよ! この落ちこぼれ天使候補生め!」
俺は図々しくも怒鳴り返し、「ペガサス流星拳」をお見舞いしてやった。
もちろん、見事にすり抜けて彼女に触れることはない。
俺たちは、触れられもしないくせに、その場で殴り合いを始めた。
攻撃は一発も当たらない。
それなのに、勢いだけなら屋根を吹き飛ばしそうだった。
いや、俺が悪いのは分かってるけどさ、こればっかりは仕方なくねえ?
この高橋広志は結城リトじゃないんだ。あんなに自制心があるわけないだろ……
何度か攻防を繰り返した末、体力を使い果たした俺とルビーは、そろって床に膝と手をついた。
俺は床を見つめ、改めて今の状況を考える。
霊体相手に喧嘩してる自分って、バカじゃねえの?
「はぁ……はぁ……お、お前──……はぁ……」
「な、何よ……最後まで言ってよ、情けないなあ、広志さん……」
「お前……霊体だろ? 霊体でも……寝る必要、あんのか……?」
俺は床に寝転がり、息を切らした。
まだ朝っぱらだってのに、一日中石でも運んだみたいに体が重い。
ルビーは俺より先に回復し、息を整えてから口を開いた。
「霊体だろうと生身だろうと、知性のある存在には休息が必要なの」
「はぁ……そ、そうなのか?」
「当たり前でしょ。天使がみんな、スーパーマンみたいにいつまでも働けるなら、新人を補充する必要なんてないじゃない。少しは頭を使ってよね、広志さん」
「な、なるほどな……」
ってことは、俺が寝ている間は、ルビーも寝ていたのか。
その間、どうやって暇を潰してるんだろうと思っていたけど、俺と一緒に寝てたんだな。
そう考えると、ふと親近感が湧いてきた。
そうだよな……
こいつは叫ぶし、騒ぐし、笑う。それに、休む必要だってある。俺と同じだ。
そんなやつと二晩を過ごし、友達みたいに一緒に寝ていたわけで──
触れられないことを除けば、天使と人間に、いったい何の違いがあるんだろう。
ぼんやりと天井を見つめながら、呼吸を整える。
体はくたくたなのに、気分は妙にすっきりしていた。
こういう付き合い方、嫌いじゃないかもしれない……
この頭のおかしいツインテールと言い合うのも、案外気が晴れるもんだ。
そんなことを考えていると──きい、と。
間の悪いことに、部屋のドアが開いた。
「…………美杏?」
驚いた。入り口に立っていたのは、妹だった。
あまりにも突然のことで、俺は呆然とした。
美杏も、同じように固まっていた。
幼さの残る顔に、怯えと戸惑いが浮かんでいる。
怪しいやつを見るような目で俺を見ながら、そっと一歩後ずさった。
(※生成AIを使用して制作した挿絵です。)
やべえ。
さっきルビーと喧嘩してたところ、見られたのか?
……いや、そんなことはどうでもいい。
それより、いつも部屋に閉じこもっているあいつが、どうしてここにいるんだ?
もう、自分から部屋を出られるようになったのか?
人を見てもパニックにならなくなったのか?
聞きたいことが、次々と頭に浮かぶ。
だけど、口を開くより先に、妹はくるりと背を向け、振り返りもせず自分の部屋へ逃げ込んでしまった。
「…………」
「…………」
俺とルビーは顔を見合わせた。部屋に、静けさが戻る。
やがて、ルビーは口元を押さえ、面白がるように言った。
「ぷぷ~。かわいそうな男子高校生だと思われちゃったね、広志さん」
「……」
「『エア友達』と喧嘩してるなんて、お兄ちゃんとしての威厳も、もう台無しだね?」
「黙れ、この天使落第生」
/////////
「落第生」呼ばわりしたのが、よほど気に食わなかったらしい。
ルビーはいつものように俺の後ろについてくるものの、今日は拗ねたようにそっぽを向き、目も合わせなければ、口も利こうとしなかった。
この状態で篠原のことを聞いても、答えてくれそうにないな。
ため息をつき、いつものように妹の食事を用意してから、鞄を持って学校へ向かおうとした。
玄関で靴を履きながらスマホを見ると、霞からメッセージが届いていた。昨日は一日中、こっちが送ったメッセージに既読すらつかなかったのに。
しかも、一件や二件じゃない。百件以上だ。
「…………」
百件以上。
見間違いかと思った。
トーク画面を開くと、霞からのメッセージで埋め尽くされていた。
最初は、昨日既読をつけられなかったことへの謝罪だった。
次は、会いたい。
すごく会いたい。ものすごく会いたい。早く会いたい。
ここまでは、まだ理解できる。
だけど、深夜に届いた一通は──
『家の人に内緒で、こっそり抜け出しちゃった。えへへ♥』
…………
嫌な予感がする。
さらに下へスクロールする。
『広志くん、家の前に着いたよ』
……は?
指が止まった。
そのあとのメッセージは、なぜか実況中継になっていた。
『あ、お日様が出てきたね』
『広志くん、まだ起きてないの? 寝坊はよくないよ』
『もうすぐ約束の時間だよ。まだ起きてないの?』
…………
待て。こいつ、いったい何時間うちの前にいるんだ?
さらに下へ進むと、もっととんでもないものが目に入った。
『出てきてくれないなら、私が入っちゃうよ』
『広志くんの家の鍵、簡単に開けられそうだね。勝手に入ったら、怒る?』
『今日は特別な日だから、早く広志くんに会いたいよ。もう我慢できなくなっちゃいそう……』
『うぅ、手、怪我しちゃった……また怒られちゃう……』
『あ、ちょうど道具を持ってたんだった!』
「…………」
胃が痛い。
頭も痛い。
どうにか現実から逃れようとしていると──
カチャ。カチャカチャ。
玄関のドアの向こうから、金属の触れ合う音が続けざまに聞こえてきた。
どう考えても、誰かが外で、うちの鍵の構造を調べている。
さっき美杏が俺の部屋に来たのは、ドアの向こうで怪しいやつが何かしているのに気づいて、俺を起こそうとしたからなんじゃないか?
苛立ちながら頭を掻き、深く息を吸って、玄関のドアを開けた──
「あ、おはよう、広志くん~!」
あいつは、晴れやかな笑顔で挨拶した。
綺麗で、元気いっぱいで、魅力的な笑顔。
事情を知らないやつが見たら、羨ましくて仕方ないくらい、完璧な彼女に見えるんだろう。
……手に持ったマイナスドライバーを見なければ。
……その手から滴る血を見なければ。
すると、あいつは手の怪我も気にせず、駆け寄って俺の胸に飛び込んできた。
豊満な胸が俺の胸板に押し付けられ、その生々しい柔らかさが伝わってくる。
そう。
これは触れようとしてもすり抜けてしまうルビーの霊体なんかじゃない。
ちゃんと見えるし、触れることもできる、正真正銘のおっぱいだ。
だけど、少しも嬉しくなかった。
鼻先に届いた髪の香りに、むしろ吐き気さえ込み上げてくる。
──一ノ瀬霞。
いったい、どのお前が、本当のお前なんだ?




