第9話 アイコンタクト
放課後。
天堂寺家の車は夕暮れの街を静かに走っていた。
車内には、マリアと翡翠だけ。
いつもなら穏やかな空気が流れる車内も、今日は静けさに包まれていた。
翡翠は運転席からバックミラー越しにマリアを見る。
頬の赤みは少し引いていたものの、まだうっすらと手形が残っていた。
屋敷へ戻ると、翡翠は用意した氷嚢をそっと頬へ当てる。
「少し冷たいですよ。」
「ありがとう。」
静かな時間が流れる。
やがて翡翠が口を開いた。
「マリア様。」
「もう、このようなことはおやめください。」
その声は穏やかだった。
しかし、その奥には隠しきれない感情が滲んでいた。
マリアは困ったように笑う。
「身体が咄嗟に動いただけよ。」
翡翠は静かに首を横へ振る。
「その言い訳は通用いたしません。」
「え?」
「叩かれる直前、私に目配せをなさいました。」
「『動くな』と。」
マリアは小さく視線を逸らす。
「……えぇ、よく分かってくれたわね。」
「十年お仕えしておりますので。」
翡翠は真っ直ぐマリアを見つめる。
「私は、あの程度の距離であれば止められました。」
「ですが、マリア様は私が動くことを許されなかった。」
静かな部屋に、翡翠の声だけが響く。
「そして何より――」
少しだけ息をつく。
「マリア様なら、叩かれる前に相手の手を止めることもできたはずです。」
「……。」
「幼い頃から私は一度もマリア様に敵いませんでした。」
「護身術も、剣術も。」
「マリア様は、私よりお強いではありませんか。」
マリアは苦笑する。
「買いかぶりよ。」
「いいえ。」
翡翠はきっぱりと言い切った。
「それでも止めなかった。」
「わざと、お受けになった。」
「……。」
「場を収めるために。」
沈黙が流れる。
やがてマリアは小さく息を吐いた。
「もし私が受け止めていたら。」
「三年生は、冷静になれなかったわ。」
「もし私が叩かれれば、誰もそれ以上は手を出せないと思ったの。」
翡翠は目を閉じる。
その答えは、予想していたものだった。
「ですが。」
「それは執事である私の役目です。」
「マリア様が傷つく必要はありません。」
マリアは優しく微笑む。
「違うわ。」
「今回は、ルナである私だから意味があったの。」
「だから私が受けたの。」
翡翠は何も言えなかった。
その覚悟が間違っていないことを、誰より理解していたから。
それでも。
「……それでも私は。」
翡翠は静かに頭を下げる。
「マリア様が傷つく姿は、二度と見たくありません。」
マリアは少し驚いたあと、ふっと微笑んだ。
「ごめんなさい。」
「心配をかけたわね。」
翡翠もようやく小さく笑う。
「はい。」
「本当に、心配いたしました。」
突如、部屋の扉が勢いよく開く。
「マリア様ー!おかえりー!」
焦げ茶の髪の毛を弾ませながら、少年が入室してきた。
翡翠が手を額にしながら、ため息をつく。
「大牙。騒がしくするんじゃない。」
「兄貴はマリア様とずっと一緒にいれるからいいけどさ〜。留守番の俺はマリア様不足なんだ!」
大牙は不満げに口をとがらせ、翡翠の方を見る。
その様子をみてマリアはクスクスと笑う。
「ふふっ、ただいま大牙。そんなに不足しているなら、翡翠と日替わりにする?」
「マリア様っ!」
翡翠が食い気味に目を見開きながらマリアを咎める。
「兄貴怖〜!マリア様のことになるとなりふり構わずすぎだろ。」
「大牙、余計なことを言わないでください。」
翡翠は鋭い視線を大牙へ向ける。
「図星じゃん。」
大牙は怖がることなく、飄々とつっこむ。
「…それの何が悪い。」
「ふふっ、冗談よ。からかってごめんなさい。最近、翡翠が完璧な執事モードばかりだから、ついつい。」
「マリア様…私で遊ばないでください。」
我に返った翡翠が小さくなる。
「ごめんね?」
マリアがウインクして謝ると、翡翠は頬を赤らめながらぷいっと顔を背ける。
「ちょっとちょっとー!13歳の俺の前でいちゃつかないでよ。」
「「いちゃついてはない」」
翡翠とマリアの声が被る。
3人の笑い声が部屋に響いた。




