第8話 神崎香織
「雅……。」
日和が小さく呟く。
雅はゆっくりとティーサロンへ入り、マリアの頬を見つめる。
赤く残る手形。
一瞬だけ、その紫色の瞳が揺れた。
その瞬間、雅の表情から笑みが消えた。
「……誰がやったの。」
静かな声。
怒鳴っているわけではない。
それなのに、その場の誰もが息を呑んだ。
三年生の一人が震える声で答える。
「わ、私よ……。」
「だけど……。」
雅は最後まで聞かなかった。
「理由は後で聞きます。」
「でも。」
「手を上げた時点で、それはもう正しさではありません。」
その一言で場が静まり返る。
雅は三年生を責め立てることもなく、静かに続けた。
「意見が違うことは構わない。」
「納得できないことがあるのも当然だと思います。」
「でも。」
紫色の瞳が真っ直ぐ三年生たちを見つめる。
「暴力だけは、この学院では決して許されないことですよ。」
誰も反論できなかった。
その時だった。
香織が一歩前へ出る。
「……皆。」
三年生たちが振り向く。
「もう、やめましょう。」
その優しい声に、三年生たちは俯く。
「香織……。」
「私は何度も言ったはずよ。」
「生徒会長の件は、学院長がお決めになったこと。」
「私は、その決定を受け入れているわ。」
「でも私たちは!」
一人が思わず声を上げる。
「香織は一番努力してきたじゃない!」
「成績だって私たちの中で一番!」
「みんな、香織が生徒会長になるって信じてた!」
香織は静かに首を横へ振った。
「ありがとう。」
「そう思ってくれることは、本当に嬉しい。」
少しだけ微笑む。
「でもね。」
「雅さんは、私よりずっと前から、生徒会長になる覚悟を持っていた人なの。」
三年生たちは驚いたように顔を上げる。
香織は雅を見る。
「前生徒会長が雅さんを推薦された理由を、私は知っている。」
「だから私は納得しているの。」
雅は少し困ったように笑う。
「香織さん……。」
「だから。」
香織は仲間たちへ向き直った。
「私のために怒るのは、今日で終わりにして。」
「私が一番悲しいのは、皆がこんなことをしてしまったことだから。」
その言葉に、三年生たちは唇を噛んだ。
やがて、マリアを叩いてしまった生徒が前へ出る。
「……叩いてしまってごめんなさい。」
深く頭を下げる。
「感情的になってしまったの。」
マリアは優しく微笑んだ。
「お顔を上げてください。」
三年生がゆっくり顔を上げる。
「私は、皆様がお怒りになるお気持ちも理解できます。」
「それだけ神崎先輩を大切に思っておられるのですね。」
その言葉に、三年生の目が大きく開かれた。
責められると思っていた。
しかし返ってきたのは責める言葉ではなかった。
「ですが。」
マリアは静かに続ける。
「大切な方を思うお気持ちと、誰かを傷つけることは、別のことです。」
三年生たちは静かに頷いた。
「……はい。」
雅はそんな光景を見つめ、小さく息をつく。
そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「これで終わりにしましょう。」
「みんな同じ月が丘の生徒なのですから。」
その言葉に、その場にいた全員が静かに頷く。
こうして、一つのすれ違いは静かに幕を下ろした。
「……ごめんね。」
皆が帰路に着いたあと、雅が静かに発言した。
マリアは少し驚く。
「雅さん?」
「私の問題に巻き込んでしまった。」
するとマリアが笑って、
「違います。」
「私は、自分の意思で前に出ました。」
「もしもう一度同じことがあっても、私は同じことをします。」
雅は少し笑う。
「……本当に、ルナにぴったりな人だ。ありがとう、マリア。」
それまで「マリアさん」と呼んでいた雅が、初めて敬称を外した。
マリアは少し目を丸くする。
そして、ふっと微笑んだ。
「……どういたしまして。」
少しだけ照れたように視線を逸らし、小さく続ける。
「ありがとう、雅。」
今度は雅が驚いたように目を瞬かせる。
「ふふっ。」
「これでやっと対等かな。」
「えぇ。私たち、もう仲間ね。」
その言葉に、雅は心から嬉しそうに微笑んだ。
「うん。」
「これからよろしくね、マリア。」
「こちらこそ、雅。」
夕暮れのティーサロンに、二人の穏やかな笑顔が重なった。




