第29話 はじめの一歩
少女は白薔薇をぎゅっと抱きしめる。
(怖い。)
(もし、お断りされたら。)
(ご迷惑だったら。)
胸が苦しくなる。
その時、ふと一年前の出来事が脳裏によみがえった。
⸻
入学したばかりの春。
まだ学院にも慣れず、一人で中庭を歩いていた。
緊張して前を見ていなかった少女は、小さな段差につまずいて転んでしまう。
膝を擦りむき、痛みよりも恥ずかしさで涙が滲んだ。
その時だった。
「大丈夫?」
優しい声が降ってきた。
顔を上げると、一人の上級生が心配そうにしゃがみ込んでいた。
ふわりと揺れる栗色の髪。
春の陽だまりのような笑顔。
「痛かったでしょう?」
ハンカチでそっと土を払ってくれる。
「ありがとうございます……。」
「歩き始めは、誰でも転ぶものよ。」
「だから気にしなくて大丈夫。」
そう言って、にっこり微笑んでくれた。
「私は小百合。」
「あなたのお名前を教えていただける?」
その日初めて、少女は学院で安心して笑うことができた。
それから廊下ですれ違うたび、
「ごきげんよう。」
と必ず声を掛けてくれる。
花壇の花の名前を教えてくれたこともあった。
落ち込んでいる時には、
「今日も綺麗なお花が咲いているわ。」
と、さりげなく励ましてくれた。
気が付けば。
(私も、小百合お姉さまみたいな淑女になりたい。)
そう思うようになっていた。
⸻
そして現在へ戻る。
(大丈夫。)
(あの日、お姉さまが私に勇気をくださった。)
(今度は私が、一歩踏み出す番。)
「……。」
日和は静かに少女の視線を追う。
少女は何度も前を見ては俯き、また顔を上げる。
その先には――。
「あ。」
日和が小さく声を漏らした。
「どうしたの?」
葵が尋ねる。
「あの子。」
日和はそっと視線を向ける。
「見ているの……小百合じゃない?」
その言葉に、皆も少女の視線を辿る。
そこには、月明かりに照らされた小百合が立っていた。
「え……?」
突然名前が挙がり、小百合は驚いたように目を瞬かせる。
少女と目が合う。
その瞬間、少女は慌てて俯いてしまった。
「やっぱり。」
日和は静かに頷く。
「ずっと小百合を見てる。」
雅も穏やかに微笑んだ。
「きっと、お姉さまになっていただきたいんだね。」
「でも。」
瑠璃が小さく呟く。
「緊張して動けない。」
葵は思わず応援したくなった。
「頑張れ……!」
その声は胸の中だけにしまう。
これは少女自身が踏み出す一歩だから。
誰も声は掛けなかった。
マリアも静かに少女を見守る。
(きっと、大丈夫。)
少女は白薔薇をぎゅっと抱き締める。
何度も深呼吸を繰り返し、少女はゆっくりと顔を上げた。
視線の先では、小百合が変わらず穏やかに微笑んでいる。
その優しい笑顔に、少女の肩から少しだけ力が抜けた。
一歩。
また一歩。
小さな足音が石畳に響く。
小百合も少女へ気付き、優しく微笑み返した。
その笑顔に勇気をもらったように、少女は小百合の前で立ち止まる。
震える両手で白薔薇を差し出した。
「あ……あの。」
声が震える。
それでも、しっかりと顔を上げた。
「私を……。」
「お姉さまの妹にしていただけますか。」
月の庭園が静まり返る。
小百合は少しだけ目を丸くした。
そして次の瞬間、花が咲くような笑顔を浮かべた。
「もちろん。」
「喜んで。」
両手で、白薔薇を大切に受け取る。
その瞬間。
庭園に温かな拍手が響いた。
少女の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれる。
「ありがとう……ございます。」
小百合は少し照れたように笑った。
「実はね。」
「私も、この日を楽しみにしていたの。」
「え……?」
少女は驚いて顔を上げる。
「私も四年生の時、とても緊張して。」
「白薔薇を渡した瞬間、安心して泣いてしまったの。」
「だから。」
小百合は少女の手をそっと包み込む。
「いつか私も、誰かのお姉さまになれたらいいなって思っていたの。」
少女は涙を拭いながら笑った。
「よろしくお願いします、お姉さま。」
「ええ。」
「これからよろしくね。」
二人は向かい合って微笑み合う。
その様子を見守っていた葵が嬉しそうに笑った。
「よかったぁ。」
「一歩一歩自分で踏み出せたね。」
雅も静かに頷く。
「勇気は、誰かにもらうものじゃない。」
「誰かがいてくれるから、自分で踏み出せるものなんだね。」
マリアは、新しく結ばれた姉妹を見つめながら、そっと微笑んだ。
満月の光に照らされた白薔薇は、今夜も変わらず美しく咲き誇っていた。




