第20話 約束の続き
――現在。
「……翡翠?」
白薔薇園からの帰り道。
ぼんやりと前を見つめていた翡翠へ、マリアが静かに声を掛けた。
「はい。」
「何か考え事?」
翡翠は一瞬だけ目を伏せる。
「……少し、昔のことを思い出しておりました。」
「昔?」
マリアは首を傾げた。
「はい。」
「マリア様と初めてお会いした頃のことです。」
その言葉に、マリアは少しだけ目を丸くする。
「あら。」
「懐かしいわね。」
二人はゆっくりと石畳を歩く。
「翡翠。」
「はい。」
「あなた、あの日はずっと緊張していたでしょう?」
「……お気付きでしたか。」
「もちろん。」
マリアはくすっと笑う。
「お返事をするたびに、少しだけ声が震えていたもの。」
翡翠は少し照れたように咳払いをした。
「初めてお仕えする主人でしたので。」
「しかも天堂寺家のご令嬢。」
「緊張しない方がおかしいですよ。」
マリアは楽しそうに笑う。
「そうだったのね。」
「私は、ずっと大人びた子だと思っていたわ。」
「そんなことはありません。」
翡翠は苦笑した。
「あの日は、一晩中眠れませんでした。」
「えっ?」
「執事として失礼があってはいけないと。」
「何度も礼の練習をしました。」
「歩き方も。」
「言葉遣いも。」
「姿勢も。」
マリアは思わず吹き出した。
「ふふっ。翡翠らしい。」
「笑わないでください。」
「ごめんなさい。」
そう言いながらも、マリアの笑みは止まらない。
その穏やかな空気に、翡翠も自然と口元を緩めた。
少し歩いたところで、マリアがふと足を止める。
「でも。」
「私は嬉しかった。」
「……?」
「初めて会った時。」
「あなたが『星宮翡翠と申します』って、一生懸命ご挨拶してくださったでしょう?」
「はい。」
「とても嬉しかったの。」
翡翠は静かにマリアを見つめる。
「初めて同じ年頃の子と、一緒に過ごせるって思ったから。兄弟はいるけど、みんな離れ離れの生活だったしね。」
その一言に、翡翠は息を呑んだ。
「……そうだったのですか。」
「ええ。」
マリアは優しく微笑む。
「だから、最初から翡翠と仲良くなりたいと思っていたのよ。」
翡翠は思わず目を逸らした。
胸の奥が少し熱くなる。
(……そのようなことを。)
今になって聞かされるとは思わなかった。
「そういえば。」
マリアが首を傾げる。
「翡翠。」
「はい。」
「あの頃は、今よりずっと小さかったわね。」
「……はい。」
「燕尾服の袖が長くて。」
「よく手が隠れていたでしょう?」
「……。」
「とても可愛らしかったわ。」
翡翠は足を止めた。
「…………。」
耳が少し赤い。
「翡翠?」
「……その話は。」
「忘れていただけますでしょうか。」
「どうして?」
「恥ずかしいので。」
真面目な返事に、マリアはまた笑ってしまう。
「ふふっ。」
「今も十分素敵よ。」
その言葉に。
翡翠は一瞬だけ固まった。
「……。」
言葉が出ない。
「どうしたの?」
「……いえ。」
翡翠は小さく頭を下げる。
「ありがとうございます。」
それだけ言うのが精一杯だった。
二人は再び歩き出す。
少し離れた場所では、天堂寺家の車が静かに待っていた。
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしている。
翡翠はその影を見つめながら、十年前の約束を思い返していた。
――「大きくなったら、その時は私を守ってくださる?」
その約束は、今も変わらない。
いや。
あの日よりも、もっと強く。
(マリア様。)
(私は、これからも貴女をお守りいたします。)
誰にも聞こえない心の誓いを胸に、翡翠は静かにマリアの半歩後ろを歩き続けた。
その距離は、執事として最も相応しい距離。
けれどその半歩には、十年前から積み重ねてきた信頼と、誰にも譲れない想いが確かに込められていた。
「ねぇ翡翠。」
前を歩いていたマリアが振り返る。
「はい。」
「今日は昔のお話ができて楽しかったわ。」
そう言って、いつものように柔らかく微笑む。
翡翠も穏やかに一礼した。
「私もでございます。」
マリアは満足そうに頷き、そのまま車へ乗り込む。
翡翠はドアを静かに閉めた。
(……マリア様は、お気付きではないのでしょうね。)
今日の何気ない一言一言が。
どれほど自分の心を揺らしたのか。
きっと、これからも知らないままなのだろう。
それでもいい。
そう思えることが、翡翠にとっては幸せだった。
春の夕暮れは静かに更けていく。
十年前に交わした約束は、今日もまた一つ、新しい思い出とともに胸へ刻まれた。




