第18話 マリアと翡翠の出会い
10年前――。
天堂寺本家。
広大な屋敷の門の前で、一人の少年が背筋を伸ばして立っていた。
まだ6歳。
黒い燕尾服は少しだけ大きく、袖口が手の甲にかかっている。
隣には父が立っていた。
「翡翠。」
「はい。」
「今日から、お前は天堂寺家に仕える。」
「……はい。」
父の表情は厳しかった。
「お前がお仕えするのは、天堂寺家のご令嬢。」
「決して粗相のないように。」
翡翠は力強く頷いた。
「承知いたしました。」
重厚な扉がゆっくりと開く。
案内された先は、陽の光が差し込む応接室だった。
翡翠は胸の鼓動が速くなるのを感じていた。
(どんな方なのだろう。)
厳しい方だろうか。
わがままなお嬢様だろうか。
そんな想像をしていた、その時。
「失礼いたします。」
澄んだ声が部屋へ響く。
扉が開き、一人の少女が入ってきた。
まだ6歳とは思えないほど落ち着いた所作。
少女は翡翠たちの前まで歩み寄ると、ふわりと微笑んだ。
「初めまして。」
「天堂寺マリアです。」
そして小さく頭を下げる。
「本日からよろしくお願いいたします。」
翡翠は思わず目を見開いた。
(お嬢様が……私に頭を下げた?)
驚いて言葉が出ない。
父が慌てて口を開く。
「お嬢様、お顔をお上げください。」
しかしマリアは穏やかに笑った。
「今日から一緒に過ごす方ですもの。」
「最初のご挨拶は、大切でしょう?」
その一言だけで、部屋の空気が柔らかくなる。
翡翠は慌てて頭を下げた。
「星宮翡翠と申します!」
「本日より、お仕えいたします!」
マリアは嬉しそうに笑う。
「よろしくね、翡翠。」
その笑顔は、春の日差しのように温かかった。
◇
その日の午後。
翡翠はマリアの後ろを歩きながら、屋敷の中を案内されていた。
「ここが図書室。」
「こちらがお庭です。」
6歳とは思えないほど落ち着いて説明するマリア。
途中、廊下で庭師とすれ違う。
「こんにちは、佐々木さん。」
「今日のお花も綺麗ですね。」
年配の庭師は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、お嬢様。」
さらに進むと、料理長と会う。
「今日のお昼、とても美味しかったです。」
「ありがとうございます。」
料理長も嬉しそうに頭を下げる。
翡翠は不思議だった。
屋敷中の使用人が、皆マリアを見ると自然に笑顔になる。
(どうしてだろう。)
◇
夕方。
書斎。
マリアは祖父と父の横で静かに座っていた。
机には難しそうな書類が並んでいる。
海外からの来客もいた。
翡翠は部屋の隅で控えていた。
話している内容は難しくて理解できない。
それでも驚いた。
マリアは時折書類をめくり、必要な資料を祖父へ手渡していた。
「ありがとう、マリア。」
祖父が自然に礼を言う。
マリアは小さく頷くだけだった。
(本当に……6歳なのか。)
翡翠はただ呆然と見つめていた。
◇
その日の終わり。
父が翡翠へ告げる。
「今日から、お前がお嬢様の専属執事だ。」
翡翠は背筋を伸ばした。
「はい。」
父は静かに続ける。
「お嬢様は、これから人より早く、多くの責任を背負われる。」
「その隣で支えるのがお前の役目だ。」
翡翠はマリアを見る。
6歳の少女は、夕焼けに染まる庭を静かに眺めていた。
その横顔は幼い。
けれど、その瞳には年齢に似合わない覚悟が宿っていた。
翡翠はその場で深く頭を下げる。
「マリア様。」
「未熟者ではございますが、よろしくお願いいたします。」
マリアは振り返る。
そして、あの日と同じ優しい笑顔で微笑んだ。
「えぇ、これからよろしくね。」
◇
数日後。
天堂寺家では、春の祝賀会が開かれていた。
各界の名家や財界人が集う、大きなパーティー。
翡翠にとっても、専属執事として初めての大仕事だった。
「緊張していますか?」
マリアが小さく尋ねる。
「……少しだけ。」
正直に答えると、マリアはくすっと笑った。
「大丈夫。」
「私も少し緊張しています。」
「えっ?」
「初めて一緒に出席するもの。」
その言葉だけで、不思議と肩の力が抜けた。
「ありがとうございます。」
「行きましょう。」
小さな主人は、優雅に歩き出す。
翡翠も一歩後ろから、その背中を追った。
しかし、この日。
翡翠はまだ知らなかった。
このパーティーが、自分の人生を変える一日になることを――。




