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エーテルリウムの黄昏  作者: お茶どうぞ
96/103

96、敵の陽動


本部の重厚な扉をくぐった瞬間、リシェルはわずかに息を呑んだ。

外の喧騒とは対照的に、内部は静まり返っている。磨き上げられた石床に、規律正しく響く足音だけがやけに大きく感じられた。


壁面には各区画への案内板と、階層ごとのフロアパネルが整然と並んでいる。

彼女はその前に立ち止まり、視線を走らせた。


「……ここね」


指先でパネルをなぞりながら、意識を集中させる。

胸の奥で、あの嫌な感覚がうごめく。瘴気――厄災の石が放つ、あの不快な波動。


「3階の司令部あたりかな……」


誰に言うでもなく呟くと、彼女は目を閉じた。

ゆっくりと手をかざす。


――チリ……チリチリ……


指先に、焼けるような微かな刺激が走る。

間違いない。ここだ。


その時、背後から足音が近づいた。


「どうだ、リシェル?」


振り向くと、アレクセイたちが到着していた。

鎧の擦れる音とともに、緊張した空気が流れ込んでくる。


「敵は……本部3階、司令部付近にいます。ですが……」


言葉が途中で止まる。

言いづらい現実が、喉元で引っかかっていた。


「なんだ?」


短く促すアレクセイの声。

その奥には焦りではなく、冷静な判断を求める強さがあった。


リシェルは一度視線を落とし、覚悟を決める。


「この先は警備が厳重です。侵入者であれば、確実に発見されます」


「つまり?」


「高官クラスの権限を持つ者に偽装していなければ……入れません」


その言葉に、空気が一段と重く沈んだ。


「どういう事だ!」


レニオスが一歩踏み出し、声を荒げる。

彼の額には怒りと焦燥が浮かんでいた。


リシェルは静かに顔を上げる。


「可能性は二つあります。

 一つは……内部に敵のスパイがいる。

 もう一つは――ドッペルゲンガーによる成り代わりです」


その言葉に、場の全員が一瞬息を止めた。


「……リシェルはどう見る?」


アレクセイは彼女の前に歩み寄り、少しだけ身をかがめた。

視線を合わせ、肩にそっと手を置く。


――遠慮するな。


その無言の意思が伝わってくる。


リシェルは小さく頷いた。


「厄災の石は強い瘴気を放ちます。人間は触れることすらできません。

 ……ですが、魔物なら――体内に埋め込まれても耐えられます」


過去の戦場が脳裏をよぎる。

あの時も同じだった。人ではあり得ない“何か”が、内部に紛れ込んでいた。


「……ここまでやるか」


レニオスの口から、低い呟きが漏れる。

誇り高き拠点を穢された怒りが滲んでいた。


アレクセイは短く息を吐き、決断する。


「行くぞ」


彼を先頭に、アシュリー、リシェル、レニオスの順で階段へ向かう。

中隊は外で待機させた。


石造りの階段を上るたびに、空気が重くなる。

まるで建物そのものが、異物の侵入を拒んでいるかのようだった。


「……アシュリー様……」


リシェルの声がわずかに震える。

感じ取る気配が、明らかに“異質”だった。


その瞬間――


ぎゅっ、と腕を掴まれる。


アシュリーだった。


「大丈夫」


短い一言。だが力強い。

その温もりが、リシェルの恐怖を押し戻した。


やがて三階へ到達する。


長い廊下の先、重厚な扉――司令室。


途中、何人もの騎士とすれ違う。

彼らはレニオスの姿を見ると敬礼し、道を開けた。


だが今は、その一人ひとりに構っている余裕はない。


アシュリーが扉の前に立つ。

ノブに手をかけ――迷いなく回した。


扉が静かに開く。


中は広い。

中央には巨大な戦略卓があり、王国全域の模型が精巧に再現されている。

部隊配置、補給路、物資の流れ――すべてが可視化されていた。


卓の周囲には三人の士官。

そして――


窓辺に一人、背を向けた人物。


その瞬間。


リシェルの視界が狭まる。


「あ……」


震える指が、その背中を指した。


「……あの人です」


レニオスが一歩前へ出る。


「そこのお前!こちらを向け!」


声が室内に響いた。


ゆっくりと――その士官が振り返る。


その顔を見た瞬間。


レニオスの目が見開かれた。


そして、アシュリーの唇が震える。


「と……父さん……?」


あり得ない。

そんなはずはない。


本物のアレクセイは――今、後ろにいる。


では、目の前にいる“これは”何だ。


「惑わされないでください!」


鋭い声が空気を切り裂いた。


「その人は――アレクセイ様ではありません!」


リシェルの顔に、はっきりとした嫌悪が浮かぶ。

生理的な拒絶。人ではない何かに対する、本能的な反応だった。


偽アレクセイは――ゆっくりと口元を歪めた。


笑っている。


人の顔で、人ではない笑みを。


「……」


空気が凍りつく。


アレクセイは一歩前に出た。


「すまんが――連行させてもらう」


静かな声。しかし揺るぎない。


「レニオス。本部からの指令系統を洗え。不審な命令が出ていないか確認しろ」


「了解した」


即答するレニオス。


騎士二人とアシュリーが前に出て、偽アレクセイを囲む。


その異形は、あっさりと両手を上げた。


抵抗する気配はない。


――だが、その余裕が逆に不気味だった。


「リシェル」


アレクセイが振り向く。


「中隊指揮を任せる。連合軍本部と連携を取り、状況を整理する」


「……わかりました」


短く答える。


だがその胸の内では、静かに怒りが燃え上がっていた。


目の前の存在は――

ただの敵ではない。


尊敬する上官の姿を騙り、誇りを踏みにじる存在。


リシェルは拳を強く握り締めた。


(……許さない)


その瞳に、冷たい決意の光が宿っていた。

アシュリーを先頭に、一行は足早に階段を駆け下りた。

石壁に反響する足音は、どこか焦燥を帯びている。


扉を押し開けると、外の光が一気に流れ込んだ。

夕刻の空はすでに群青に沈みかけ、広場には松明と魔導灯の淡い光が揺れている。


その中央――整然と隊列を組み、待機しているパープルヘイズ中隊の姿があった。


彼らの視線が、一斉にこちらへ向けられる。


そして――


連行されてきた“アレクセイ”を見た瞬間、空気がざわめいた。


「……隊長?」


「どういうことだ……?」


抑えきれない動揺が、波のように広がる。


偽アレクセイは、無言のまま立っている。

その顔は、あまりにも“本物”に似ていた。


アレクセイとリシェルが一歩前に出る。

対峙する形で、偽者を正面に据えた。


その緊張の中心で――


アシュリーが踏み出す。


「お前の狙いは何だ!答えろ!」


鋭く、突き刺すような声だった。

迷いも躊躇もない。怒りが、そのまま言葉になっている。


一瞬の沈黙。


やがて――偽アレクセイの口元が、ゆっくりと歪んだ。


「……陽動と、時間稼ぎだ」


その声は、確かにアレクセイのもの。

だが、そこに宿る感情は――まるで別物だった。


次の瞬間。


男はゆっくりと上着を脱ぎ捨てた。


布が地面に落ちる、乾いた音。


露わになった上半身――その胸に。


埋め込まれていた。


――厄災の石。


禍々しい赤黒い輝きが、脈動するように明滅している。

まるで“心臓”のように。


「……っ!」


リシェルの喉が詰まる。


その瞬間、魔石の光が一段と強く膨れ上がった。


空気が震える。

肌にまとわりつくような、圧倒的な悪意。


――危険だ。


言葉になる前に、本能が叫んだ。


「みんな離れろ!!危険だ!!」


アシュリーの声が広場に響き渡る。


だが――


あまりにも突然の出来事に、誰もが一瞬、動きを止めてしまった。


その中で。


リシェルだけが、立ち尽くしていた。


視線は魔石に釘付けになり、身体が動かない。


その背後に、迫る破滅。


――その瞬間。


アシュリーが振り返った。


そして、迷うことなく――


リシェルを強く抱き寄せた。


「っ――!」


言葉はなかった。


ただ、その腕は固く、決して離さないと誓うように――


次の瞬間。


『ドォォォォォォン――!!!』


世界が、赤に染まった。


閃光。


轟音。


爆風。


すべてが同時に襲いかかる。


空気が裂け、地面が跳ね上がり、衝撃が身体を貫いた。


中隊の兵士たちは、まるで枯葉のように吹き飛ばされる。

悲鳴と怒号が入り混じり、広場は一瞬で混沌に呑み込まれた。


衝撃波は本部ビルの窓ガラスを粉々に砕いたが、建物そのものは辛うじて耐えた。

広場が少し離れていたことが、唯一の救いだった。


だが――被害は甚大だった。


耳を押さえ、血を流しながらうずくまる者。

倒れたまま動かない者。

熱風に焼かれ、鎧の隙間から煙を上げる者。


地獄のような光景。


その中心近くで――


アシュリーとリシェルは、互いに絡み合うように吹き飛ばされ、石畳を転がった。


やがて――


リシェルの意識が、ゆっくりと浮上する。


「……っ……」


視界はぼやけ、耳鳴りが止まらない。

世界が遠く、歪んでいる。


それでも、彼女は身体を起こした。


目の前に広がるのは――


爆ぜた地面。

黒く焦げた跡。

倒れた仲間たち。


そして、まだくすぶる煙。


まるで戦場の残骸そのものだった。


その時――


脳裏に、閃く。


爆発の直前。


あの瞬間。


自分を――守るように抱きしめた腕。


「……アシュリー様……?」


声が震える。


立ち上がろうとするが、足元がおぼつかない。

それでも彼女は、必死に周囲を見渡した。


「アシュリー様……!」


砂埃が舞い、煙が視界を遮る。


何も見えない。


「アシュリー様!!」


声を張り上げる。


返事はない。


焦燥が、胸を締め付ける。


足を引きずりながら、一歩、また一歩と進む。

崩れた地面を越え、倒れた兵士たちの間をすり抜けながら。


「どこに……どこにいるんですか……!」


その声には、恐怖と祈りが混じっていた。


煙の向こうに、影が揺れる。


だが、それが誰なのか分からない。


リシェルは、ただひたすらに――


名前を呼び続けながら、瓦礫と煙の中を彷徨った。


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