96、敵の陽動
本部の重厚な扉をくぐった瞬間、リシェルはわずかに息を呑んだ。
外の喧騒とは対照的に、内部は静まり返っている。磨き上げられた石床に、規律正しく響く足音だけがやけに大きく感じられた。
壁面には各区画への案内板と、階層ごとのフロアパネルが整然と並んでいる。
彼女はその前に立ち止まり、視線を走らせた。
「……ここね」
指先でパネルをなぞりながら、意識を集中させる。
胸の奥で、あの嫌な感覚がうごめく。瘴気――厄災の石が放つ、あの不快な波動。
「3階の司令部あたりかな……」
誰に言うでもなく呟くと、彼女は目を閉じた。
ゆっくりと手をかざす。
――チリ……チリチリ……
指先に、焼けるような微かな刺激が走る。
間違いない。ここだ。
その時、背後から足音が近づいた。
「どうだ、リシェル?」
振り向くと、アレクセイたちが到着していた。
鎧の擦れる音とともに、緊張した空気が流れ込んでくる。
「敵は……本部3階、司令部付近にいます。ですが……」
言葉が途中で止まる。
言いづらい現実が、喉元で引っかかっていた。
「なんだ?」
短く促すアレクセイの声。
その奥には焦りではなく、冷静な判断を求める強さがあった。
リシェルは一度視線を落とし、覚悟を決める。
「この先は警備が厳重です。侵入者であれば、確実に発見されます」
「つまり?」
「高官クラスの権限を持つ者に偽装していなければ……入れません」
その言葉に、空気が一段と重く沈んだ。
「どういう事だ!」
レニオスが一歩踏み出し、声を荒げる。
彼の額には怒りと焦燥が浮かんでいた。
リシェルは静かに顔を上げる。
「可能性は二つあります。
一つは……内部に敵のスパイがいる。
もう一つは――ドッペルゲンガーによる成り代わりです」
その言葉に、場の全員が一瞬息を止めた。
「……リシェルはどう見る?」
アレクセイは彼女の前に歩み寄り、少しだけ身をかがめた。
視線を合わせ、肩にそっと手を置く。
――遠慮するな。
その無言の意思が伝わってくる。
リシェルは小さく頷いた。
「厄災の石は強い瘴気を放ちます。人間は触れることすらできません。
……ですが、魔物なら――体内に埋め込まれても耐えられます」
過去の戦場が脳裏をよぎる。
あの時も同じだった。人ではあり得ない“何か”が、内部に紛れ込んでいた。
「……ここまでやるか」
レニオスの口から、低い呟きが漏れる。
誇り高き拠点を穢された怒りが滲んでいた。
アレクセイは短く息を吐き、決断する。
「行くぞ」
彼を先頭に、アシュリー、リシェル、レニオスの順で階段へ向かう。
中隊は外で待機させた。
石造りの階段を上るたびに、空気が重くなる。
まるで建物そのものが、異物の侵入を拒んでいるかのようだった。
「……アシュリー様……」
リシェルの声がわずかに震える。
感じ取る気配が、明らかに“異質”だった。
その瞬間――
ぎゅっ、と腕を掴まれる。
アシュリーだった。
「大丈夫」
短い一言。だが力強い。
その温もりが、リシェルの恐怖を押し戻した。
やがて三階へ到達する。
長い廊下の先、重厚な扉――司令室。
途中、何人もの騎士とすれ違う。
彼らはレニオスの姿を見ると敬礼し、道を開けた。
だが今は、その一人ひとりに構っている余裕はない。
アシュリーが扉の前に立つ。
ノブに手をかけ――迷いなく回した。
扉が静かに開く。
中は広い。
中央には巨大な戦略卓があり、王国全域の模型が精巧に再現されている。
部隊配置、補給路、物資の流れ――すべてが可視化されていた。
卓の周囲には三人の士官。
そして――
窓辺に一人、背を向けた人物。
その瞬間。
リシェルの視界が狭まる。
「あ……」
震える指が、その背中を指した。
「……あの人です」
レニオスが一歩前へ出る。
「そこのお前!こちらを向け!」
声が室内に響いた。
ゆっくりと――その士官が振り返る。
その顔を見た瞬間。
レニオスの目が見開かれた。
そして、アシュリーの唇が震える。
「と……父さん……?」
あり得ない。
そんなはずはない。
本物のアレクセイは――今、後ろにいる。
では、目の前にいる“これは”何だ。
「惑わされないでください!」
鋭い声が空気を切り裂いた。
「その人は――アレクセイ様ではありません!」
リシェルの顔に、はっきりとした嫌悪が浮かぶ。
生理的な拒絶。人ではない何かに対する、本能的な反応だった。
偽アレクセイは――ゆっくりと口元を歪めた。
笑っている。
人の顔で、人ではない笑みを。
「……」
空気が凍りつく。
アレクセイは一歩前に出た。
「すまんが――連行させてもらう」
静かな声。しかし揺るぎない。
「レニオス。本部からの指令系統を洗え。不審な命令が出ていないか確認しろ」
「了解した」
即答するレニオス。
騎士二人とアシュリーが前に出て、偽アレクセイを囲む。
その異形は、あっさりと両手を上げた。
抵抗する気配はない。
――だが、その余裕が逆に不気味だった。
「リシェル」
アレクセイが振り向く。
「中隊指揮を任せる。連合軍本部と連携を取り、状況を整理する」
「……わかりました」
短く答える。
だがその胸の内では、静かに怒りが燃え上がっていた。
目の前の存在は――
ただの敵ではない。
尊敬する上官の姿を騙り、誇りを踏みにじる存在。
リシェルは拳を強く握り締めた。
(……許さない)
その瞳に、冷たい決意の光が宿っていた。
アシュリーを先頭に、一行は足早に階段を駆け下りた。
石壁に反響する足音は、どこか焦燥を帯びている。
扉を押し開けると、外の光が一気に流れ込んだ。
夕刻の空はすでに群青に沈みかけ、広場には松明と魔導灯の淡い光が揺れている。
その中央――整然と隊列を組み、待機しているパープルヘイズ中隊の姿があった。
彼らの視線が、一斉にこちらへ向けられる。
そして――
連行されてきた“アレクセイ”を見た瞬間、空気がざわめいた。
「……隊長?」
「どういうことだ……?」
抑えきれない動揺が、波のように広がる。
偽アレクセイは、無言のまま立っている。
その顔は、あまりにも“本物”に似ていた。
アレクセイとリシェルが一歩前に出る。
対峙する形で、偽者を正面に据えた。
その緊張の中心で――
アシュリーが踏み出す。
「お前の狙いは何だ!答えろ!」
鋭く、突き刺すような声だった。
迷いも躊躇もない。怒りが、そのまま言葉になっている。
一瞬の沈黙。
やがて――偽アレクセイの口元が、ゆっくりと歪んだ。
「……陽動と、時間稼ぎだ」
その声は、確かにアレクセイのもの。
だが、そこに宿る感情は――まるで別物だった。
次の瞬間。
男はゆっくりと上着を脱ぎ捨てた。
布が地面に落ちる、乾いた音。
露わになった上半身――その胸に。
埋め込まれていた。
――厄災の石。
禍々しい赤黒い輝きが、脈動するように明滅している。
まるで“心臓”のように。
「……っ!」
リシェルの喉が詰まる。
その瞬間、魔石の光が一段と強く膨れ上がった。
空気が震える。
肌にまとわりつくような、圧倒的な悪意。
――危険だ。
言葉になる前に、本能が叫んだ。
「みんな離れろ!!危険だ!!」
アシュリーの声が広場に響き渡る。
だが――
あまりにも突然の出来事に、誰もが一瞬、動きを止めてしまった。
その中で。
リシェルだけが、立ち尽くしていた。
視線は魔石に釘付けになり、身体が動かない。
その背後に、迫る破滅。
――その瞬間。
アシュリーが振り返った。
そして、迷うことなく――
リシェルを強く抱き寄せた。
「っ――!」
言葉はなかった。
ただ、その腕は固く、決して離さないと誓うように――
次の瞬間。
『ドォォォォォォン――!!!』
世界が、赤に染まった。
閃光。
轟音。
爆風。
すべてが同時に襲いかかる。
空気が裂け、地面が跳ね上がり、衝撃が身体を貫いた。
中隊の兵士たちは、まるで枯葉のように吹き飛ばされる。
悲鳴と怒号が入り混じり、広場は一瞬で混沌に呑み込まれた。
衝撃波は本部ビルの窓ガラスを粉々に砕いたが、建物そのものは辛うじて耐えた。
広場が少し離れていたことが、唯一の救いだった。
だが――被害は甚大だった。
耳を押さえ、血を流しながらうずくまる者。
倒れたまま動かない者。
熱風に焼かれ、鎧の隙間から煙を上げる者。
地獄のような光景。
その中心近くで――
アシュリーとリシェルは、互いに絡み合うように吹き飛ばされ、石畳を転がった。
やがて――
リシェルの意識が、ゆっくりと浮上する。
「……っ……」
視界はぼやけ、耳鳴りが止まらない。
世界が遠く、歪んでいる。
それでも、彼女は身体を起こした。
目の前に広がるのは――
爆ぜた地面。
黒く焦げた跡。
倒れた仲間たち。
そして、まだくすぶる煙。
まるで戦場の残骸そのものだった。
その時――
脳裏に、閃く。
爆発の直前。
あの瞬間。
自分を――守るように抱きしめた腕。
「……アシュリー様……?」
声が震える。
立ち上がろうとするが、足元がおぼつかない。
それでも彼女は、必死に周囲を見渡した。
「アシュリー様……!」
砂埃が舞い、煙が視界を遮る。
何も見えない。
「アシュリー様!!」
声を張り上げる。
返事はない。
焦燥が、胸を締め付ける。
足を引きずりながら、一歩、また一歩と進む。
崩れた地面を越え、倒れた兵士たちの間をすり抜けながら。
「どこに……どこにいるんですか……!」
その声には、恐怖と祈りが混じっていた。
煙の向こうに、影が揺れる。
だが、それが誰なのか分からない。
リシェルは、ただひたすらに――
名前を呼び続けながら、瓦礫と煙の中を彷徨った。




