根拠のない確信
朝、目を覚ますと、枕元に置いたぜんまい時計は静かに針を止めていた。
正晴は体を起こし、そっと時計を持ち上げた。リューズに指をかけ、カチカチと重みのある音を響かせながらぜんまいを巻き上げていく。端末で正確な時刻を確認し、小さなツマミを引き出して針を合わせた。
ツマミを元に戻した瞬間、再びチクタクと力強い鼓動が手のひらに戻ってくる。胸のポケットへ大切に時計を忍ばせ、正晴は朝の静かな家を出た。
どこへ向かうべきか、当時は父親の後ろをただついて行っただけだったため、店への詳細なルートや住所の記憶は曖昧だった。だが、不思議と「必ずたどり着ける」という根拠のない自信が、胸の奥に満ちていた。
記憶の霧を一枚一枚捲っていく。
確か、地下鉄一本で行けたはずだ。あのお店がある通りの周辺には、怪しげな電子パーツが雑多に並ぶ小さな店や、見たこともない電化製品を積み上げたマニアックなショップがいくつもひしめき合っていた。独特の熱気と機械油の匂い。
(……日本橋だ)
普段の大学生活では降りたこともない駅名が、鮮明な景色とともに頭の中に浮かび上がった。確信だった。
日本橋駅に着いた後、地上に出てどちらの方向に歩けばいいのかまでは思い出せない。けれど、改札を抜けて地上へ出さえすれば、子供の頃の身体の記憶が自然と自分を目的地へ導いてくれる——そんな予感がしていた。
ホームに滑り込んできた地下鉄に乗り込む。
久しぶりに利用する地下鉄の車内には、地上とは違う少し湿った鉄と油、そして微かな埃が混ざり合った独特の匂いが漂っていた。がたごとと揺れる電車の中で、正晴はドアのガラスに映る自分の顔を見つめながら、これまでの人生を静かに振り返っていた。
親や先生に言われるがまま、ひたすら机に向かい続けた22年間。
思い返せば、苦しいことの方が遥かに多かった。周囲からのプレッシャー、終わりのないテスト、他人との比較。何度も投げ出しそうになり、挫けそうになった。
その暗闇のような日々の中で、自分でも気づかないうちに心の支えとなっていたのは、何百枚もの100点のテスト用紙でも、塾の講師からの形式的な賞賛でもなかった。
『正晴は本当に手が器用で、集中力もあるな』
作業台の横で、父親がボソッと呟くように言ってくれたあの言葉だった。
自分という人間そのものを根本から肯定してくれたあの短いフレーズが、倒れそうな自分を無意識のうちに支え続けていたのだと、今になってようやく理解できた。
だが、これまでの努力のすべてが嫌な思い出だったわけではない。
積み重ねてきた時間が、模試の偏差値や、成績表に並ぶ「S」や「A」の文字、そして公認会計士の合格証書という「目に見える形」になって手元に残っていく瞬間には、確かに胸が躍るような達成感と喜びがあった。
直向きに努力し、結果を形にしていくこと自体の楽しさは、間違いなく正晴自身にとっても望んだものだったのだ。
ただ、時代の変化を見つめることを怠り、思考停止になっていた自分が悔やまれた。
電車が滑らかに減速し、耳アナウンスが車内に響き渡った。
『まもなく、日本橋。日本橋——』
正晴は深く息を吸い込み、立ち上がった。
ドアが開くと同時にホームへ足を踏み出す。階段を上るにつれて、地上からの光が少しずつ視界を明るく照らしていった。
さぁ、店を探そう。




