自我
焦りは、波のように何度も正晴の心を打ち寄せていた。
端末を開けば、2041年の企業データベースに中小の精密機械メーカーや町工場のリストが無限に並んでいる。条件を絞り込み、企業研究を進め、経歴や自己PRのデータを送信する——指先ひとつで、いくらでも「就職活動を進めているフリ」はできた。
早くどこかから内定をもらい、安心したかった。取り残された恐怖から逃げ出したかった。
だが、右手に握りしめた小さなお守りが、規則正しい振動で正晴の掌を叩き続けていた。
チク、タク、チク、タク。
「違う……」
正晴は端末の画面を伏せた。
今、自分が本当にやるべきことは、焦って次の応募データを送ることじゃない。手に握りしめているこのぜんまい時計を、15年前に父親と組み立てたあの古い修理屋へ持っていき、自分の手でもう一度解体して、組み直すことだ。
それこそが、いま正晴の人生に必要な「最初の通過儀礼」であるという直感が、胸の奥で確かな熱を持っていた。
正晴は手に持っていた時計を机に置いた。
(……もし、あいつらがこれを見たらなんて言うだろうな)
ふと、昼間に自分を上辺の笑顔で失笑していた同級生たちの顔が脳裏をよぎった。
『正晴の奴、内定が出なさすぎてついにおかしくなったらしいぞ』
『今度はなんか古い時計を分解し始めたんだってさ。意味わからないよな』
誰も知らないはずだった。時計のことなんて誰一人にも話していない。それなのに、周囲の目を気にする長年の癖が、妄想の嘲笑をどんどん肥大化させていく。
想像するだけで、胸の奥がキュッと締め付けられ、惨めさと怒りが増幅されていくのが分かった。
だが、その恐怖の波が引いたあと、また正晴の心にふっと静寂が訪れた。
(……待てよ。なんで俺は、またあいつらの評価を気にしてるんだ?)
正晴は静かに息を吐き出し、時計を手に取り直して手のひらの中の金属の冷たさを感じ取った。
誰かに理解されたいわけじゃない。応援されたいわけでも、認められたいわけでもない。
これは他人のためのパフォーマンスではなく、失われていた「自分自身」を取り戻すための儀式なのだ。
親が「勉強しなさい」と言えば塾に通い、先生が「100点を目指せ」と言えば満点を取った。世間が「難関大学や資格が正解だ」と言えば、思考停止でそのレールを走ってきた。22年間の人生で、一度だって「自分がどうしたいか」で動いたことなんてなかった。
いや——思い返せば、たった一度だけあった。
7歳のあの頃。指先を油で真っ黒にしながら、父親と一緒に小さな歯車を組み合わせていた、あの時間だけは違っていた。誰の評価も期待も関係なく、ただ目の前にある機械に夢中になり、自分の意思で手を動かしていた。
(今回はもう、誰の顔色も窺わない。自分のやりたいことを、自分のために社会のためにやるんだ)
胸の奥の最後のモヤが消え去り、澄み渡るような覚悟が満ちていく。
あの修理屋へ行こう。
父親に聞けば、店の名前も場所も一発で教えてくれるだろう。あるいはAIに「15年前、〇〇地区にあった古い時計修理屋」と断片的な記憶を入力すれば、数秒で地図とルートが弾き出されるはずだ。
だが、正晴は首を振った。
検索窓に文字を打ち込もうとした指を止める。
便利で効率的な手段に頼って「答え」を出してもらうのは、もうやめだ。
(自分の足で探すんだ。この時計と一緒に)
AIが弾き出す効率的なルートではなく、かつて父親といっしょに歩いた町並みの記憶を辿り、自分の目と足で店を探し出す。泥臭く自分の足で歩み出すことこそが、今の正晴に必要な最初の一歩だった。
正晴はぜんまい時計を枕元にそっと置き、ベッドに横たわった。
明日の朝、陽が昇ると同時に出発しよう。
暗闇の中、枕元から響く規則正しいチクタクという音が、静かに正晴の心を満たしていく。自分の意志で動かす未来の歯車が、静かに、そして力強く噛み合い始めているような気がして、正晴はなんだか少し嬉しい気持ちになった。




