宿題
手のひらの中でチクタクと音を立てる小さなお守りを握りしめたまま、正晴は階段を静かに下りた。
リビングでは、父親がソファで一人、新聞代わりに端末のニュースを眺めていた。
昨夜あれだけ酷い言葉を叩きつけた気まずさと、親に自分の内面を見せる気恥ずかしさが喉を締め付け、正晴はしばらく廊下の影で足踏みをした。
だが、胸の奥で渦巻く答えへの欲求が、背中を押した。
「……親父」
正晴の声に、父親がゆっくりと顔を上げた。昨夜の激昂が嘘のように小さくなっている息子の様子に、父親の眉が少しだけ動く。
正晴は頭を少し掻きながら、視線をあちこちに泳がせて切り出した。
「昔……よく修理屋に連れてってくれたじゃん。よい時計師がなんで一度完成させた時計を分解して組み直すのかきいたの、覚えてる?」
その瞬間、父親の目がわずかに見開かれた。
15年間、見向きもしなかった子供の頃の記憶。
親の敷いたレールをがむシャラに走り続け、昨日ついに挫折して荒れ狂った息子が、よりにもよってあの小さな修理屋での会話を覚えていた。
父親の胸の奥に、じわじわと温かい感動が広がっていく。
本当なら飛びついて手を取りたいほど嬉しかったが、父親はそれを悟られまいと、あえて表情を変えずに端末へと視線を戻した。
「そんなこと聞いたか? 昔のことだからな、覚えてないや。……なんでそんなことが知りたいんだ?」
平静を装う声の裏で、父親の指先がかすかに震えているのを正晴は気づかない。
正晴が答えを知りたい本当の理由——自分の一度挫折した人生を、解体して組み直そうとしているからだなんて、恥ずかしくて口が裂けても言えなかった。
正晴は顔を少し赤くしながら、子供っぽく突っぱねた。
「……いいから教えてよ」
正晴の一見投げやりにもみえる態度の中に、隠しきれない真剣さがあることを父親は見逃さなかった。
父親は端末をテーブルに置き、少しだけ間を置いてから、静かに語り始めた。その声には、かつて修理屋の作業台で小さな息子の頭を撫でた時と同じ、優しい響きが宿っていた。
「いい時計師が一度完成させた時計をもう一度組み直すのにはな、理由が3つあるんだ」
父親は一つ指を立てた。
「1つ目は、動かしてからじゃないとわからない微妙なズレを確かめるためだ。歯車と歯車の噛み合い方の微調整は、何度も時計を組み立てたことのある熟練の職人でも、一度動かしてみないとわからないものさ」
正晴はハッとして息をのんだ。
動かしてみないとわからないズレ。
それはまさに、頭の中の計画だけでうまくいくはずだと思い込み、実際に社会に出るために動いてみて初めて突きつけられた、自分の想定と社会から求められているもののズレそのものではないか。
父親はもう一つ指を立てた。
「そして2つ目は、繊細な素材やパーツを傷や汚れから守るためだ。調整作業を『仮組み』の段階で終わらせておくことで、本番用の美しいパーツに傷や指紋がつくのを防ぐ役割がある」
父親の言葉が、じんわりと正晴の心に浸透していく。
今はまだ、社会人としての本番の人生を迎えるための「仮組み」の段階であり、今の苦しみは、本番で大怪我をしないためのかすり傷、いわば調整のための大切な準備期間なのだとしたら——。
「そして、3つ目は……」
父親は言いかけて、言葉を止めた。
正晴を見つめる父親の瞳に、深い慈愛と、どこか期待を込めたような光が宿る。
少しだけためらうように間を置いた後、父親は口元にやわらかな笑みを浮かべて首を振った。
「うん、これはあえて言わないでおこう。どうしても知りたいならAIにきけばいいさ。……でもな、あえて自分で考えて気づいてほしい」
「えっ……なんでだよ、教えてくれよ」
正晴が思わず抗議の声を上げると、父親はふっと目を細め、静かに立ち上がった。
「AIは答えを教えてくれるが、『気づき』はくれないからな。お前が自分の頭で考えて、自分で経験した時にしか、本当の意味はわからないんだよ」
そう言って部屋を出ていく父親の背中を、正晴は呆然と見送った。
手のひらの中では、小さな時計が今もチクタクと力強く時を刻み続けている。
父親の残した宿題。3つ目の理由。
正晴は時計の金属の冷たさを確かめるように握りしめながら、自分だけの答えを見つけ出すための、本当の挑戦がここから始まるのだと悟っていた。




