第二章 10 『喰物連鎖』
後書きで描き忘れありました。
「アススとベルルの気配が消えた……」
その声は、三メートルを超える巨体には似つかわしくないほど幼かった。
ベルゼブブは、少しだけ悲しそうな表情を浮かべる。
かつての可愛らしい子供の姿は、もう見る影もない。
三メートルを超えるまでに巨大化した身体は、それに合わせるように大きく膨れ上がっていた。
「悲しい時は暴食して忘れる……。これが一番いいんだ……」
ベルゼブブが涙を指で拭う。
そして、その視線を目の前へ向ける。
ベルゼブブが今まさに『ウォルボア』で喰らおうとしているのは――。
エイリ騎士団団長、チーフ・エリモルだった。
「ご馳走様でした」
ベルゼブブの身体が、さらに膨れ上がる。
エイリ騎士団は、暴食の封印に失敗した。
人間側の勢力も、それぞれの戦闘で体力と魔力を激しく消耗している。
暴食の相手をする余裕など、誰にも残されていなかった。
このままでは、中央荒野に集まっている人間側の勢力が、暴食によって全滅させられる。
――その時だった。
「カストルの攻略を完了! 今から私たちも戦争に加わります!」
戦場の奥から声が響く。
現れたのは、カストル攻略へ向かっていた賢者、賢人、そして各国の戦闘員たちだった。
待望の援軍。
その中でも、この戦場にとって特に重要な存在がいた。
賢者、ヒラ・マスクル。
彼女の権能は『ハイレン』。
人の傷を癒やし、魔力量を回復させる力だった。
人によって多少の誤差はあるものの、一人につき三分ほどで傷と魔力を回復させることができる。
今の中央荒野において、これほどありがたい能力はない。
ヒラは到着すると、真っ先にイロンのもとへ駆け寄った。
「イロンさん、回復させます!」
「頼む」
ヒラが権能を発動する。
淡い光がイロンの身体を包み込んでいく。
「カストルには七大魔族が一人もいませんでした」
治療を続けながら、ヒラが状況を説明する。
「魔族が人間の真似をして暮らしていたようです。その魔族を討伐し、他に脅威が存在しないことを確認したので、こちらへ来ました」
「分かった。感謝する」
イロンはそれだけ答え、回復が終わるのを待った。
一方――。
「いっぱい人が増えたね」
ベルゼブブは戦場を見渡す。
「もう残ってるのは僕だけか……」
先ほどチーフを喰らったことで、さらに大きくなっていた。
強い者を喰らうほど、身体が大きくなる。
チーフを喰らった時の変化は、それまでとは明らかに違っていた。
そんなベルゼブブの前へ、一人の男が歩み出る。
「よお。こっち見いや、クソデブ」
ベルゼブブがゆっくりと下を向く。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
「シンはフェズ・ムテヌ言うんや」
男は笑う。
「これでも賢人なんやで。ああ、シンって言うんは一人称な。ええやろ?」
彼が賢人に認められた理由は、一つ。
圧倒的なセンス。
フェズが指を鳴らす。
パチン。
乾いた音が、戦場に響く。
「聞こえるか? 汚デブちゃん」
また、指を鳴らす。
パチン。
「この美しいリズムが」
ベルゼブブは耳を澄ます。
パチン。
一定の間隔で響く音。
「……?」
ベルゼブブは、いつの間にかフェズだけを見ていた。
フェズは笑う。
「ええ子やな」
パチン。
「そんなええ子には、ええこと一つ教えたるわ」
パチン。
「知らん人のことは、信じんほうがええで」
ベルゼブブには、その言葉を対して深く受け取らなかった。
「ほら、よう見てみいや」
パチン。
「目ぇ細めたら、もしかしたら見えるかもしれへんで?」
パチン。
「この空気の揺れが」
その瞬間。
ベルゼブブの巨大な身体に、一本の線が走った。
「……?」
ベルゼブブが自分の身体を見る。
切れ目。
しかし、いつ切られたのか分からない。
フェズは笑っている。
「ほら、言うたやろ」
パチン。
「知らん人は、信じんほうがええって」
ベルゼブブの身体に、さらに切れ目が刻まれる。
「……!」
それでも、ベルゼブブの身体は崩れない。
巨大化した肉体は、切り傷程度では致命傷にならなかった。
「別に痛くないよ?」
ベルゼブブが首を傾げる。
そして、フェズへ手を向ける。
「ウォルボア」
巨大なオーラが、フェズを喰らおうと迫る。
しかし――。
フェズは逃げない。
ただ、指を鳴らす。
パチン。
「それが悪デブちゃんの権能やろ?」
パチン。
「それで人喰うて、自分がでかなるんか」
フェズが笑う。
「弱いなぁ」
パチン。
「シンやったら、そないな権能いらんわ」
ベルゼブブは目を丸くする。
「なんだって?」
少し考える。
「僕の権能、弱くないと思うんだけどさ」
(弱くないよね?)
その瞬間だった。
巨大なオーラが消えた。
「……あれ?」
ベルゼブブが手を見る。
「なんで?」
フェズは答えない。
(もうええか)
フェズは指を鳴らすことを止める。
次の瞬間。
ベルゼブブの周囲に、大量の少し異様な見た目をしたカラスが現れた。
「わっ!」
カラスたちが一斉に襲いかかる。
ベルゼブブは慌てて『ウォルボア』を発動する。
巨大なオーラが再び現れる。
しかし――。
カラスを喰らうことができない。
「えっ?」
ベルゼブブが困惑する。
「どうなってんの?」
フェズは笑っている。
(図体デカいくせに、脳はガキやから助かるわ)
フェズは心の中で笑う。
(ホンマ、シンの権能と相性良すぎるわ)
フェズ・ムテヌの権能――『ユートピア』。
自分の話に乗ってきた相手に幻を見せる権能。
幻の中では、フェズが見せたいと思ったものを見せることができる。
そして――。
その幻の中で相手が想像したことも、幻の中では実現する。
フェズが指を鳴らしている理由は、攻撃するためではない。
相手の意識を、自分へ向け続けるためだ。
ベルゼブブがフェズの話を聞く。
フェズを見る。
そして、フェズの言葉について考える。
その時点で――。
すでに『ユートピア』の中にいる。
ベルゼブブはフェズとの会話の中で、自分の権能について疑い始めた。
自分の権能は弱いのではないか。
本当に大した力ではないのではないか。
その疑念すら、幻の中では現実となる。
だからこそ。
ベルゼブブの『ウォルボア』は、本来の力を発揮できなくなっていた。
「なんで……?」
ベルゼブブが再び呟く。
フェズは笑う。
「自分で考えてみいや」
カラスが一斉にベルゼブブへ襲いかかる。
「わっ!」
ベルゼブブが逃げる。
逃げた先にも、カラスが現れる。
「なんで!?」
さらに逃げる。
そこにもカラス。
「いつもなら、こんなん大したことないのに」
幻の中でベルゼブブは、自分が気づかないまま、体のサイズが元に戻っていた。
現実の身体には、何の変化もない。
しかし、幻の中では、ベルゼブブはまた弱くなっていた。
ベルゼブブは初めて怯えた表情を浮かべた。
「さて」
フェズが笑う。
「次は、何を想像するんやろな?」
ベルゼブブは、フェズを見つめる。
その幼い頭の中に、新たな疑問が浮かんだ。
(もしかして……僕が負けるの?)
フェズの笑みが深くなる。
(――それも、叶うんやで)
フェズは、何も言わなかった。
パチン。
その瞬間、ベルゼブブは幻の中で無惨にもカラスに喰われて死んだ。
――現実。
「『ユートピア』で死んだやつは、現実でも精神が死ぬ。あとは封印してしまいや」
フェズがベルゼブブに背を向けた。
その時。
「危ない!」
賢者、フルフス・メイスがフェズを突き飛ばす。
直後、フェズのいた場所を水球が通り過ぎた。
フェズが振り返る。
「なんでやねん。なんで『ユートピア』で精神死んだやつが動けんねん」
水球はベルゼブブが放った水の基本魔法上級だった。
しかし、その様子は明らかにおかしい。
「さて、何故だろうな。自分で考えてみてはどうだ?」
ベルゼブブの喋り方が違う。
いつものような、子供の話し方ではない。
「精神関与……洗脳……いや、幻を見せる権能か」
ベルゼブブは巨大化した自分の身体を見渡す。
「これでは動きにくいな」
ベルゼブブがフルフスに手を向ける。
フルフスは『ウォルボア』を警戒し、瞬時に魔法を放ってその場を離れようとする。
しかし――。
今発動された『ウォルボア』は、先ほどまでとは比べものにならないほど巨大だった。
フルフスだけではない。
他の国を代表して来ている戦闘員たちも、同時に喰らい尽くされる。
「なっ……!」
フェズは咄嗟に自分自身へ『ユートピア』を発動する。
そして、自分が『ウォルボア』に喰われないことを想像した。
その直後、『ユートピア』を解除する。
自分自身に使うことは、かなりの魔力消費を伴う。
さらに、短時間しか維持できないという難点もある。
だが――。
それでも、フェズは生き残った。
しかし、賢者を筆頭とする者たちが喰われてしまった。
賢者が、呆気なく喰われて死んだ。
その絶望を感じる時間すら与えず、ベルゼブブの肉体に変化が起きる。
今までは、肉体が大きくなっていった。
しかし、今回は違った。
身体が、萎んでいく。
いや――。
濃縮されていく。
巨大だった身体が、元の体格へ戻っていく。
その一方で、身体に宿る魔力だけが、かつての何倍にも膨れ上がっていく。
そして――。
バケモノが誕生した。
「感謝するぞ、フェズとやら」
ベルゼブブが、静かに口を開く。
「我、フェレライ・ベルゼブブは、ついに羽化に成功した」
その背中には、蝶のような羽が生えていた。
「羽化? なんのことやねん」
フェズがベルゼブブを見上げる。
「その羽が生えたことを羽化言うてんのか? 話し方も変えて、急にどないしたんや?」
フェズは一瞬だけベルゼブブを見る。
「落デブ……いや、今は落チビって言うたほうがええか?」
フェズは必死に、ベルゼブブを再び『ユートピア』の対象にしようと、言葉を並べる。
しかし、ベルゼブブはそんなフェズの意図を無視した。
「我の心は、今まで幼い幼虫のようであった」
ベルゼブブは、自身の身体を見つめる。
「しかし、その幼虫の精神は貴様の権能によって死した」
そして、フェズへ視線を向ける。
「その結果、蛹という形態を無視して羽化が起き、我が今ここにいる」
ベルゼブブは、フェズへ手を向ける。
「もう一度言おう」
静かな声。
「感謝するぞ、賢人」
そして――。
「我が美食の糧よ」
【キャラクター紹介】
フェズ・ムテヌ
種族:人間(賢人)
年齢:26歳
誕生日:3月8日
身長:181cm
体重:72kg
体格:細身
髪:黒髪
瞳:灰色
一人称:シン
好きなもの:面白いこと
苦手なもの:待ち時間
適性:風
権能:ユートピア
自分の話に乗ってきた相手に幻を見せる。幻の中では、フェズが見せたいものや、相手が想像したものを実現できる。
相手が話に乗ってきただけでは発動せず、相手が自分自身の何かを疑っている必要もある。




