episode19
台湾、シンガポールと破竹の勢いで現地の音楽ファンを飲み込んだ私たちは、アジアツアーの最終地であるタイの首都・バンコクの巨大スタジアムのステージ裏にいた。
気温三十五度、湿度八十パーセント。
夜になっても熱気は一切引かず、ただ息を吸うだけで肺にまとわりつくような、重く湿った空気がドーム全体を覆っている。
「……信じられない。立っているだけでメイクがドロドロに溶けそうよ」
レイカがハンディファンを顔に押し当てながら、心底不快そうに顔をしかめる。彼女の完璧にセットされた髪も、この異常な湿度の前では少しだけ言うことを聞かなくなっていた。
「ひぃぃ……サ、サウナの中でライブするようなものですよね、これ……」
マコは巨大なスポーツドリンクのボトルを抱え込みながら、すでに滝のような汗を流している。
「あはっ! でも、汗ばんだ肌って色気があって最高じゃないですかぁ。現地のファンの皆さんを、もっとメロメロにしちゃいましょうよっ」
アカリは自分の濡れた前髪をあえて無造作に散らしながら、鏡の前で猟奇的で艶やかな笑顔を作っている。
「……暑い。溶ける。もう帰りたい」
サエはパイプ椅子の上でスライムのように液状化し、完全に機能停止に陥っていた。
私は冷えたミネラルウォーターを頭から少し被り、首筋の熱を無理やり冷ました。
極寒の札幌とは真逆のベクトルで、肉体を削り取ってくる過酷な環境。だが、この重たい空気は、私の作る重低音を伝達するには最高の媒体だった。
「ラン、バテてないでしょうね」
私が声をかけると、ランは準備運動を止め、傲慢な笑みを浮かべて振り返った。
「誰に向かって言ってるの? この程度の熱気、私の光の温度に比べたら生温い風みたいなものよ」
「頼もしいわね。……さあ、行くわよ怪物たち。アジアの熱狂ごと、私たちのシステムで支配してあげる」
私が合図を出すと、スタジアムに地鳴りのような重低音が鳴り響いた。
ステージに飛び出した瞬間、五万人の観客から放たれる熱気と悲鳴が、物理的な暴力となって私たちの全身に叩きつけられた。
東南アジア特有の、底抜けに明るくてカオスなエネルギー。予定調和を嫌う彼らの熱狂は、日本のファンよりもずっと剥き出しで、野生の群れに放り込まれたような錯覚に陥る。
「――さあ、もっと熱くしてあげる!!」
ランがセンターで跳躍し、圧倒的なオーラと共にステップを踏む。
その瞬間、ファントム・フレームで構築された巨大なホログラムの龍が、ステージ上空を這い回るように投影された。熱帯の夜空を、サイバーパンクのネオンカラーがどぎつく染め上げる。
「ギャアアアアッ!!」
「GlitcH!! GlitcH!!」
バンコクの観客たちが、言葉の壁など最初から存在しないかのように、私たちの放つビートに合わせて地響きのようなジャンプを繰り返す。
暑い。
信じられないほど暑い。
一曲目が終わる頃には、私たちの退廃的なドレスは汗で完全に体に張り付き、息を吸うたびに喉が焼け付くように痛んだ。
しかし、肉体が限界に近づけば近づくほど、六人の怪物は異常なアドレナリンを分泌し、パフォーマンスの純度を増していく。
レイカは流れる汗すらも演出の一部のように魅せ、誇り高い視線で客席を睥睨する。
マコは熱中症スレスレの極限状態の中で、まるで命を削るような鋭いウィスパーボイスを響かせ、現地のオーディエンスを絶句させた。
そしてサエ。
暑さで機能停止していたはずの彼女は、マイクを握った瞬間、このまとわりつくような湿気をすべて自らの声帯に取り込んだかのような、重く、粘り気のあるノイズボーカルをスタジアムに放った。
それは、熱帯のスコールのように観客の脳を直接打ち据え、彼らの理性を完全にショートさせた。
私はステージの最前線に立ち、滝のように流れる汗を拭うこともせず、ただひたすらに重低音のラップを浴びせ続けた。
言語なんて関係ない。私たちが今ここで燃やしている執念と命の熱量だけが、彼らの鼓膜をハッキングしていく。
「――System Shutdown」
最後の一曲が終わり、暗転したスタジアム。
五万人のオーディエンスは、もはや歓声を上げる体力すら残っていないのか、まるで嵐が過ぎ去った後のように、深い溜息と祈るような拍手をステージに送っていた。
「……はぁっ、はぁっ……」
ランが私の隣で、珍しく膝に手をついて荒い息を繰り返している。
アカリも笑顔を作る余裕をなくし、マコはレイカに支えられながらなんとか立っている状態だ。
「……最高に、気持ち悪い気候だったわね」
私がマイクを通さずに呟くと、ランがふっと笑い声を漏らした。
「ええ。でも、悪くない景色よ」
スタジアムの照明が灯る。
そこには、私たちの猛毒に完全に当てられ、魂を抜かれたような顔でステージを見上げる五万人の姿があった。
アジアの熱狂は、私たちのバグによって完全に制圧されたのだ。
ステージを降り、裏の通路に倒れ込むようにして戻った私たちを、鮫島プロデューサーが慌てて氷嚢とスポーツドリンクを持って出迎えた。
「素晴らしい! 現地のプロモーターが震え上がっていたぞ。これでアジア圏の制圧は完了だ!」
「ひぃぃ……もう、本当に一歩も動けませんぅ……」
マコがそのまま床に寝転がり、レイカが「汚いからやめなさい!」と怒鳴る気力もなく、隣に座り込んだ。
「鮫島さん、ヨーロッパツアーまでのインターバル、どれくらいあるの」
私が氷嚢で首筋を冷やしながら尋ねると、鮫島はタブレットを確認した。
「一週間のオフを挟んで、ロンドンからスタートだ。……だがミオ、その前に一つ、厄介な仕事が入っている」
「厄介な仕事?」
鮫島がタブレットの画面を切り替え、私に見せた。
そこに映っていたのは、日本の大手テレビ局からのオファー書だった。
「ワールドツアーの大成功を受けて、日本のメディアがこぞって君たちの独占インタビューを求めている。その中で一番影響力のある、生放送の報道番組からだ。……コメンテーターとして、あの男が出演する」
画面に大写しになったのは、鋭い目つきをした中年の音楽評論家・西崎。
かつて私たちがデビューしたばかりの頃、雑誌のコラムで『GlitcHはただの悪目立ち。音楽的な深みは皆無で、すぐに消える一発屋』と酷評していた、業界の権威と呼ばれる男だった。
「……なるほど。私たちが海外で結果を出したからって、手のひらを返して擦り寄ってきたわけじゃないのね」
レイカが冷ややかに笑う。
「ああ。西崎は今でも君たちのアンチの筆頭だ。生放送のインタビューという形をとって、君たちの海外での成功を『ただの運』『パフォーマンスの過激さだけ』だと論破し、公開処刑する気だろう」
鮫島が渋い顔をする。
私は氷嚢をテーブルに放り投げ、喉の奥で嗤った。
「面白いじゃない。ロンドンへ飛ぶ前に、日本の古いシステムにすがりついてる老害の息の根を、完全に止めてあげるわ」
灼熱のアジアを制圧した反逆者たちは、次なる戦いの場である「言葉の檻」へと歩みを進める。
私たちの猛毒は、物理的なステージの上だけでなく、電波に乗ってあらゆる常識を焼き尽くしていくのだ。




