episode26
地下深くにある専用第1レッスン室。
窓ひとつない密閉されたコンクリートの空間には、換気扇の鈍いモーター音と、スピーカーから吐き出される重低音だけが暴力的に響き渡っていた。
壁一面を覆う巨大な鏡は、私たち7人が発する尋常ではない熱気によって白く曇りきっている。ガラスの表面に結露した幾筋もの水滴が、まるで誰かの冷たい涙の跡のように、音もなく床へと流れ落ちていた。
床に塗られたワックスの人工的な匂いと、限界まで追い込まれた肉体が発する熱い汗の匂いが混ざり合い、呼吸をするたびに肺の奥が焼け焦げるように痛む。
「……ストップ! アカリ、そこ!」
私が声を張り上げると、音楽が不自然にブツリと途切れた。
蛍光灯の無機質で青白い光の下、全員が肩で激しく息をし、滴り落ちる汗を拭うことすら忘れてその場に立ち尽くしている。
「アカリ。サビの転調前、ランの背後からあなたが顔を出すタイミング。コンマ五秒早いわ。あなたの『狂気』がランの『光』を完全に侵食するギリギリの境界線は、そこじゃない」
「……っ、わか、ってますぅ……!」
アカリは両膝に手をつき、顔から汗をボタボタと床に落としながら、私を鋭く睨み返した。
いつもの甘ったるい声色は完全に消え失せ、むき出しの苛立ちと承認欲求がその瞳でドロドロと燃えている。
「文句があるなら、ランのステップに完全に同調してみなさい。……ラン、あなたのターンも少しブレた。アカリのプレッシャーに無意識に反発して、重心がわずかに浮いたわよ」
「……誰に口を利いているの」
ランが、濡れた前髪を乱暴に掻き上げながら、氷のように冷たい声で返した。
彼女の足元には、誰よりも多くの汗の水たまりができている。限界突破のチートがない今の私は、彼女の暴力的で完璧な技術に追いつくため、ただひたすらに「全体を俯瞰する演出家」としての目で彼女たちをコントロールし、自分自身の肉体は三十年分の執念という見えない力だけで無理やり動かしていた。
「もう一度。イントロから通すわよ」
私の合図で、再び重苦しいトラックが鳴り始める。
シューズのゴムが床を激しく擦る摩擦音。
衣擦れの音。
誰かが限界を超えて肺から空気を絞り出す、かすれた呼吸音。
ランの純白の翼のようなステップが、湿り気を帯びた空気を鋭利な刃物のように切り裂く。
その背後で、アカリが獲物を狙う蜘蛛のように滑らかに動き、サエがマイクを持たずに不協和音のハミングを空間に撒き散らす。
レイカとマコは、互いの異なるポテンシャルをギリギリの糸で繋ぎ止めながら、一つの歪なフォーメーションを形成していく。
そして、私。
私は彼女たちが作り上げた凄まじい熱量の空間に、重い泥を引きずるようなステップで足を踏み入れる。
全員の動きが完璧に揃ったその直後――映像のフレームレートがガクンと落ちたかのように、全員で意図的に「半拍(コンマ数秒)」だけ動きを遅らせる。
視覚的なバグ。
完璧に統制された美しい群舞が、一瞬だけノイズにまみれて崩壊する、極めて人工的でグロテスクな美しさ。
「……っ!!」
全員の息がピタリと合った瞬間、曇った鏡の向こう側に、鳥肌が立つほどの『異次元のステージ』が確かに浮かび上がった。
仲良しこよしのアイドルではない。お互いの喉元にナイフを突きつけ合いながら、その刃の反射光で極上のエンターテインメントを作り上げる、美しい怪物たち。
深夜三時。
外の空気を吸うために、非常階段の重い鉄扉を押し開けた。
春の夜風が、汗で濡れたTシャツに張り付き、火照った皮膚から急速に熱を奪っていく。
眼下に広がる関東の街は、深い静寂に包まれていた。
遠くを通る高速道路のオレンジ色の街灯だけが、黒いアスファルトの上に等間隔に並び、まるで無機質な光の川のように果てしなく続いている。
規則的に走る深夜のトラックの走行音が、遠くの波音のようにザァァ、ザァァと耳に響く。
手すりに寄りかかり、見下ろす街の冷たさに、私はふと前世の記憶を重ねていた。
あの頃もこうして、締め切りに追われて徹夜をした後、ワンルームの冷たいベランダから誰もいない街を見下ろしていた。
何も変わらない無機質な夜の景色。
けれど、今は違う。
「……ミオ」
背後で鉄扉が開く音がして、静かな足音が近づいてきた。
振り返ると、ランが自販機で買った冷たい缶の水を私の頬に押し当ててきた。
「冷たっ……!」
「少しは休んだら? 演出家様が本番でぶっ倒れたら、私の完璧なステージに泥を塗ることになるわ」
ランは私と並んで手すりに寄りかかり、遠くの光の川をジッと見つめた。
彼女の横顔は、レッスン室での好戦的なものとは違い、どこか年齢相応の儚さを帯びているように見えた。
「……ねえ、ミオ」
「何よ」
「私、ずっと一人だった。私が完璧に踊れば踊るほど、周りの子は勝手に絶望して、勝手に私から離れていった。誰も、私の真横に立って、私を食い殺そうなんてしなかった」
夜風が、彼女の少し湿った髪を揺らす。
ランは私の方を向き、その暗い瞳にオレンジ色の街灯の光を反射させて、深く、静かに笑った。
「だから……絶対に、私を退屈させないでね。私の光が届かないくらい深いあなたのその泥沼で、最後まで私を溺れさせて」
「言われなくても」
私は缶のプルタブを開け、冷たい水を喉に流し込んだ。
冷気が胃の腑に落ちていく感覚とともに、腹の底で黒い炎が静かに燃え上がるのを感じる。
「私の毒は、もう骨の髄まで回ってるはずよ。……本番、楽しみにしてなさい」
夜明け前。
東の空が、インクを零したような深い群青色から、少しずつ白み始めていた。
無機質な街の輪郭が、冷たい光の中でゆっくりと浮かび上がってくる。
泣いても笑っても、今日が最後。
すべてを賭けた最終生放送のステージが、静かに、そして確実に幕を開けようとしていた。




