【第9話:咫尺(しせき)の闇、宿命の遠雷】
第9話です。
忠臣たちの命懸けの根回しにより、ついにあと一歩で出会える寸前まで漕ぎ着けた親子。
しかし、昭和の名作『君の名は』のような、不可抗力のアクシデントが二人を襲います。
「本当に、これで抜かりはないのだな、武藤」
「はっ。
蝦夷側の首領が腹心、アツシなる者と幾度も雁の文を交わし、
兵の隙、時刻、すべてを合わせました。
表向きは『朝廷軍による蝦夷の懐柔、帰順の密計』。
これならば、都の主戦派どもの目を完全に欺けます」
「そうか……。ついに、会えるのだな」
薄暗い山道を歩みながら、父親は己の右手をじっと見つめた。
その指先は、数々の戦場をくぐり抜け、
多くの血を吸ってきた武人らしからぬほど、小さく、だが確かに震えている。
十数年という歳月は、あまりにも長すぎた。
我が子の顔すら、おぼろげな記憶の彼方に消えかけている。
「武藤、私はあの子に、父親らしいことを何一つしてやれなかった。
あの戦乱の日常から引き裂かれ、この陸奥の見知らぬ世界に放り出されてから、
ずっと、あの子の面影を探し続けていた」
「我が主、お言葉ですが、あなた様がどれほどの思いで今日という日を迎えられたか、
この武藤、痛いほどに存じております。
どうかお心を強くお持ちください。
あと一歩、あの荒れ果てた社の板戸を開ければ、すべてが報われます」
武藤の力強い言葉に、父親は深く息を吐き出し、ただ一つ、深く頷いた。
同じ刻、山の反対側から、木々が鬱蒼と生い茂る険しい斜面を登る一団があった。
「若、本当に罠ではなさそうですね?
少しでも不審な気配があれば、すぐにこのアツシが前に出ます」
「アツシ、お前が命を懸けて整えてくれた舞台だ。俺は信じる。
それに、ここまで来て引き返せるかよ」
若と呼ばれた息子は、胸の奥の痛みに耐えるように眉根を寄せた。
「大和の将軍。敵の親玉。
だが、なぜだろうな。
あの男の名を耳にするたび、胸が狂おしいほどに引き裂かれそうになるんだ」
「若……」
「確かめなければならない。
俺の失われた過去を、あの男が握っている気がしてならないんだ。
この脳裏に焼き付いて離れない、あの懐かしい異郷の記憶の断片が、
あの男に繋がっているような、そんな奇妙な確信がある」
「行きましょう、若。あの古き山宮で、すべての答えが待っています。
俺たちが新しい時代を生きるためにも、
過去を断ち切るにせよ、受け入れるにせよ、対面せねばなりません」
アツシは周囲の茂みを鋭く警戒しながら、一歩一歩、若を促した。
境界の地に佇むのは、人の行き来が途絶えて久しい、廃い果てた山の古き社。
冷たい風が吹き付けるたびに、朽ちかけた木造の壁がギィ、ギィと、
まるで不吉な神託のように悲鳴を上げる。
「武藤、護衛の兵たちはここに残せ」
「しかし、主君! 万が一のことがあっては!」
「これは和議の密談だ。
大軍を連れては相手が警戒するし、誠意が伝わらん。
お前だけがついて来い」
父親はそう言い残し、社の重い、苔むした木戸にそっと手をかけた。
時を同じくして、息子の足も、対面の部屋へと向かっていた。
「アツシ、お前はここで待て。俺一人で入る」
「若、くれぐれもご油断なきよう。
何かあれば、俺のこの命に代えても飛び込みます」
薄い板戸一枚、粗末な帳一枚を隔てた向こう側に、
互いの気配が静かに満ちていく。
『あの噂の人物が、ついに目の前に現れる』
父親の胸を去来するのは、かつて遠い記憶のなかで抱き上げた、
あの幼く、柔らかい我が子の温もり。
『この戸の向こうに、俺の運命を変える男がいる』
息子の胸を激しく焦がすのは、正体不明の焦燥と、言葉にできないほどかすかな、
しかし確かな期待。
互いに呼び合う名さえ霧に包まれたまま、
すれ違い続けた二人の距離が、ついに、ついにゼロになる瞬間が近づいていた。
あと数秒。あと一扉。
父親は緊張で震える手で社の扉を押し開けようとし、
息子もまた、対面の部屋へと足を踏み入れる。
お互いに、期待と焦燥で胸を爆発させそうになっていた――まさにその瞬間だった。
「ひるむな!
朝廷の売国奴もろとも、蝦夷の蛮族を射殺せ! 放てっ!!」
突如として、社を囲む静寂の森から、悍ましい怒号が響き渡った。
「――!? 敵襲か!」
武藤が叫ぶのと同時に、バラバラと激しい、不穏な音を立てて、
無数の矢が社の屋根や壁を容赦なく貫いた。
古びた板壁が裂け、鋭い矢先が室内に次々と飛び込んでくる。
「何事だ!? 一体どこから!」
「若、危ない!」
アツシが猛然と室内に飛び込み、息子の身体を床へ強く組み伏せた。
寸前まで息子の頭があった背後の壁に、
何本もの矢が不気味な音を立てて深く突き刺さる。
「くそっ、やっぱり和議を騙った罠だったのか!?
大和の奴らめ!」
息子が怒人に任せて毒づくが、アツシは即座に首を振った。
「違います!
あれは大和の兵ですが、我らが待つ本軍ではございませぬ!
将軍の和平路線を『売国』とみなす、都の主戦派貴族から密命を受けた、
別将率いる暴走部隊に違いありません!」
「何だと……!? 味方同士で殺し合っているっていうのか!」
外からは、彼らの目論見を示す、狂気に満ちた叫び声が響いてくる。
「蝦夷の指導者もろとも、売国奴の将を暗殺せよ!
これを機に強制的に全面戦争へと突入させるのだ!」
「おのれ、都の頑迷どもの謀略か!」
父親は刀を引き抜き、迫り来る刺客を迎え撃とうと身を乗り出した。
しかし、その身体を武藤が背後から強く、強引に抱きしめる。
「武藤、放せ!
向こうの部屋に、あの子が――私の息子がいるのだ!
今度こそ会わねばならん!」
「ダメです、我が主!
完全に包囲されています!
ここであなたが倒れれば、陸奥の和睦の光は完全に潰える!
私の命に代えてもお連れします!」
「放せ! あと数歩、あと数十秒なのだ!
私はあの子の顔をこの眼で確かめるまでは、死んでも死にきれん!」
「敵襲!! 主君をお守りせよ!!」
武藤は父親の悲痛な叫びをかき消すように大声を張り上げ、
その身体を羽交い締めにしたまま、力任せに混沌の部屋から引き剥がした。
「若! 罠だ! 若、お引きください!
ここにいては射抜かれます!」
反対側の部屋では、アツシが暴れる息子の腕を必死に掴んでいた。
「待て、アツシ! 放せ!
向こうの部屋の奴の声を、俺は今、確かに聞いた気がするんだ!
忘れるはずのない、あの懐かしい声を!」
「気のせいです、若! ここで死んでは意味がない!
生きていれば、必ずまた機会はあります! 来てください!」
アツシは息子の身体を強引に抱え上げると、
無数の矢が降り注ぐ開口部を駆け抜け、そのまま外の険しい斜面へと飛び降りた。
激しい混戦の足音、肉を裂く悲鳴、
そして放たれた火矢によって古き社から勢いよく立ち上る黒煙。
すべてが運命の過酷な混沌の渦に巻き込まれていく。
「若――っ!」
「武藤――放せ、放してくれ……あいつがそこにいるんだ――!」
あと数十秒、あと数歩のところだった。
互いの指先が触れ合うほどの距離にまで近づきながらも、
二人は直接その顔を合わせることはなかった。
立ち込める濃い黒煙が二人の視界を完全に遮り、
激しく燃え盛る炎の音が、互いの悲痛な叫び声を無情にも遠ざけていく。
十数年ぶりの再会という奇跡は、
歴史の闇に蠢く無慈悲な陰謀によって、無残にも粉砕された。
父親と息子は、互いの安否すら分からぬまま、
再び激しく渦巻く運命の濁流によって、無情にも引き裂かっていくのだった。
あと一扉、あと数秒のすれ違い。
部下たちの純粋な「主君を守るための過保護な壁」と、
朝廷主戦派の謀略というアクシデントが、非情にも二人を引き裂きます。
しかし、この現場に「あるもの」が残されます。次回、第1章クライマックス!




