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北天の彩雲〜征夷の花と蝦夷の月〜  作者: 塩塚 蘭仮名


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【第8話:忠臣たちの密かな共鳴】

第8話をお届けします。

ここから物語の駆動輪として「双方の忠臣」が大きく動き出します。

主君の苦悩を察した彼らが、国境の霧の中で密かに接触する胸熱な展開をお楽しみください。

「副将、夜風が冷え込みます。中へお戻りください」


「……ああ。すまない、武藤。少し、考え事をしていてね」


建設中の胆沢城。

月明かりすら遮るほどに分厚い夜の雲を見つめたまま、父親――

大和朝廷の副将は力なく微笑んだ。


その手には、あの黒く汚れた漆椀が固く握られている。

あの日以来、主君の横顔から生気が消えた。

飢えた獣のような都の公卿たちを相手にする時よりも、

ずっと深く、痛々しい拒絶の影がその身を削っている。


「……北の空は、いつも高いな」


「副将……」


ただ一言そう呟き、漆椀を愛おしそうに撫でる主君の背中を見つめながら、

武藤は胸の奥で静かに確信を深めていた。


(やはり、そういうことか。

我が主がこれほどまでに身を削り、魂を摩耗させてまで

想いを寄せる大切な人物が、あの蝦夷の陣営の中にいる)


武藤にとって、この主君は単に俸禄をくれる上官ではなかった。

冷酷な律令の仕組みに押し潰されそうになりながらも、

現場の兵の命を、そして敵であるはずの民の尊厳すら守ろうとする不器用な人徳。

その誠実さに、武藤は魂の底から救われていた。


(主君の笑顔を取り戻したい。そのために、私ができることは何だ)


武藤は、軍幕へ戻る父親の背中に向かって、声にならぬ誓いを立てた。

大和の軍律を犯し、敵地へ単独で潜入する。

見つかれば即座に処刑される狂気の沙汰だ。


しかし、主君がその立場ゆえに決して語れぬ想いがあるのなら、

自分が代わりにその糸を繋ぐ。

それが、影としての己の生きる道だと、武藤の決意は揺るぎなかった。


*

同じ頃、朝廷の軍勢の追撃から逃れ、深い山奥へと落ち延びた蝦夷の陣営。

木々の隙間から差し込む冷たい月光の下で、アツシは静かに佇んでいた。


「みんな、先に休んでくれ。俺が周囲を見回してくる」


「若き長(おさ)、あまり無理をなさらないでください。まだ傷が……」


「大丈夫だよ。ありがとう」


民の前ではどこまでも気丈に、希望の光として振る舞う息子――拓海。

しかし、全員が寝静まった夜の帳のなか、

一人の天幕に戻った主君の肩が、小さく震えているのをアツシは見逃さなかった。


「……親父……。ごめん、守れなかったよ……みんなの居場所を……」


膝を抱え、消え入りそうな声で呟く主君の涙。

アツシは天幕の影で、自らの巨大な拳を痛いほどに握りしめた。


その時、アツシの脳裏に、あの焼き討ちの夜の光景が鮮明に蘇る。

炎のなかで激しく刃を交え、漆椀に刻まれた奇妙な文字を見た瞬間、

明らかに動揺して武器を引いた大和の武士――武藤の姿。


『行け。これ以上、我が主に罪を重ねさせるな』


あの男の目は、大和の冷酷な侵略者どものそれとはまるで違っていた。


(あの副将の周りには、俺たちと同じ目をした奴がいる。

主を想って、身を引き裂かれるような顔をして戦っている奴が。

……若き長の会いたい者は、間違いなくあそこにいるんだ)


アツシは、懐の手斧の柄を強く握った。


「待っててくれよ、若き長。

俺は頭が悪いから、大和の言葉も和睦のやり方も分からねえ。だけどよ……」


アツシもまた、仲間たちには一切の内緒で、

危険極まる朝廷軍の占領地域へと、影のように忍び込んでいく決意を固めていた。


主君の涙を止めるためなら、たとえ大和の城の真ん中であろうと、

悪鬼の棲処であろうと恐れはなかった。


*

翌朝。みちのくの原生林は、乳白色の濃い朝霧に包まれていた。

一歩先すら見失いそうな白銀の世界、国境の渓谷の底。

パキリ、と湿った小枝が折れる音が、静寂を切り裂いた。


「――そこまでだ」


「……やはり、来たか、大和の男」


朝霧のなかから、二つの影がぬうっと姿を現す。

大和の軍衣を脱ぎ捨て、身軽な麻衣をまとった武藤。


そして、毛皮の外套に手斧を携えたアツシ。

奇跡の符合か、あるいは互いの主君を想う「忠義の糸」が引き寄せた必然か。

かつて戦火のなかで火花を散らした二人の忠臣は、

今、国境の霧深い渓谷で、再び一対一で対峙していた。


しかし。今度はどちらも、武器を抜こうとはしなかった。

武藤はアツシの剥き出しの身体を見つめ、

アツシは武藤の鋭い眼光をじっと受け止める。

張り詰めた沈黙を破ったのは、武藤の低く、静かな声だった。


「お前の主君も……あの若き指導者も、

我が主と同じように、身を削って相手を想っているのか」


アツシはその言葉に、一瞬だけ驚愕に目を見開いた。

だが、すぐにその視線の奥にある、自分と全く同じ「情念」を悟る。


「……ああ。そうだ。

若き長はな、夜になると、民に隠れて一人で泣いてるんだ。

大和の副将を『親父』って呼んでさ。


自分なんかどうなってもいいから、あの人を助けたいって、

そればかり考えてやがる」


「我が副将も同じだ。あの日お前が落とした漆椀を抱きしめて、

軍幕のなかで声を上げて泣いておられた。

自らの手で、息子の居場所を奪ってしまったと……己を責め続けておられる」


武藤の言葉に、アツシは深く、無言で頷いた。

国としては、決して相容れない敵同士。


朝廷が掲げる「律令の秩序」と、蝦夷が命を懸ける「支配されぬ自由」。

その幸せの定義のズレは、どれだけ言葉を尽くしても分かり合えない、

冷酷な不条理だ。現に、昨日までお互いの仲間を殺し合ってきたのだから。

しかし。


「……国なんてものは、俺にはどうでもいい」


アツシがぽつりと呟いた。


「俺だってそうだ。

私が守りたいのは、大和の大義ではない。あの御方の命だ」


二人の忠臣の視線が、霧のなかで真っ直ぐに交錯する。

そこにあったのは、民族の壁や戦争の憎悪を遥かに超えた、主君への絶対的な愛。


そして、主君の苦痛を身代わりに背負おうとする、

忠臣としての魂の熱い共鳴だった。


「お前たちの若き長を、我が主に逢わせたい。

一度だけでもいい、直接言葉を交わさせてやりたいんだ。

そうせねば、あの二人の魂は、この戦火のなかで死んでしまう」


「大和の武士……お前、本当にいい奴だな。

俺も同じことを考えてた」


アツシの顔に、初めて敵に対する不器用な笑みが浮かんだ。


「示し合わせる必要はない。我らはそれぞれの影だ。

明後日の払暁、両軍の境界にあるあの木橋の周囲の警戒を、

私の一派で緩める。お前は若き長を連れてそこへ来い」


「分かった。俺の命に代えても、若き長をそこへ連れていく」


霧が、二人の影を再び包み込んでいく。

国を揺るがす軍事(いくさ)の裏側で、示し合わさぬ二人の忠臣の暗躍が、

静かに、しかし確実に始まりを告げていた。


引き裂かれた父と子を逢わせるための、

命を賭した救出劇。朝霧の渓谷に吹き抜ける風は、

どこまでも冷たかったが、交わされた男たちの約束には、

確かな、熱いぬくもりが宿っていた。

敵味方でありながら、「主君を想う心」だけで共鳴し合う武藤とアツシ。

彼らの独断の行動が、すれ違い続ける親子を引き合わせるための

「影の根回し」へと繋がっていきます。

次回、完璧な計画が始動します!

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