【第7話:黒煙の彼方の誓い】
第7話です。
燃える漆の木立のなかで、忠臣同士が刃を交え、
そして一つの「漆椀」が父親の手に渡ります。
言葉ではない、物理的な手段によって親子の想いが交錯する、最初の決定的な瞬間です。
「おおおおおッ!」
「くっ……、そこまでだ、蝦夷の男!」
燃え盛る集落の裏手、鬱蒼と茂る漆の木立の奥深く。
火の粉が雪のように舞い散るなかで、激しい金属音が鼓膜を震わせた。
民を逃がすために殿を務めていた蝦夷の忠臣・アツシと、
主君たる副将の尋常ならざる苦悩を察し、
単独で周囲を警戒していた朝廷軍の忠臣・武藤。
二人の刃が、真っ赤に染まる煙のなかで激しく火花を散らす。
「退け! これ以上、我が主の進軍を邪魔させるわけにはいかん!」
「……なぜだ。なぜ、こんな酷いことをするんだ!」
武藤の猛攻を大振りの蕨手刀で受け止めながら、
アツシが叫んだ。
その瞳に宿っていたのは、剥き出しの殺意ではない。
家々を焼かれ、故郷を追われた者としての、
底知れない、深い悲しみだった。
「俺たちはただ、この山で静かに暮らしていただけだ!
誰も、お前たちの京の都なんて狙っちゃいねえ!
なのに、どうして全部燃やすんだよ!」
「それが、朝廷の……律令の秩序だ!
まつろわぬ者を放置すれば、この国は内から崩壊する!」
「そんな理屈、知るかよ!
お前たちの言う秩序ってのは、血の匂いしかしないのか!」
アツシの渾身の一撃が、武藤の甲冑を叩く。
激しい乱戦のなか、二人の身体が激しくもつれ合った。
その衝撃の最中だった。
アツシの懐から、布に包まれた小振りの塊が滑り落ち、
泥まみれの地面へと転がり落ちた。
「しまっ……! 俺の、漆椀が!」
「隙ありッ!」
武藤が鋭い踏み込みを見せ、アツシの大刀を力任せに弾き飛ばした。
アツシの体勢が大きく崩れ、漆の幹に背中を打ち付ける。
勝負は決した。
武藤がその首元へ、冷酷な刃を突きつける。
だが、武藤の視線が、ふと泥の上に転がった「それ」に留まった。
「……ん? これは、木椀か? いや、漆の……」
包み布がはだけ、
歪ながらも丁寧に磨き上げられた手作りの漆椀が姿を覗かせていた。
木炭の汚れにまみれたその器の底に、奇妙な「傷」が刻まれている。
大和の厳格な漢字ではない。
蝦夷の伝統的な幾何学模様でもない。
それは、丸みを帯びた、奇妙に不器用な、
現代の「ひらがな」だった。
『おかえり』
「な……ッ!? こ、この文字は……!」
武藤の脳裏に、凄まじい激震が走った。
深夜、誰もいない軍幕のなかで、一人で頭を抱えながら、
砂や木簡に小さく書き付けては消していた、
あの主君(父親)の奇妙な文字。
全く同じ形が、なぜ、この蝦夷の男の椀に刻まれている。
「おい、お前! この椀はどこで手に入れた!
誰がこの文字を刻んだんだ!」
「若き長だよ!
俺たちの、若き長が教えてくれたんだ!
『いつか、この椀を持って、遠い国へ行った大切な人を迎えにいくんだ』って!
かぶれない漆の作り方も、全部若き長が……!」
「若き長……。
あの、捕虜を温湯の布で癒やして返したという、若き指導者か……?」
武藤の手が、目に見えてガタガタと震え出した。
主君が、略奪を禁じてまで守ろうとした敵の村。
夜な夜な涙を流して呟いていた「拓海」という名。
精度を増していく状況。
そして、この器の底に遺された、前世の繋がりを示す、優しすぎる平仮名。
すべてが、一つの線として繋がってしまった。
「……そうか。そういうことだったのか。副将、あなたは……」
武藤は、ゆっくりと刃を引いた。
アツシの首元から剣が離れる。
「な、なぜだ……? なぜ大和の兵が、刃を収める?」
「……行け。早く行くんだ、蝦夷の男」
「え?」
「これ以上、我が主に罪を重ねさせるな。
お前たちの若き長を連れて、このみちのくの、
大和の刃の届かぬ地の果てまで逃げ延びろ」
「お前……」
アツシは驚愕に目を見開いたが、
武藤の瞳にある「本物の誠実さ」を察し、
泥まみれの大刀を拾い上げた。
「大和の武士……お前の名前を、教えてくれ」
「名乗る名などない。私は、主君の影だ。
……さあ、早く行け!」
武藤の鋭い一喝に、アツシは漆椀を残したまま、
燃え盛る村の奥、深い霧のなかへと消え去っていった。
一人残された武藤は、泥のなかにひざまずき、
その黒く汚れた漆椀を、壊れ物を扱うように両手で拾い上げた。
「副将……。私は、どこまでも、あなたと共に行きます」
*
大和の軍勢の本陣。
勝鬨をあげる兵たちの喧騒から遮断された、静まり返る軍幕のなか。
父親――大和の副将は、一人、
死んだような面持ちで卓の前に座り込んでいた。
自らの指揮で焼き払った村の光景が、網膜に焼き付いて離れない。
「失礼します、副将」
武藤が、音もなく軍幕に入ってきた。
その甲冑は煤で汚れ、酷く疲弊している。
「武藤か……。周辺の制圧は終わったか。蝦夷の残党は……」
「はっ。すべて北の山嶺へと敗走いたしました。
……副将、これをお受け取りください」
武藤は、懐から布に包まれた小さな塊を取り出し、
父親の卓の上に静かに置いた。
「これは何だ? 戦利品の報告なら、後にしろと言ったはずだ」
「戦利品ではございません。
……私が、命に代えても、あなたに届けねばぬと判断した遺品です。
どうか、その目で、底をお確かめください」
武藤の尋常ならざる声音に、父親は怪訝そうに布を解いた。
現れたのは、木炭で真っ黒に汚れた、歪な漆の椀だった。
父親はそれを手に取り、ひっくり返す。
その瞬間、父親の呼吸が完全に止まった。
「――っ、ああ……あ……!」
椀の底に刻まれた、見間違うはずのない、現代のひらがな。
前世の日本で、仕事ばかりで家族を顧みなかった自分が、
たまの早く帰れる夜、不器用な文字で
メモ用紙に書いてリビングに置いておいた、あの言葉。
『おかえり』
「拓海……っ。お前、やっぱり、あそこにいたんだな……!」
父親の膝がガクガクと激しく震え出し、そのまま床へ崩れ落ちた。
都の命令に従って、「まつろわぬ蛮族の拠点」として
自らの手で焼き払った、あの優しく切ない村。
それこそが、我が子がこの過酷な異世界で、
必死に築き上げた、愛おしい居場所だったのだ。
自らの手で、息子の家を焼いた。
自らの軍靴で、息子の幸せを踏みにじった。
その圧倒的な罪悪感と、我が子が確かに生きているという
猛烈な歓喜が、父親の胸の内で暴風雨のように吹き荒れる。
「う、うわああああああッ! 拓海、拓海ぃぃぃッ!」
父親は漆椀を胸に強く抱きしめ、
誰もいない軍幕のなかで、声を上げて号泣した。
武藤は、その主君の背中を、ただ静かに、
何も言わずに見守り続けていた。
その目にも、静かな涙が伝っていた。
「……副将。
これ以上の蛮行は、私が影となって、命に代えても阻止いたします」
*
一方、遥か遠くの山嶺。
黒煙が立ち上り、真っ黒に染まっていく故郷の空を、
息子は岩頭から静かに見つめていた。
傍らに、息を切らせたアツシが戻ってくる。
その身体は傷だらけだった。
「若き長……、すまねえ。俺、しくじっちまった……」
「アツシ、生きててくれたんだね。よかった……」
「いや、そうじゃねえんだ。
俺、若き長から預かった、あの、精製した漆の椀……
大和の奴らとの混戦のなかに、落としてきまっちまったんだよ……。
大切なものだって、言ってたのによ……!」
アツシは悔しさに唇を噛み、地面を拳で叩いて涙を流した。
しかし、息子はそれを見て、怒ることも、悲しむこともせず、
ただ、静かに微笑んで首を振った。
「うううん。いいんだ、アツシ。謝らないで」
「でも、若き長……!」
「届いたと、思うから」
少年の視線は、黒煙の向こう側、
朝廷の軍勢の本陣があるはずの、遥かなる南の空へと向けられていた。
あの文字を、あの筆跡を、親父が見逃すはずがない。
顔は見えない。直接言葉を交わすことも、抱き合うことも叶わなかった。
けれど、二人の想いは、一つの汚れた漆椀という
物理的な痕跡となって、確かに、お互いの境界を越えて届いていた。
北の空に、冷たい、しかしどこか確かなぬくもりを孕んだ風が吹き抜ける。
すれ違いの悲劇のなかで、
父と子の魂は、今、漆黒の煙の彼方で、固く、固く結び合わされていたのだった。
椀に刻まれた「おかえり」の四文字。
我が子を自らの手で脅かしてしまった父親の絶望と号泣は、
歴史のやるせなさを象徴しています。
次回、忠臣たちは主君のために、ある「決意」を固めます。




