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北天の彩雲〜征夷の花と蝦夷の月〜  作者: 塩塚 蘭仮名


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【第6話:沸き立つ漆と、焼き払われる村】

第6話は、これまでの壁打ちでも特に重要だった「具体的な事件」を描きます。

争いを好まない蝦夷の営みと、国家の命を背負ってそれを踏みにじる朝廷軍の悲劇。

概念ではなく、一つの描写としてお届けします。

「うおっ、熱っ、冷たっ! 

若き長(おさ)、これで本当に合ってるのか!?」


「手元が狂ってるよ、アツシ。火に近づけすぎ。

漆の温度を一定に保たないと、せっかくの精製が台無しになっちゃう」


北の深い山懐。

むせるような緑の匂いと、微かに鼻を突く樹液の香りが

漂う小さな集落の一角で、息子――

拓海は苦笑混じりにアツシの不器用な手元を覗き込んでいた。


「だってよぉ、若き長。

漆の汁ってのは触るだけで全身が呪われたみたいにかゆくなるって、

ばっちゃが言ってたぜ? 


それをこんな、お湯で温めながらじっくり練るなんてよ。

大和の呪術か何かか?」


「呪術じゃないよ。

前世の、いや、僕が知ってる遠い国のやり方さ。

こうやって水分を飛ばして均一に精製すれば、肌がかぶれにくくなるし、

塗った後の艶がまるで違ってくるんだ。ほら、やってごらん」


アツシは熊のような大きな手を慎重に動かし、木箆で漆を練り上げていく。

彼の前には、歪ではあるが、どこか温かみのある手作りの木椀が並んでいた。

不器用な彼が、若き長の教えを忠実に守って作った、初めての漆椀だった。


「……すげえ。本当にピカピカしてきた。

なぁ若き長、俺たちの漆器は最高だろ?」


「うん。すごく綺麗だよ、アツシ」


「だろ! 

戦なんてしねえでさ、この椀を京の連中に持っていって、

美味い米や綺麗な布と物々交換できりゃいいのになぁ。


そうすりゃ、誰も死ななくて済むだろ? 

大和の奴らだって、この椀で飯を食えば絶対に笑顔になるぜ」


アツシは漆椀を愛おしそうに見つめ、

無邪気に白い歯を見せて笑った。

その屈託のない言葉に、息子の胸は締め付けられる。


「……そうだね。いつか、本当にそうしよう」


答える少年の横顔には、

しかし、拭いきれない深い焦燥の影が滲んでいた。


風が冷たい。山を吹き抜ける風のなかに、

鉄と、馬の汗の匂いが混ざり始めているのを、

少年の鋭い五感はすでに捉えていた。

大和の軍勢(いくさ)の影が、すぐそこまで迫っている。


(物々交換で済むなら、どれだけよかったか。

大和の背後にある仕組みは、そんな個人のささやかな幸せなんて

最初から計算に入れていないんだ……。

アツシ、君たちを、この村を、どうやって守ればいい――)


どん、と遠くで地鳴りのような音が響いた。

鳥たちが一斉に羽ばたき、木々の間から飛び出していく。


「若き長! 火の手だ! 

村の入り口から大和の奴らがなだれ込んできたぞ!」


「――アツシ、みんなを連れて裏の漆の木立へ走れ! 

荷物はいい、命を最優先にするんだ!」


 *

「ひるむな! 蝦夷の毒矢に気をつけろ! 

奴らは人の言葉を解さぬ野蛮な獣だ!」


「容赦するな! 

逆らう者はすべて切り捨て、拠点を根こそぎ焼き払え!」


朝廷の兵たちの狂気じみた怒号が、静かな集落を引き裂いた。

彼らを率いて村へと踏み込んだ父親――

大和の副将は、乗馬の引き綱を強く握りしめたまま、

目前の光景に絶句していた。


(何だ、これは……。

これが、都の奴らが言う『凶悪な蛮族の拠点』なのか……?)


父親の目に飛び込んできたのは、

大和の兵たちが恐れるような凶悪な武器の山ではなかった。


整然と並べられた乾燥中の美しい漆器。

そして、現代の建築知恵を取り入れたかのような、

風通しが良く、極めて清潔に管理された食料貯蔵庫。


そこには、ただ自然の掟に従い、

静かに、そして豊かに暮らしていた人間たちの

「生活」が剥き出しになって転がっていた。


「副将! 奥の天幕から蝦夷の残党が逃走中! 

追撃の許可を!」


「待て、武藤!」


父親は咄嗟に大声を張り上げた。

胸の奥からせり上がる嫌悪感と、狂おしいほどの焦燥を必死に抑え込む。


「……殺すな。これ以上の刃は不要だ。

家々に火を放ち、拠点を断つだけでいい。

逃げ遅れた者は、決して傷つけず、すべて捕虜とせよ!」


「しかし、副将! 

監軍からは徹底的な殲滅を仰せつかっております!」


「指揮権は私にある! 私の命に従え!」


父親は必死に軍律を盾にして叫んだ。

だが、一度火のついた人間の恐怖と憎悪の仕組みは、

個人の静止の言葉など容易にすり抜けていく。


「うわあああ! 大和の悪鬼め!」


「ひいっ、助けてくれ!」


村の端、逃げ遅れた蝦夷の老人が、

腰を抜かしたまま地面を這っていた。


その姿を見つけた若い朝廷兵が、

恐怖から我を失った目で大刀を大きく振り上げる。


「死ね、化け物め!」


「やめろ――っ!」


父親は馬から転げ落ちるようにして泥を蹴り、

その若い兵の手元へ文字通り飛び込んだ。


ガキィン、と激しい金属音が響く。

父親は腰に佩いた大刀(たち)を鞘ごと力任せに叩きつけ、

若い兵の腕を弾き飛ばした。


「あぐっ!? 副、副将……!? 

なぜ邪魔をされるのです!」


「武器を持たぬ老兵を、背後から切って、何の『征夷』だ!!

 お前たちが国衙(こくが)の軍団で学んだ大義とは、

弱者を蹂躙する野蛮な凶行のことか!!」


「し、しかし、奴らは蝦夷で……!」


父親の凄まじい激昂に、若い兵は恐怖に顔を歪めて後退りした。

しかし、父親一人がどれだけ声を枯らそうとも、

大和の進軍という名の蛮行は止まらなかった。


パチパチと、小気味良い音を立てて

萱や樹皮で葺かれた竪穴の住居が燃えていく。


アツシが一生懸命に作ったであろう漆椀が、

炎のなかに落ち、黒く焼け焦げて煤となって消えていく。


貯蔵庫から溢れ出た貴重な食料が、

兵たちの泥まみれの足で無慈悲に踏みつぶされていく。

空へ向かって、圧倒的なまでの巨大な黒煙が立ち上っていた。


「ははは! 見たか、蛮族ども! 

これが朝廷の、天皇の御威光だ!」


「京(みやこ)の安寧のために、みちのくを一つにするのだ!」


兵たちの歓声が、燃え盛る炎の音に混ざり合う。

父親はその場に立ち尽くし、真っ黒な煙が

天を覆っていく様をじっと見つめていた。


自らの手のひらを、肉がちぎれるほど強く、強く噛み締める。

じわりと、鉄の味を伴った赤い血が、父親の唇から顎へと伝い落ちた。


(これが、都の命じる『秩序』か。

これが、国を一つにするための『平和』だというのか……!)


個人的な愛。我が子を救いたいという不器用な願い。

そんなものは、国家の存亡という冷酷なロジックの前には、

ただの塵に等しかった。


自分自身がその残酷な蛮行を指揮しているという圧倒的なアイロニーが、

父親の魂をガリガリと削り、激しく摩耗させていく。


「副将、周辺の制圧を完了しました。蝦夷の残党は、

北の漆の木立の奥へと逃亡した模様。

これ以上の追撃は深追いとなります、本陣へ撤退を」


武藤が、苦しげな、しかし義務に忠実な目で父親に告げた。


「……ああ。撤退だ。全軍、引き揚げろ」


父親は、死んだような声でそう呟くと、

二度と戻らない蝦夷のささやかな居場所だった燃える廃墟に背を向けた。


同じ時、遥か遠くの山嶺。

漆の木立の影から、真っ黒に染まっていく故郷の空を、

息子はただ、じっと見つめていた。


傍らでは、生き残った民たちが、声を殺して泣いていた。

少年の瞳には、大和への憎悪ではなく、

ただ、世界の本質的な不条理に対する、

底知れない、冷たい絶望の情念が揺らめいていた。

朝廷側の「安全確保」という合理的なシステムが、

心ある父親に残酷な蛮行を強制してしまいます。

村を焼かれた息子と、焼かなければならなかった父。

二人の距離は、悲劇の中でさらに交錯していきます。次回をお楽しみに。

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