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北天の彩雲〜征夷の花と蝦夷の月〜  作者: 塩塚 蘭仮名


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【第5話:愛ゆえの足枷】

第5話です。

本人は相手のために死ぬつもりなのに、その優秀さと優しさゆえに

部下たちから深く愛され、命懸けで「守られてしまう」という

最高のジレンマが描かれます。皮肉で切ない展開をお楽しみください。

「今夜、私が少数の手際の良い者を連れて夜間偵察に出る。

本隊の進軍に先立ち、敵の伏兵の有無をこの目で確かめねばならん」


「副将、お待ちください! 

未だ霧の深いこの時期の夜討ちはあまりに危険です。

偵察ならば、我ら下を派遣すれば済むこと!」


 大和朝廷軍の薄暗い軍幕の中、父親――

朝廷の副将は、引き止める武藤の手を冷酷に振り払った。


兜を深く被り、腰に佩いた大刀(たち)の柄(つか)に

そっと手をかけ、鞘からわずかに引き抜いて刃を確かめる。


「いや、これは私にしかできん任務だ。異論は認めん」


「副将……っ」


 父親は、怪訝さと痛ましさが入り混じった目で

自分を見つめる武藤の視線をあえて無視し、

夜陰に紛れて軍営を飛び出した。


 本心は、偵察などではなかった。

そのまま蝦夷の部隊にわざと捕らえられ、彼らの指導者――

おそらくは我が子である拓海と、

朝廷への反逆となる『和睦の交渉』を行うつもりだった。


自分の命と地位をすべて投げ出せば、

あの子をこの無慈悲な殲滅作戦から遠ざけられる。

それだけが、今の父親を突き動かす狂おしい原動力だった。


(頼む、拓海。俺を捕らえてくれ。

そして、この泥沼から逃げてくれ……)


 漆黒の原生林、草木を掻き分ける足音が響く。

父親はわざと足音を荒く立て、

自らの存在を誇示するように隙だらけの姿勢で進んだ。


 その時、茂みの奥でパキリと枝の折れる音がした。

蝦夷の斥候だ。父親は内心で安堵し、

無抵抗のまま捕縛されるのを待とうと、大刀の柄から手を離した。

 だが、その刹那。


「副将を犬死にさせてなるものかァ!!」


「――え?」


 突如として背後の闇から轟いたのは、

聞き覚えのある熱い絶叫だった。


 驚愕して振り返る父親の視界に、

大刀を抜いた武藤と、朝廷軍でも指折りの叩き上げの精鋭たちが

泥を蹴って飛び出してくる光景が映る。


「武藤!? なぜお前たちがここにいる!」


「お許しください、副将! 

副将のあの捨て身の覚悟、命を賭して朝廷の勝利のために

自ら囮とならんとする至高の忠義……

我ら現場の兵、激しく胸を打たれました! 

あなたのようなお方を、このような暗夜の森で死なせてなるものですか!」


「違う! 私は、お前たち、待て! 戦うな!」


「大和の誇りを見せよ! 

副将を鉄壁の陣でお守りするのだ! 

一人たりとも敵を近づけるな!」


 父親の悲痛な制止の声は、兵たちの狂信的な怒号にかき消された。

武藤たちは父親を取り囲むように密集陣形を組み、

完璧な連携で蝦夷の斥候を瞬く間に圧倒していく。


 父親はわざと敵の矢面に立とうと身体を躍らせたが、

その度に「危ない!」と身を挺した大和の兵が盾になり、

敵の刃を弾き飛ばしてしまう。


「怪我はございませんか、副将! さあ、今のうちに本陣へ!」


「……武藤、頼むから、もうやめてくれ……」


「何を弱気なことを! 我らはどこまでもあなたと共にある! 

さあ、退却です!」


 優秀すぎる部下たちの命懸けの守護の前に、

父親は傷一つ負わぬまま、再び眩い軍光の灯る本陣へと連れ戻されてしまった。

 軍幕の隅で、父親は頭を抱えて崩れ落ちた。手のひらが激しく震える。


(頼むから、邪魔をしないでくれ……。俺

は英雄なんかじゃない。自分の子供のために朝廷を裏切ろうとした、

最低の父親なんだよ……!)


 胸を掻きむしるような絶望の悲鳴は、

外で主君の「無事の帰還」を讃えて歓声をあげる

大和の兵たちの声の中に、虚しく消えていった。


 *

 同じ頃、その原生林のさらに深く。

冷たい月光が木々を白く照らす蝦夷の防衛陣地。


「大和の斥候が動いた! 

若き長、下がってくれ! ここからは俺たちの仕事だ!」


「いや、俺が前に出る。

大和の出方をこの目で確かめる必要があるんだ」


 息子――拓海は、弓を手に取りながら、

必死にアツシの制止を振り切ろうとしていた。


 息子の目的もまた、父親と同じだった。

あえて自身を大和の兵の前に晒し、無抵抗の捕虜となることで、

大和の軍勢の指揮官であるはずの父親と

直接の対話をもぎ取ろうとしていたのだ。

自分が人質になれば、この不毛な戦争を終わらせられるかもしれない。


「若き長、駄目だ! 

お前のその無自覚な危うさを、俺はずっと見てきたんだ! 

いつも自分を省みないで、村のことばかり考えてる! 

片時も側を離れるなって、みんなで決めたんだ!」


「アツシ、俺を信じてくれ! 俺には確実な策があるんだ!」


 息子がそう言って、茂みの外の開けた平原へ

身体を躍り出させた瞬間だった。大和の兵が放った鋭い矢が、

夜風を切り裂いて息子へと向かってくる。


 息子は「これでいい」と目を閉じ、受け入れようとした。

 だが。


「若き長を死なせはしないッ!!」


「――アツシ!?」


 凄まじい怒号とともに、巨体のアツシが息子の前に割り込んだ。

アツシは手にした木盾で大和の矢を叩き落とすと、

そのまま少年の身体を組み伏せるようにして庇った。


「野郎ども、若き長に指一本触れさせるな! 

俺たちの命に代えてもお守りするぞ!」


「若き長は俺たちの光だ! 大和の犬どもを叩き潰せ!」


 背後の闇から、アツシの言葉に応じた蝦夷の猛者たちが、

地鳴りのような叫び声をあげて飛び出してきた。


彼らは息子の命令を完全に無視し、狂暴なまでの忠愛を剥き出しにして

大和の兵へと襲いかかった。

 息子を守るために、蝦夷の戦士たちが次々と肉の壁を形成していく。


「やめろ! 戦うな、みんな下がってくれ!」


「若き長は黙って守られてりゃいいんだよ! 行くぞお前ら!」


 目の前で、自分を慕う仲間たちが、

自分を庇うためだけに傷つき、血を流していく。

その光景に、息子の心臓は恐怖と罪悪感で破裂しそうだった。


 結局、圧倒的な熱量で攻め寄せた蝦夷の戦士たちは、

朝廷の斥候部隊を完全に撃退し、息子を安全な隠れ里の奥へと連れ戻してしまった。


 *

 泥だらけの地面に座り込み、息子は自らの両手を見つめて震えていた。

 傍らでは、アツシが肩から血を流しながらも、嬉しそうに笑っている。


「へへ、若き長が無事でよかったぜ。かすり傷一つねえや」


「……なんで、なんでみんな僕を守るんだよ……。

僕のせいで、アツシが傷ついたのに……」


「何言ってんだ。

若き長を守るためなら、腕の一本や二本、安いもんだよ」


 アツシの屈託のない、純粋すぎる愛の言葉が、

今の息子にとっては鋭い刃のように胸に突き刺さった。


(親父……。俺たちは、お互いを救うために、

自分の命を塵(ちり)のように捨てようとしてる。

なのに、どうしてこんなに周りの人たちに愛されて、動けなくなるんだ……)


 仲間たちの純粋な愛と忠誠によって、

自分の命を捨てることすら自由にできない二人。


 大和朝廷の陣営でも、蝦夷の隠れ里でも、全く同じ悲劇が起きていた。

 お互いに「大切な仲間を死なせたくない」という誇りと

優しさがあるからこそ、部下たちが自分を庇って傷ついていく姿に、

父と子の胸は激しく締め付けられる。


 守られること――それこそが、自らの意思を縛り付ける、

この上なく残酷で強固な『足枷』だった。


 遠くから響く、開戦を告げる軍鼓(ぐんこ)の音が、

地を這うように近づいてくる。


 互いの存在を確信しながらも、

すれ違いの運命の中に閉じ込められた父親と息子の焦燥感と孤独な葛藤は、

北のみちのくの冷たい夜のなかで、いよいよ極限に達しようとしていた。

「頼むから今は守らないでくれ!」という、

主人公たちのありがたくも絶望的な悲鳴。

仲間たちの忠義が厚ければ厚いほど、自己犠牲の計画が狂っていく構造です。

次回、ついに戦火が具体的なエピソードとして激突します。

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