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北天の彩雲〜征夷の花と蝦夷の月〜  作者: 塩塚 蘭仮名


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【第10話:届いた名、消えぬ温度】

第10話、第1章の締めくくりです。

すれ違いの極致のあと、超能力や思念ではなく、忠臣たちが命懸けで持ち帰った

「物理的な痕跡」によって、ついに二人の想いが100%繋がります。魂の再会をご覧ください。

「――主君、お怪我はございませんか!」


「私は、私は大丈夫だ。

それより、あの社のなかにいた者は……。無事なのか!?」


「申し訳ございません。黒煙と刺客の猛攻に阻まれ、捕らえることも、

その姿を追うことも叶いませんでした。

我らが退却する頃には、社はすでに激しい炎に包まれており……」


朝廷軍の陣幕へと退避した父親は、煤まみれの顔を歪ませ、

粗末な卓へ激しく拳を叩きつけた。


十数年ぶりの邂逅という奇跡は、無情な主戦派の刺客どもによって

文字通り煙に巻かれ、手のひらから零れ落ちた。


引き裂かれた社の内部は、凄惨な戦闘の跡で荒れ果て、

今はただ黒煙のなかで静まり返っているはずだった。

あの子に届かなかった。


あと数歩、あと一言だったというのに。己の無力さに歯噛みする父親の前に、

武藤が静かに歩み寄った。


「主君、実は……。

お引き上げした直後、私が密かにあの荒れ果てた社の部屋へと戻り、

現場の跡を調べてまいりました」


「何……? 危険を冒してまで、なぜそんな真似をした」


「相手の正体を突き止める、

何かしらの手がかりがあるのではないかと思いまして」


武藤は周囲の兵たちが聞き耳を立てていないかを確認するように、

一度陣幕の入り口に鋭い視線を走らせた。


それから、誰にも見られぬよう懐から一本の「物理的な痕跡」を取り出し、

そっと父親の前に差し出した。


「彼らが去った無人の床、激闘の最中に落とされたと思われるものが、

これにございます」


「これは……木簡、か?」


「はっ。ただの木簡ではございません。その表面をご覧くだされ。

見覚えが、ございませぬか」


父親は焦る心を押さえつけながら、武藤の手からその古びた木簡を受け取った。

その表面の凹凸に指先を這わせ、なぞった瞬間――

父親の背中に電流のような衝撃が走った。


そこに刻まれていたのは、大和の役人が使うような格式高い、

流麗な万葉仮名などでは断じてなかった。


鋭い小刀の刃先で、深く、何度も往復するように刻まれた歪な文字。

それは、かつて過ごしたあの異郷の、あの日常で使っていた、

ボールペンの筆跡をそっくりそのまま真似た、どこか癖のある、

しかし見紛うはずのない文字だった。


そこに記されていたのは――父親の前世の本名。

そして、それに続く、ひどく剥き出しの短い言葉。

『親父、俺はここにいる。生きてくれ』


「ああ……っ、う、あ……」


父親の喉から、押し潰されたような、獣のような声が漏れた。


「主君……? やラー、何かお分かりに?」


「あいつだ偏に。間違いない、あいつだ……! 私の息子だ。

あの子は、あの子は確かに生きていたんだな、武藤!」


「左様でございますか。やはり、あの蝦夷の若き指導者が……」


「ああ、生きて、あの過酷な山の中で、私を呼んでいる……!

ずっと、ずっと私を待っていたんだ!」


父親は木簡を強く、壊れんばかりに胸へと抱きしめた。

硬い木肌が衣装を擦る鈍い音が、静まり返った陣幕に響く。


誰もいない閉ざされた空間で、十数年間張り詰めていた緊張と、

我が子を求める飢餓感が一気に決壊した。父親は人目もはばからず、

ただ声を上げて男泣きした。


涙が煤のついた頬を伝い、木簡に刻まれた前世の名を、

熱く濡らしていく。


「生きていてくれた。生きて、私を見つけてくれた。

それだけで、私はもう、何も怖くない……」


同じ刻、山の反対側へと命からがら退避し、蝦夷の陣営へと戻った一団があった。


「若! 大丈夫ですか、しっかりしてください!

どこか矢に射られましたか!」


「アツシ、俺はいい。俺はかすり傷一つ負っちゃいない。

それより、向こうの部屋の奴らはどうなった、生きてるのか!」


息子は激しく肩を上下させながら、

自身の衣服を引きちぎらんばかりの勢いでアツシの胸ぐらを掴み、

激しく揺さぶった。


「すまぬ、若。完全に乱戦となり、奴らの生死も、

どこへ逃げ延びたかも分からぬ。


だが、私は若を逃がしたあと、命懸けで戦場となったあの社の部屋へ

と引き返したのだ。奴らの正体を探るために。

そうしたら、床にこれが落ちていた」


アツシが胸元から取り出したのは、血と煤で汚れた、

絹織りの衣服の切れ端だった。


「朝廷の、服の一部か?」


「はい。敵の将が身につけていたものに間違いありません。

ただの布切れかと思いましたが、若、その布の裏側を見てくだされ」


息子は奪い取るようにしてその布切れを広げ、その裏面を凝視した。

一瞬で、全ての思考が停止し、息が止まった。


白い布の裏地に、炭のようなもので殴り書きされていたのは、

あの世界の、かつて自分が狂ったように大好きだった、

あのプロ野球チームの不格好なマークだった。


お世辞にも上手いとは言えない、しかし幼い頃から何度もノートの余白や、

キャッチボールのグラブに描いてもらった、父親の独特の筆跡そのもの。


その見慣れた異郷の紋様の横には、この世界の誰も読めないであろう現代の漢字で、

力強くこう書き殴られていた。

『生きろ、絶対に死ぬな』


「親父……親父、嘘だろ……」


息子の眼から、堪えきれない涙がポロポロと溢れ落ち、

布切れのマークをみるみる滲ませていく。


「若、やはりその大和の男は……」


「ああ。やっぱり、親父だったんだな……。ずっと近くにいたんだ。

大和の将軍なんて、ふざけた肩書きを背負ってさ。

なんで気づかなかったんだよ、俺は……!」


息子は涙を袖で拭うこともせず、その布切れを愛おしそうに額に押し当てた。

父親の体温など残っているはずもないのに、

布の奥から、前世のあの狭い居間の匂いが、

キャッチボールをした土の手のひらの温もりが、確かに伝ってくるような気がした。


直接会うことは叶わなかった。冷酷な運命の神に阻まれ、互いの顔を見て、

名前を呼び合って抱き合うこともできなかった。


けれど、二人はもう、あの暗闇のような孤独のなかにはいなかった。

手元に届いた、確かな物理的証拠。木簡に刻まれた名と、

布裏に描かれた不格好なマーク。


それだけで十分だった。二人は、相手もまた自分を想い、

この極寒の北の空の下で、泥をすすりながらも

必死に生き抜こうとしているという真実を、100%確信していた。


「武藤。もう迷いはしない。都の主戦派が根絶やしの戦を望むなら、

私は私のやり方で、この戦いを終わらせる。

あの子に刃を向けさせるわけにはいかない」


父親は涙を拭い、木簡を懐の最も心臓に近い場所へと収めた。

その眼眸には、先ほどまでの絶望は微塵もない。


「はっ。それがどのような道であろうとも、

この武藤、どこまでもお供いたします」


「アツシ、戦は避けられない。あいつらは、俺たちを全員殺す気だ。

だったら、生き残ってやる。親父が『生きろ』って言ったんだ。

何が何でも、この不条理をぶっ潰して、生き残ってやるんだ」


息子は布切れを握り締め、蝦夷の仲間たちの前で力強く立ち上がった。

その背中には、一族を率いる王としての圧倒的な覚悟が宿っていた。


胸に灯ったのは、引き裂かれた悲しみと、それを遥かに上回る圧倒的な愛の温度。

父親と息子は、それぞれの陣営で同じ北の夜空を見上げながら、

迫り来る全面衝突という名の、真の不条理へ立ち向かう覚悟を静かに決めるのだった。

顔は見えなくとも、届いた確かなメッセージ。

二人の魂はここで完全に一つになりました。

これで【第1章】は幕を閉じ、次回からは戦争の激化とさらなる

葛藤が描かれる【第2章】へ突入します。連載をお楽しみに!

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