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北天の彩雲〜征夷の花と蝦夷の月〜  作者: 塩塚 蘭仮名


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【第13話:偽りの進軍、隠された欺瞞】

第13話をお届けします。

我が子を救うため、あえて軍規を犯して「進軍を遅らせる」という

欺瞞工作に打って出る父親。

しかし、彼を慕う部下たちの優秀さと忠義が、その計画を皮肉にも台無しにしていきます。

「進軍の遅れなど、これ以上断じて認められん!

直ちに全軍を発向させ、蝦夷の拠地を踏み潰せ!」


都から派遣された主戦派の公卿たちが、

贅沢な絹の袖から豪奢な扇を覗かせ、傲慢に言い放った。


その冷酷な命令により、息子の潜む北の拠地に対する

総攻撃の期日が完全に決定してしまった。


このままでは、我が子が朝廷の圧倒的な兵力に押し潰される。

その圧倒的な軍勢の前に、蝦夷の命も、そしてあの子の未来も、

ひとたびにして灰燼に帰すだろう。


そう直感した父親は、胸の内で冷や汗を流しながらも、

あえて傲然とした態度で床几から立ち上がった。


「公卿の皆様、恐れながら、進軍の先鋒はこの私が務めましょう」


「ほう、坂東の猛将自らが願い出るとはな。

先日の軍議でのあの生ぬるい腰抜け発言、

これでようやく撤回する気になったと見える」


貴族たちは、まるで憐れむかのように声を上げて笑った。

父親はその屈辱に耐えながら、鋭い眼光を崩さなかった。


「陸奥の原生林は複雑怪奇にございます。

地理に不案内な者が突出すれば、伏兵に遭い全滅の恐れすらある。

この土地を知り尽くした私だからこそ、先陣を切る資格があるのです」


「よかろう。ならばその言葉、戦果をもって証明してみせよ」


陣幕に戻った父親は、ドサリと重い足取りで床几に腰掛けた。

背中には、冷たい脂汗がべっとりと張り付いている。


「武藤、地図をここに広げろ」


「はっ。将軍、直ちに。しかし、本当に先鋒を引き受けられるとは……。

本隊の到着を待たずに突入するのは、あまりにも危険ではございませんか」


「いや、これでいい。

武藤、よく聞け。進軍路の選定は私が自ら行う。

他者には一切口を挟ませるな」


父親は広げられた古びた地図を睨みつけながら、

細い人差し指で渓谷の線をなぞった。


「行軍の路はこの、最も険しく、大きく遠回りとなる西の谷を抜ける道とする」


「西の谷……?

将軍、あそこは道幅が極端に狭く、

切り立った岩場が延々と続く難所中の難所です。

大軍を通すにはあまりにも不向きですが」


「不案内な者が指揮を執れば、

一歩間違えれば全滅の恐れがあると言ったはずだ。

だからこそ、慎重を期す。あえてここを選ぶのだ」


父親は胸の内で、必死に自分に言い聞せていた。


『この難所を進めば、軍の歩みは確実に鈍る。

そうすれば、あの子たちが危険を察知し、

退却するための時間を、少なくとも三日は稼げるはずだ。

いや、何としてでも稼がねばならん』


さらに、父親は武藤の目をまっすぐに見据えて言葉を続けた。


「それから、後続の本隊にはこう伝達しろ。

『東の尾根に蝦夷の大規模な伏兵あり。

警戒を最優先にし、歩みを限界まで緩めよ』とな」


「東の尾根に……?

しかし将軍、我が斥候の報告では、東にはそのような兆候は――」


「私がこの眼で確認したのだ、武藤。私の言葉が信じられぬというのか」


「い、いえ! 滅相もございません!」


「ならば直ちに手配せよ。諸軍の呼応を密に保つための措置だ」


一歩間違えれば、朝廷に対する明らかな謀叛であり、

一族郎党に及ぶ極刑に値する危険な欺瞞工作だった。


己の首を、そして大和の将軍としての誇りをもすべて賭けた、

たった一人の密かな戦いだった。


だが、この父親の命懸けの「偽りの進軍」を目にした部下たちの反応は、

父親の予想を致命的なまでに裏切っていった。


ザッ、ザッ、と険しい山道を往く行軍の最中、

大和の兵たちの間で、熱い囁きが交わされていた。


「おい、聞いたか。

将軍はあえて、あの誰もが避ける西の難所を選ばれたそうだぞ」


「通常ならば、進軍を躊躇うような死地だ。

だが、あえてそこを先頭で通るということは……」


彼らを率いる武藤は、馬を並べる兵たちを振り返り、

その双眸を主君への深い崇拝の念で爛々と輝かせた。


「皆、よく聞け!

将軍の深い御心を無駄にするな!

将軍は、敵の伏兵の可能性を完璧に警戒し、排除しておられるのだ!


我ら一人の兵も無駄に死なせないために、

これほど慎重に、深く深く策を練って、あえて困難な道を選ばれたのだ!

この大恩に応えねば、大和の武士が廃るぞ!」


「おおおっ!」


「将軍のために、我らが道を切り拓くのだ!」


行く手を阻む原生林の不気味さも忘れ、

兵たちの忠誠心は、ここに来て最高潮に達してしまった。


「将軍の御心を一瞬たりとも煩わせてはならん!」


「斥候をいつもの倍に増やせ!

谷の上の岩場から木々の隙間に至るまで、徹底的に索敵を行うんだ!

敵の奇襲の芽を、すべて事前に摘み取れ!」


彼らは父親の意図を必死に、必死に汲み取ろうとした。

しかし、その従順すぎる方向性が、最悪の形で噛み合っていく。


父親がわざと作ろうとした謀(はかりごと)の「隙」や、

行軍の「遅れ」を生み出すための障害を、

彼らは「名将の深謀遠慮」と解釈し、

命じられてもいないのに周囲の完璧な安全確保を驚異的な速度で遂行していった。


「報告いたします、将軍!」


泥まみれの功作の兵どもを率いる隊長が、父親の馬前に進み出て平伏した。


「前方にあった底なしの泥濘ですが、

先行した我が兵どもが全て巨木を切り倒して埋め、


臨時の頑強な路を組み上げました!

滞りなく、予定より早く進軍可能です!」


「な……何だと? 埋めた、だと?」


「はっ!

将軍の行軍を少しでも滑らかにするため、皆、死に物狂いで働きました!」


父親が絶句していると、今度は騎馬に乗った別動の部隊を率いる将が駆けてきた。


「将軍!

東の尾根の伏兵情報に基づき、我が一隊が完璧な側面の防御陣を敷きました!

本隊への連絡も迅速に行い、諸軍の呼応も寸分の狂いもございません!

背後は万全、一兵の脱落もございません!」


「寸分の狂いも……ないのか……?」


父親の顔が完全に引きつる。

わざと作ろうとした遅滞要素や、行軍を乱すはずだった障害が、

兵たちの狂信的なまでの忠実さと、皮肉なまでの驚異的な練度によって、

次々と、完璧に埋め尽くされていく。


道なき道は滑らかな軍路へと変わり、

伏兵への警戒は全軍の絆をより強固なものにしてしまった。


結果として、軍は予定されていた期日よりも遥かに安全に、

そして信じられないほどの驚異的な迅速さで、

息子の拠地の目と鼻の先まで到達してしまったのだ。


「……どうしてだ。どうしてこうなる」


新しく設営されたばかりの本陣の陣幕の中で、

父親は卓に両手をつき、がっくりと頭を抱えて絶望していた。


あの子を救いたかった。

一刻も早く、ここから逃げるための時間を与えたかった。

そのために、己の命を投げ打って、叛逆の泥をかぶったはずだった。


「なぜ、これほどまでに思い通りにいかない……!

私のしたことは、すべて無駄だったというのか!」


胸を掻き毄るような激しい焦燥と、巨大な運命の歯車に引きずられていく

圧倒的な無力感が、父親の身体を内側から狂おしく焼き尽くしていく。

その時、陣幕の外から、大地を激しく揺るがすような怒涛の歓声が響き渡ってきた。


「将軍万歳! 奇跡の迅速行軍万歳!」


「これほどの難路を、一人の犠牲も出さずに完璧に踏破されるとは!

やはり我が将軍は日ノ本一の名将だ!」


「将軍万歳! 蝦夷の逆賊どもを一網打尽にせよ!

大和の威光を、陸奥の果てまで知らしめるのだ!」


それは、あまりにも皮肉で、あまりにも残酷な、

兵たちの一糸乱れぬ心からの称賛の声だった。


父親が相手を救おうと必死に泥をかぶるたびに、

周囲の歪んだ愛と忠誠がそれを「名将の誉れ」へと変換していく。


そして、その誉れが高まれば高まるほど、皮肉にも、

愛する我が子の首に容赦なき大和の刃が、確実に、無慈悲に近づいていくのだった。


父親は歓声に包まれる暗闇の中で、

ただ、血がだらだらと床ににじむほどに唇を強く、

強く噛み締めることしかできなかった。

必死に作った作戦の隙を、忠臣たちが命懸けで埋めてしまうという皮肉。

父親の絶望が深まるなか、敵陣の息子もまた、

父親を救うための捨て身の決断を下そうとしていました。

次回、息子の孤独な戦いが始まります。

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