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北天の彩雲〜征夷の花と蝦夷の月〜  作者: 塩塚 蘭仮名


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【第14話:孤高の囮、裏切りの和睦】

第14話です。

今度は息子側が、父親と民を守るために「単身降伏」を試みます。

しかし、彼を聖女や英雄のように慕う蝦夷の仲間たちが、その自己犠牲を全力で阻止します。

愛ゆえの足枷が、息子を追い詰めます。

「朝廷軍の先鋒が、目と鼻の先、

あの尾根の向こうまで迫ってきているな……」


「はっ。我らの想定を遥かに超える速度で、

あの険峻な西の谷を完璧に駆け抜けてきました。


事前の罠もことごとく不発に終わっております。

やはり、大和の将軍とやらは我らの想像を絶する、

恐るべき稀代の名将にございます」


アツシが苦渋に満ちた表情で報告する言葉を耳にしながら、

息子はそっと、自身の懐にある血と煤に汚れた布切れに触れた。


『生きろ、絶対に死ぬな』

あの異郷の遊戯の印の横に書き殴られた、あの懐かしい親父の直筆。

その文字が、いまの息子の胸を最も激しく、狂おしいほどに突き動かしている。


『親父。あんたは俺を救うために、あの社で必死に叫んでいた。

そんなあんたを、これ以上人殺しにさせちゃいけない。


そして、この俺を信じてついてきてくれた、

この純朴な北の民も、絶対に犬死にさせるわけにはいかないんだ』


息子の心は、すでに決まっていた。

朝廷軍を率いる将が、あの最愛の親父であるならば、

自分が「蝦夷の指導者」として単身で敵陣に乗り込み、

その首を差し出せばいい。


そうすれば、親父が大和の内通者として立場を危うくすることなく、

朝廷に陸奥平定という最高の名分を与え、

この泥沼の戦いを今すぐに終わらせることができる。


自分がすべての責任を背負い、冷酷に処刑されることで、

一時的であってもこの陸奥の地に平和をもたらす「孤高の囮」となる。


それしか、誰もが傷つかずに済む唯一の救いだと確信していた。

あの忘却の彼方にある記憶を持つ自分だからこそ、

この因縁に終止符を打たねばならないのだと。


夜陰が冷徹に世界を深く包み込んだ刻、息子は誰にも行先を告げず、

静かに拠地の廬(いおき)を抜け出して暗闇の山路へと足を進めた。


大和の軍勢が潜む方向を見据え、草を踏む微かな音すら呼吸と共に消し去りながら、

密集する木々の間をすり抜けようとした――まさにその瞬間だった。


「……若。こんな夜更けに、一体どこへ行かれるのです」


静寂の暗闇の向こうから、聞き慣れた、

しかしこれまでにないほど冷たく張り詰めた声が、拒絶のように響き渡った。


「アツシ……? なぜ、ここに」


息子が驚きに息を呑んだ瞬間、周囲の木々の影から、

松明の赤黒い炎が次々と夜の闇を裂いて燃え上がった。


炎に照らし出されたのは、アツシを筆頭とする、

蝦夷の精鋭たる猛者たちの姿だった。


その誰もが、一歩も引かぬという強固な決意の眼差しを、

まっすぐに息子へと向けている。


「若のそのどこか遠くを見つめるような空気、

すべてを一人で背負って何かを覚悟したお姿……。

このアツシが、長年連れ添ってきて見落とすとお思いですか」


アツシの瞳から、堪えきれない熱い涙が溢れ、

煤けた頬を伝って地面へと落ちた。


「俺たちを置いて、自分だけ犠牲になるつもりでしょう。

俺たちには内緒で、たった一人で大和の陣営へ行き、和議を乞うために、

その御首を差し出すおつもりだ! 違いますか!」


「アツシ、お前……なんでそれを」


「若! 俺たち蝦夷の戦士を、あまりにも侮らないでいただきたい!」


アツシが声を激しく荒らげ、その場に叩きつけるように膝を突いた。

それに続くように、周囲の百人を超える猛者たちも一斉に、

ザッと武器を置いて地面に平伏する。


「若は俺たちにとって、単なる血筋の首長ではございません!

寒さに震え、明日をも知れぬ過酷なこの北の地に、

作物の育て方、冬の越し方といった、


あの……いや、この世界の誰も見たこともない素晴らしい生きる知恵をくれた、

唯一無二のお方だ! あなたは俺たちの希望であり、魂そのものなのです!」


「そうだ、若! あんたの知恵のおかげで俺たちの子供は飢えずに冬を越えたんだ!」


「その若を大和の奴らに首級として差し出して、何が蝦夷の誇りだ!

若が死ぬというのなら、俺たちも全員、今ここで大和の兵と違えて刺し違えて死ぬ!

一人として不名誉に生き残るつもりは毛頭ありません!」


「な……っ!?」


平伏する戦士たちの、純粋で、あまりにも苛烈な、命をも惜しまない忠義の言葉。

それが息子の頭を激しく殴りつけた。


息子は愕然として、完全に言葉を失った。

自分が命を捨てることで、親父の立場を救い、

この愛すべき仲間たちを大軍の蹂躙から救おうとした。


しかし、彼らにとっては、その自己犠牲こそが「共に死ぬ」ための

最悪の引き金になってしまうというのか。


「違うんだ、みんな!

勘違いしないでくれ、俺が死ねば、大和の名分が立って、

お前たちは戦わずに生き残れるんだ!

頼むから、俺の言うことを聞いて、俺一人に泥をかぶらせてくれ!」


「断る!

若を失った抜け殻のような世界で、大和に怯えて生き延びるなど、

我らにとっては死より深い屈辱だ!」


アツシは涙をボロボロと流しながらも、その据わった眼光は決して揺らがなかった。

彼らの愛は、もはや理屈を超えた狂信的なまでの塊と化していた。


「若を絶対にここから通すな!

全員、命に代えても囲いを作り、若をお守りするのだ!」


「待て! やめろ、アツシ!

俺の話を聞いてくれ! このままじゃ全員死ぬんだぞ!」


息子の必死の叫びも、戦士たちが築く肉体の強固な壁に遮られ、

冷たい夜の闇の中に虚しく霧散していく。


己の命すら、自分で自由に終わらせることすらできない。

仲間たちの深すぎる愛と崇拝が、いまや息子を雁字搦めにする強固な檻となり、

その身を完全に閉じ込めてしまっていた。


自分が良かれと思って選んだ、最善であるはずの自己犠牲の道が、

皮肉にも一族悉くの討ち死にという不条理へと直結していく過酷な現実に、

息子の胸は激しい焦燥感と、やり場のない無力感で引き裂かれそうだった。


「どうしてなんだよ……。

俺はみんなを、親父を、ただ救いたいだけなのに……!

なんで誰も分かってくれないんだ!」


息子は激しく狂おしい感情のまま、何も答えてくれない暗い夜空を見上げて、

血を吐くように天を仰いだ。その頬を、悔し涙が静かに伝う。


その時だった。遥か東の山の端、大和の軍勢がひしめく漆黒の地平から、

地を走るような不気味な重低音が響いてきた。


ボォォォォ――――。

ボォォォォ――――。

陸奥の原生林を冷酷に震わせる、朝廷軍の進軍を告げる禍々しい法螺貝の音。

それが、すべての終わりと、血塗られた戦いの始まりを告げるかのように、

容赦なく吹き鳴らされ、父と子の運命を再び残酷に弄び始めるのだった。

自分が死ねば全員が巻き添えになるという絶望的なジレンマ。

息子はアツシたちの忠義の重さに圧し潰されそうになります。

次回、交差する二つの軍勢の間で、忠臣たちが再び影で接触を試みます。

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