第9話 朝食は、一緒に
結婚して三日目の朝、私は寝坊した。
目を開けたとき、カーテンの隙間から入る光が、ずいぶん明るかった。
隣にエドガー様の姿はない。
時計を見て、私は飛び起きた。
「ミーナ!」
扉の向こうから、すぐに返事があった。
「おはようございます、奥様」
「どうして起こしてくれなかったの!」
「旦那様が、もう少しお休みいただくようにと」
その旦那様を、お待たせしているのではありませんか!
私は寝台から降りようとして、裾を足に絡ませた。
結婚式では転ばなかったのに、三日目の寝室で転ぶのは避けたい。
「落ち着いてくださいませ。旦那様はまだお屋敷にいらっしゃいます」
「朝食は?」
「まだです」
待たせている!
余計に慌てた私を、ミーナは椅子へ座らせた。
急いで支度を終えて食堂へ入ると、エドガー様は新聞を畳んだところだった。
私を見るなり、少し驚いた顔をする。
「そんなに急がなくても」
「申し訳ありません。お待たせしてしまって」
「待つつもりでいましたから」
彼は立ち上がり、椅子を引いてくださった。
昨日までなら、その仕草だけで嬉しかったのに、今日は申し訳なさが先に立つ。
「お仕事に遅れませんか」
「今日は屋敷で執務をします。朝は、それほど急ぎません」
「ですが、いつもはもっと早く」
「一人のときは、食べ終えれば仕事しかすることがなかったので」
そう言いながら、彼は私の皿へパンを一つ取った。
「よく眠れましたか」
「よく眠れました」
「それはよかった」
あまりに満足そうなので、私は唇を尖らせた。
「起こしてくださればよかったのに」
「よく眠っていたから」
「朝食をご一緒したかったのです」
彼の手が止まった。
それから、口元が緩む。
「今、一緒に食べています」
そのとおりなので言い返せず、私はパンを小さくちぎった。
結婚してから、彼は少し意地悪になった。
いえ、初めからそうだったのかもしれない。ただ、今は遠慮なくからかわれる。
「明日は、起こしてください」
「分かりました」
「お約束ですよ」
「はい」
彼が真面目に頷いたので、私はようやく安心して、温かい卵料理に手を伸ばした。
その日の午前中は、家令のロランから、屋敷のことを教わった。
使用人の名前から日々の支払い、来客の予定まで、引き継ぐことは思いのほか多かった。
アデラ様は同じ敷地の離れへ移られたけれど、急に全てを私へ任せるつもりはないとおっしゃっていた。
「分からないことは、聞いてちょうだい。私も、最初から分かっていたわけではないのよ」
そう言ってくださったのは、本当にありがたい。
それでも、名前を間違えないだけで精一杯だった。
昼過ぎ、一通りの説明が終わって、自分の部屋へ戻る途中、執務室の前を通った。
扉の向こうから、エドガー様の声が聞こえる。
「では、先方への返事は明日に。今日はここまでで構わない」
秘書らしい男性が出てきて、私に礼をした。
廊下にいることに気づかれたのか、エドガー様が扉から顔を出す。
「リディア。どうしました?」
「いえ、通りかかっただけです」
「入りますか」
仕事のお邪魔になるのではと迷っていると、彼が机の上を示した。
「今、一区切りつきました」
それなら、と部屋へ入った。
壁には領地の地図が掛かり、机の上には書類の束と筆記具が整然と並んでいた。彼らしい部屋だった。
窓際の小さな机には、見覚えのある本が置いてあった。
あの書店で一緒に買った、姉妹の物語だった。
「こちらへ置いていらっしゃるのですね」
「仕事の合間に、読み返しています」
ページの間に栞が挟んである。私は嬉しくなって振り返った。
「何度も読んでいらっしゃるのですか」
「気に入ったので」
私に合わせて読んでくださっただけではなかったのだ。使い込まれた本の背に目を落とすと、また感想を聞きたくなった。
彼が窓際の椅子を勧めてくださり、私は腰を下ろした。
座った途端、足の疲れが分かった。
「お疲れですね」
「そんなに分かります?」
「朝と、座り方が違います」
私は背筋を伸ばしかけた。
彼が笑って、手で制する。
「そのままで」
私はそっと背もたれに寄りかかった。
「覚えることがたくさんあって、頭の中で皆様のお名前が入れ替わってしまいそうです」
「一度で覚えなくても大丈夫です」
「そうは言っても、呼び間違えるのは失礼ですから」
「私も子供の頃、ロランを庭師の名で呼んで、菜園の相談を始めたことがあります。本人に、誰のつもりで話しているのかと聞かれました」
「庭師の方へ屋敷の支払いをお願いなさらなくて、よかったですわね」
彼が声を立てて笑った。
私もつられて笑うと、朝からこわばっていた肩が楽になった。
そのまま、今日教わったことを少し話した。
エドガー様は途中で口を挟まずに聞いて、分からない名前を二つだけ教えてくださった。
話し終わる頃には、頭の中が少し片づいていた。
「また、来てもよろしいですか」
「もちろん」
「お仕事中でしたら、そう言ってくださいね。わたくし、気づかずに喋ってしまいますから」
「言います。あなたも、眠いときはそう言ってください」
「それは、朝の話でしょうか」
「ええ」
忘れてくださる気はないらしい。
私は少し睨んで、それから立ち上がった。
部屋を出ようとしたところで、手を取られた。
振り返ると、彼がすぐそばにいた。
「明日の朝は、起こします」
「はい」
「今度は、もう少し眠らせてほしいと言われても知りませんよ」
頬に、軽く唇が触れた。
私が何も言えないでいるうちに、彼は笑って手を離した。
翌朝、私は名前を呼ばれて目を覚ました。
すぐそばにある顔を見て、恥ずかしくて布団を引き上げると、低い笑い声が降ってきた。
朝食には二人で向かった。食堂で目が合うたびに彼が笑うので、私は抗議する代わりに、彼の皿へ焼きたてのパンを取った。
「明日も、今日と同じ時間にお願いしますね」




