第8話 夫になる人
婚約から四か月後、秋のよく晴れた日に結婚式を迎えた。
花嫁衣装を着せられて鏡の前に座った私はこれほど重い飾りを頭に載せて歩けるのかと心配していた。
「動かないでくださいませ」
「首まで固まりそうよ」
「あと少しです」
ミーナが最後のピンを留める。
薄いヴェールが肩に落ちて、鏡の中の私は少し知らない人のようになった。
衣装も髪もお化粧も、申し分なく綺麗に整えてもらった。なのに、いよいよだと思うと落ち着かず、私は足を揃え直した。
「お嬢様」
ミーナが鏡越しに私を見た。
「お綺麗です」
「ありがとう」
それを聞いたら、少し泣きそうになった。
お化粧をしたばかりだから、今は絶対に駄目だ。
「あなたも、一緒に来るのよね」
「何度お尋ねになりますか。荷物も先に運んでございます」
「分かっているけれど」
ミーナは私の肩へ、軽く手を添えた。
「明日の朝も、私がお支度いたします」
明日の朝も、いつものように髪を梳いてもらえる。そう思ったら、知らない暮らしへ踏み出す心細さが和らいだ。
お母様が部屋へいらして、私の姿を見た瞬間、口元を押さえた。
「お母様、まだ泣かないでください!」
「泣いていないわ」
「もう、目が」
「あなたが言うからよ」
二人で笑って、それから結局、少し泣いた。
ミーナに注意されて、慌てて目の下を押さえる。
「幸せになってね」
お母様の手を握った。
「はい」
以前の縁談の頃は、相手に嫌われなければいいと思っていた。けれど今日は、エドガー様と楽しく暮らしたい。持っていった本を彼と並んで読むところを思い浮かべると、早くあちらへ行きたくなった。
式の前、控えの廊下で彼と顔を合わせた。
扉が開いたとき、エドガー様は何かを言いかけて、そのまま黙った。
どうしたのだろう。
裾が折れている? ヴェールに何かついている?
気になって目を下げると、彼が一歩近づいた。
「綺麗です」
静かな声だった。
その声があまりに真剣で、私は顔を上げられなくなった。
「ありがとうございます」
「もう少し、見ていても?」
「もう、ご覧になっているではありませんか」
彼が笑った。
それを聞いて、やっと私も息ができた。
正装がどれほど立派でも、今日から夫になるとしても、私のひと言で笑ってくださるところは変わらない。やっと顔を上げると、彼はまだ私を見ていた。
「緊張している?」
「はい。裾を踏まないかと、そればかり考えております」
「私も気をつけます」
「ご自分の足元を、お願いしますね」
「分かりました」
彼が腕を差し出しかけたところで、お父様が後ろから咳払いをした。まだ私を祭壇まで連れていくのは、お父様の役目だった。
「少し、早かった」
その腕が途中で止まったので、私は笑いを堪えるのに苦労した。
「侯爵、もう少しだけ待っていただこう」
「失礼いたしました」
真面目に頭を下げた彼の耳が、赤い。
お父様の咳払いがなければ、その腕を取っていたかもしれない。私も同じくらい、彼の隣へ行きたかった。
式の間、私は思ったほど緊張しなかった。
エドガー様が隣にいたからかもしれない。
誓いの言葉を交わすとき、彼の声がほんの少し掠れた。
私はその声を聞いて、彼の手を握り直した。
指輪を交換し、そっとヴェールが上げられる。
近づく顔に、今度こそ息が止まりそうになった。
「目を閉じて」
小さな声に従う。
触れた唇は短く、優しかった。
目を開けると、彼が照れたように笑っていた。拍手が聞こえて初めて、大勢に見られていることを思い出した。
祝宴が終わり、ようやく二人きりになれたのは夜だった。
侯爵家の私室で、私は長椅子に座っていた。
花嫁衣装から着替え、髪の飾りも外してもらうと、ようやく肩が軽くなった。けれど、二人きりの夜を意識すると、膝に重ねた手をどこへ置けばよいか分からなくなった。
「疲れたでしょう」
彼が水の入ったグラスを渡してくださる。
「少し。でも、楽しかったです」
「私も」
水を飲んでグラスを卓へ戻すと、隣に腰を下ろした彼の肩が触れた。
ほんの少しの距離が、今までと違う。
「お父様が、何度もエドガー様を捕まえていましたね」
「はい。あなたの好きな料理と、寒い季節には指が冷えることと、夜更かしの話を伺いました」
「最後のことまで!」
「本を取り上げないでほしいと」
私は口を押さえた。
お父様は、私が子供の頃にこっそり本を読んでいたことを、ずっと知らないふりをしていたらしい。
「取り上げません。ただ、私の話も少し聞いてもらえたら」
「もちろんです」
「本の続きより、面白い話ができるかは分かりませんが」
私は彼を見た。
「半分は、わたくしが話します」
エドガー様が笑った。
最初の日には卓の向こうにいらした方が、今夜は肩の触れる距離で笑っている。
「頼りにしています」
指先が重なる。
私が握り返すと、彼はゆっくり身を寄せた。
今度の口づけは、式のときより少し長かった。
離れたあと、私は彼の上着の袖を掴んでいた。
気づいて手を放そうとすると、その手を包まれる。
「そのままで」
頷くと、彼は嬉しそうに笑った。
私も笑いたかったけれど、胸がいっぱいで、うまくできなかった。
「今日から、よろしくお願いいたします」
やっとそう言うと、エドガー様は私の額に軽く唇を寄せた。
「こちらこそ、奥様」
不意に奥様と呼ばれて、私は返事の代わりに彼の袖を握った。明日から何度も耳にするのだとしても、すぐには慣れそうにない。
私は彼の肩へ、そっと額を預けた。
彼は急かさずに、私を抱き寄せてくれた。




