↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
笑わないと噂の侯爵様は、私の前ではよく笑う  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/15

第7話 あなたと、暮らしたい

 夜会の翌日、侯爵様から手紙が届いた。

 今度は、お父様へ宛てたものだった。前夜に訪問の申し入れがあったそうで、その時刻を知らせるための手紙だという。


 私は朝食の席で、父の手元を見ないようにしながら、結局、何度も見てしまった。

 封筒には見慣れた家紋がある。お父様は手紙を読み終えると、私を見た。


「今日の午後、ヴァレン侯爵がいらっしゃるそうだ」

「はい」

「私にも、話があると」


 パンを持つ手が止まった。

 お母様が、静かに紅茶を飲んでいる。

 この家で落ち着かないのは、私だけなのだろうか。


「何のお話でしょう」


 訊かなければよかった。

 お父様は困ったように笑った。


「お会いする前から、私に答えを求めないでくれ」


 そのあと、何を食べたのか、よく覚えていない。



 午後、侯爵様は約束の時間ちょうどにいらした。

 先に父の書斎へ通され、私は応接室で待つことになった。

 刺繍道具を出してみたけれど、同じところに針を入れかけて、やめた。


 もし、もう会わない方がよいというお話だったら。

 馬鹿なことを考えていると、自分でも分かっている。

 夜会で二曲も踊ったばかりだ。帰り際には、また会いたいと言ってくださった。


 それでも、自分だけがうまくいっていると思い込んでいたのではと、以前の婚約の終わり方が頭をよぎった。


 扉が開いた。

 侯爵様が入っていらして、その後ろからお父様とお母様が庭へ出ていった。ガラス戸は開けたまま、二人は少し離れた椅子に座る。


「お待たせしました」

「いいえ」


 立ち上がった私へ、侯爵様が近づいた。

 いつもなら向かいの席へいらっしゃるのに、今日は私の前で足を止めた。

 小さな箱を握る彼の手が目に入り、私は息をのんだ。


「先に、あなたのお父上にお許しを願いました。ですが、決めていただくのは、あなたです」


 喉が、きゅっと狭くなった。

 侯爵様は私の前で、ゆっくり膝をついた。


「リディア嬢。私と結婚してください」


 差し出された箱が開き、淡い青色の石を留めた指輪が見えた。

 目の前で光っているのに、遠いもののように見えた。

 今、何と言われたのだろう。

 分かっているのに、うまく返事が出てこない。


「わたくしで、よろしいのですか」


 やっと出た言葉がそれだったので、私は自分が嫌になった。嬉しくてたまらないのに、どうしてすぐに頷けないのだろう。


 侯爵様は笑わなかった。

 真剣な顔で、私を見上げていた。


「あなたに、お願いしています」


 胸がいっぱいになった。その言葉を信じて頷きたいのに、どうしても確かめておきたかった。


「わたくし、いつも今のように楽しくお話しできるとは限りません。何も話したくない日も、機嫌の悪い日も、きっとございます」

「私にもあります」

「侯爵夫人としても、分からないことばかりです」

「私も、夫になるのは初めてです」


 落ち着いた声が、少しだけ揺れた。

 よく見ると、箱を持つ彼の指にも力が入っている。


「今、とても緊張しています。あなたが何を答えるか、まだ分からないので」


 その言葉に、私はようやく気づいた。

 彼も、断られるかもしれないと思いながら来てくださったのだ。その方を前にして、私は自分の不安ばかりを話していた。


「申し訳ありません。お返事を、先に申し上げるべきでした」


 私は彼の顔を見た。


「はい。あなたと結婚したいです」


 侯爵様が、息を吐いた。

 肩の力が抜けて、それから、今まで見たことがないほど柔らかく笑った。


「よかった」


 小さな声だった。

 それを聞いたら、私まで泣きそうになった。


「立ってくださいませ。膝が痛くなります」

「もう少し、このままで」


 彼は箱から指輪を取り出した。

 私が差し出した左手は震えていたけれど、彼は指先を支えて、薬指へ指輪を通してくださった。

 この方と結婚するのだ。石の重みを感じながら、もうお会いする日を数えて待たなくても、同じ家へ帰れるようになるのだと思った。


「あなたと暮らしたいと、思うようになりました」


 立ち上がった侯爵様が、私の手を離さずに言った。


「本を読み終えたとき、次に会うまで待たずに、あなたに話したい。庭を歩くときにも、一緒にいてほしい。そういうことが、増えてしまった」


 私も同じだったので、何度も頷いた。

 昨日の出来事を覚えておいて、次に会ったらお話ししようと考える。お菓子を食べて、彼も好きかしらと思う。

 そうして彼を思い出す時間が、いつの間にか増えていた。


「わたくしも、お話ししたいことがすぐに溜まってしまいます」

「では、毎日聞きます」

「大変ですよ」

「覚悟しています」


 そこでようやく、私たちは笑った。


 庭でお母様が、そっと目元を押さえているのが見えた。

 お父様は気づかないふりをして、薔薇の枝を眺めている。

 その姿を見た途端、我慢していた涙が零れてしまった。


「リディア嬢」


 侯爵様がハンカチを出そうとしたので、私は思わず首を振った。


「また、お借りすることになります」

「これからは、返していただかなくても構いません」


 そんなことを言われたら、ますます泣いてしまう。私は差し出されたハンカチへ手を添えた。


「では、お借りします」


 頷いた彼がそっと頬の涙を拭ってくださった。すぐ近くの目元が優しく緩んでいて、私はまた泣き笑いの顔になった。


「一つ、お願いがあります」

「何でしょう」

「エドガーと呼んでいただけませんか」


 私は口を開いて、閉じた。

 さっきまで結婚の話をしていたのに、名前を呼ぶだけのことが、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。


「エドガー様」


 彼の指が、私の手をきゅっと握った。


「はい、リディア」


 その声で呼ばれる自分の名前が、初めてのもののように聞こえた。

 もう一度呼んでみると、彼はまた嬉しそうに返事をした。恥ずかしかったはずなのに、明日も明後日も、こうして名前を呼びたいと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。