第7話 あなたと、暮らしたい
夜会の翌日、侯爵様から手紙が届いた。
今度は、お父様へ宛てたものだった。前夜に訪問の申し入れがあったそうで、その時刻を知らせるための手紙だという。
私は朝食の席で、父の手元を見ないようにしながら、結局、何度も見てしまった。
封筒には見慣れた家紋がある。お父様は手紙を読み終えると、私を見た。
「今日の午後、ヴァレン侯爵がいらっしゃるそうだ」
「はい」
「私にも、話があると」
パンを持つ手が止まった。
お母様が、静かに紅茶を飲んでいる。
この家で落ち着かないのは、私だけなのだろうか。
「何のお話でしょう」
訊かなければよかった。
お父様は困ったように笑った。
「お会いする前から、私に答えを求めないでくれ」
そのあと、何を食べたのか、よく覚えていない。
午後、侯爵様は約束の時間ちょうどにいらした。
先に父の書斎へ通され、私は応接室で待つことになった。
刺繍道具を出してみたけれど、同じところに針を入れかけて、やめた。
もし、もう会わない方がよいというお話だったら。
馬鹿なことを考えていると、自分でも分かっている。
夜会で二曲も踊ったばかりだ。帰り際には、また会いたいと言ってくださった。
それでも、自分だけがうまくいっていると思い込んでいたのではと、以前の婚約の終わり方が頭をよぎった。
扉が開いた。
侯爵様が入っていらして、その後ろからお父様とお母様が庭へ出ていった。ガラス戸は開けたまま、二人は少し離れた椅子に座る。
「お待たせしました」
「いいえ」
立ち上がった私へ、侯爵様が近づいた。
いつもなら向かいの席へいらっしゃるのに、今日は私の前で足を止めた。
小さな箱を握る彼の手が目に入り、私は息をのんだ。
「先に、あなたのお父上にお許しを願いました。ですが、決めていただくのは、あなたです」
喉が、きゅっと狭くなった。
侯爵様は私の前で、ゆっくり膝をついた。
「リディア嬢。私と結婚してください」
差し出された箱が開き、淡い青色の石を留めた指輪が見えた。
目の前で光っているのに、遠いもののように見えた。
今、何と言われたのだろう。
分かっているのに、うまく返事が出てこない。
「わたくしで、よろしいのですか」
やっと出た言葉がそれだったので、私は自分が嫌になった。嬉しくてたまらないのに、どうしてすぐに頷けないのだろう。
侯爵様は笑わなかった。
真剣な顔で、私を見上げていた。
「あなたに、お願いしています」
胸がいっぱいになった。その言葉を信じて頷きたいのに、どうしても確かめておきたかった。
「わたくし、いつも今のように楽しくお話しできるとは限りません。何も話したくない日も、機嫌の悪い日も、きっとございます」
「私にもあります」
「侯爵夫人としても、分からないことばかりです」
「私も、夫になるのは初めてです」
落ち着いた声が、少しだけ揺れた。
よく見ると、箱を持つ彼の指にも力が入っている。
「今、とても緊張しています。あなたが何を答えるか、まだ分からないので」
その言葉に、私はようやく気づいた。
彼も、断られるかもしれないと思いながら来てくださったのだ。その方を前にして、私は自分の不安ばかりを話していた。
「申し訳ありません。お返事を、先に申し上げるべきでした」
私は彼の顔を見た。
「はい。あなたと結婚したいです」
侯爵様が、息を吐いた。
肩の力が抜けて、それから、今まで見たことがないほど柔らかく笑った。
「よかった」
小さな声だった。
それを聞いたら、私まで泣きそうになった。
「立ってくださいませ。膝が痛くなります」
「もう少し、このままで」
彼は箱から指輪を取り出した。
私が差し出した左手は震えていたけれど、彼は指先を支えて、薬指へ指輪を通してくださった。
この方と結婚するのだ。石の重みを感じながら、もうお会いする日を数えて待たなくても、同じ家へ帰れるようになるのだと思った。
「あなたと暮らしたいと、思うようになりました」
立ち上がった侯爵様が、私の手を離さずに言った。
「本を読み終えたとき、次に会うまで待たずに、あなたに話したい。庭を歩くときにも、一緒にいてほしい。そういうことが、増えてしまった」
私も同じだったので、何度も頷いた。
昨日の出来事を覚えておいて、次に会ったらお話ししようと考える。お菓子を食べて、彼も好きかしらと思う。
そうして彼を思い出す時間が、いつの間にか増えていた。
「わたくしも、お話ししたいことがすぐに溜まってしまいます」
「では、毎日聞きます」
「大変ですよ」
「覚悟しています」
そこでようやく、私たちは笑った。
庭でお母様が、そっと目元を押さえているのが見えた。
お父様は気づかないふりをして、薔薇の枝を眺めている。
その姿を見た途端、我慢していた涙が零れてしまった。
「リディア嬢」
侯爵様がハンカチを出そうとしたので、私は思わず首を振った。
「また、お借りすることになります」
「これからは、返していただかなくても構いません」
そんなことを言われたら、ますます泣いてしまう。私は差し出されたハンカチへ手を添えた。
「では、お借りします」
頷いた彼がそっと頬の涙を拭ってくださった。すぐ近くの目元が優しく緩んでいて、私はまた泣き笑いの顔になった。
「一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「エドガーと呼んでいただけませんか」
私は口を開いて、閉じた。
さっきまで結婚の話をしていたのに、名前を呼ぶだけのことが、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。
「エドガー様」
彼の指が、私の手をきゅっと握った。
「はい、リディア」
その声で呼ばれる自分の名前が、初めてのもののように聞こえた。
もう一度呼んでみると、彼はまた嬉しそうに返事をした。恥ずかしかったはずなのに、明日も明後日も、こうして名前を呼びたいと思った。




