第6話 退屈ではありませんでした
侯爵様とのお付き合いは、まだ正式な婚約ではなかった。
双方の家が了解したうえで、結婚を考えるために何度か会っている段階だった。
けれど、何度も一緒に出かければ、噂にはなる。
「ヴァレン侯爵は、難しい方ではないの?」
王都の夜会で、知人の令嬢にそう聞かれた。
私は少し考えた。
「真面目な方です」
「怒らせたことは?」
「ありませんわ」
「では、まだ分からないわね」
そう言って、彼女は心配そうに眉を寄せた。
悪意はないのだろう。侯爵様が役所で厳しく指摘をするのを、彼女の兄が見たらしい。
でも、仕事のときの顔だけで、普段の顔まで決めてしまうのは惜しい。
そう答えようとしたところで、別の方から声をかけられ、話は終わってしまった。
その夜は両親と出席していた。
侯爵様もいらっしゃると聞いていたけれど、まだ姿が見えない。
入口ばかり気にしているのが恥ずかしくて、私は卓に並んだ飲み物へ目を向けた。
「リディア」
呼ばれて振り返ると、ロベルト様が立っていた。
会場で何度か見かけてはいたけれど、話しかけられるのは婚約解消以来だった。
「お久しぶりです」
「元気そうだね。ヴァレン侯爵と親しくしていると聞いたよ」
どなたから、と聞き返すのも面倒で、私は頷いた。
「ええ。何度か、お会いしております」
「驚いたな。君はもっと、穏やかな人を好むと思っていた」
その言葉に、以前なら曖昧に笑っていたと思う。
今日は、笑えなかった。
「穏やかな方ですわ」
「そうかな。あの人は、冗談も通じないだろう」
「そんなことはありません」
少し強く返したので、ロベルト様が目を丸くした。
「君、変わったね」
「そうでしょうか」
「以前は、そんなふうに言い返さなかった」
確かに、以前は言い返さなかった。彼に好かれたくて、自分の話を途中で遮られても気にしない顔をしていた。
「そうですね」
素直に認めると、ロベルト様は少し笑った。
「今なら、もっと楽しく話せそうだ」
私は彼を見た。
かつて好きになろうとした顔だった。
なのに、胸が少しも動かなかった。
「以前も、わたくしなりに話そうとしておりました」
「いや、そういう意味では」
「お互いに、合わなかったのでしょうね」
責めたいわけではなかった。
ただ、私が変わればうまくいったはずだと言われるのは、違うと思った。
「失礼いたします。母が待っておりますので」
礼をして、その場を離れた。
追いかけてくる声はなかった。
足を止めて言い直しに戻りたくなることもなかった。以前の私はこんなひと言を言うことさえ怖かったのに。
お母様に目で会釈をして、人の少ない壁際まで来たところで、ようやく息を吐いた。そこへ、待ち望んでいた声がした。
「リディア嬢」
侯爵様だった。
正装の黒い上着が、いつもより彼を近寄りがたく見せている。
けれど、私が顔を上げると、その目元がすぐに和らいだ。
「お待たせしました」
「お約束していたわけではありません」
「はい。それでも、お会いしたかったので」
さっきまでの気疲れが、急にどこかへ行ってしまった。
我ながら、現金だと思う。
「何か、ありましたか」
「以前の婚約者と、少しお話をしておりました」
私は会場の方を見た。
侯爵様も視線を向けたけれど、話の中身をお尋ねにはならなかった。
「もう、済みました」
そう言うと、彼は頷いた。
「では、一曲、お付き合いいただけますか」
差し出された手を見て、胸が鳴った。
一緒に庭を歩き、並んでお芝居も見たけれど、踊るのは初めてだ。
「喜んで」
手袋越しに手を重ねる。
侯爵様の指が、確かめるように私の手を包んだ。
曲が始まり、腰に添えられた手に合わせて、一歩を踏み出す。
予想していたより、ずっと踊りやすかった。
彼は私の動きを待ってくださる。急がせないし、大きすぎる歩幅で引っ張ることもない。
「お上手ですね」
「練習しましたから」
「いつ頃です?」
「子供の頃に、厳しく」
アデラ様のお顔が浮かんで、私は笑ってしまった。
「今、母を思い出されましたね」
「はい」
「正解です」
小さく笑った彼を見上げた、その瞬間、私は一歩だけ遅れた。
慌てて足を動かすと、彼は何も言わずに合わせてくださった。
「申し訳ありません」
「何が?」
「今、間違えました」
「二人で同じ方へ動きましたから、問題ありません」
そんな理屈があるだろうか。
でも、おかげで肩の力が抜けた。
近くにいると、彼の声は低く響く。
髪も瞳も見慣れてきたはずなのに、距離が違うだけでこんなにも落ち着かない。
曲が終わらなければいいと思った。
そんなことを思う自分に驚いて、また足を間違えそうになった。
曲が終わって礼を交わすと、彼はまだ私の手を離さなかった。
「もう一曲は、欲張りでしょうか」
嬉しくて、すぐ頷きそうになった。
でも、少しだけ意地悪を言いたくなった。
「一曲目より上手に踊れるとは限りませんよ」
「それはお互いさまです。私も緊張していますから」
見上げると、彼は真面目なお顔だった。
冗談ではないのだと分かって、かえって顔が熱くなった。
「それでは、もう一曲お願いいたします」
今度は、はっきり笑ってくださった。
近くにいたご夫人が、驚いたようにこちらを見ていた。明日は、ヴァレン侯爵が笑っていたと噂になるかもしれない。
けれど、つないだ手を握り直したら、周りの視線は気にならなくなった。今は私だけを見てくださるこの方と、もう一曲踊りたい。




