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笑わないと噂の侯爵様は、私の前ではよく笑う  作者: 九葉(くずは)


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第5話 侯爵様のお好きな場所

 観劇のときに借りたハンカチをお返しすると、侯爵様はそれを上着の内側へしまい、庭へ案内してくださった。


 ヴァレン侯爵家の庭は、薔薇が有名なのだという。

 今はまだ盛りの少し手前で、枝の先には、開きかけの花と固い蕾が並んでいた。


「一週間ほど、早かったかもしれません」


 侯爵様が、申し訳なさそうにおっしゃる。

 私は低い枝の淡い花を見て、首を横に振った。


「十分綺麗です。全部開いていたら、どこを見たらいいか迷ってしまいます」

「では、ちょうどよかった」

「はい。それに、今日は少し涼しいですから、歩きやすいです」


 庭師が離れた場所で作業をしている。伯母様はアデラ様と温室をご覧になるそうで、ミーナが数歩後ろを歩いていた。

 前にお会いしたときから、まだ六日しか経っていない。

 けれど、門の前に侯爵様を見つけたとき、私は思っていた以上に嬉しかった。


 彼も、私の姿を見て少し足を速めてくださった。

 そのことを、何度も思い出してしまう。


「こちらへ」


 薔薇の道を外れた先に、小さな菜園があった。

 きっちり揃った畝に、まだ若い葉が並んでいる。隅には、木陰になる長椅子が置かれていた。


「お野菜も育てていらっしゃるのですね」

「厨房で使うものを、少し。母の楽しみでもあります」

「侯爵様は?」

「食べる方です」


 あまりに迷いのない返事に、笑ってしまった。


「お手伝いはなさらないのですか」

「子供の頃に一度、草取りを任されました。見分けがつかず、必要なものも抜いたので、それ以来」

「信用を失われたのですね」

「ええ。いまだに取り戻せていません」


 何でもおできになる方なのだと、どこかで思っていた。

 でも、ご本人は失敗の話を隠さない。

 それが、なんだか可笑しくて、嬉しかった。


 長椅子には、埃除けの布が掛けられていた。

 侯爵様がそれを外して、私へ座るよう勧める。


「ここがお好きなのですか?」

「はい。家の中で考えがまとまらないときに、よく来ます」


 屋敷の正面の庭とは違って、華やかな眺めではなかった。

 小さな葉が風に揺れる。石の縁に落ちた枯れ葉を、庭師が黙って拾っていく。

 落ち着く場所だった。


「本を読むにも、よさそうです」

「そう思って持ってくると、たいてい眠くなります」

「それは、よい長椅子です」


 笑いながら隣に腰を下ろした彼との距離に、私は膝の上の手を重ね直した。応接室のように、間に卓がない。


「寒くありませんか」

「大丈夫です」


 寒いのではなく、あなたが近いのです。そんなことを言えるはずもなく、私は菜園の方へ目を向けた。


「お仕事は、いつもお忙しいのですか」

「時期によります。今は、比較的落ち着いています」

「お誘いいただいて、嬉しいです。でも、お休みの邪魔になっていないかと」


 侯爵様は少し首を傾げた。


「あなたとなら、ゆっくり過ごせると思ってお誘いしました」


 思わず顔を上げると、すぐそばで目が合った。


「そうなのですか」

「ええ。この間の本の話でも、庭で見つけたものの話でも。あなたが何をおっしゃるか楽しみなので」


 そんなに楽しみにしてくださっているとは思わなかった。嬉しいのに、今に限って話題が見つからない。


「では、また本を持って参ります。眠くならないものを」

「では、私も一冊選んでおきます」


 ようやく笑えたところへ、庭の砂利を踏む音が近づいてきた。


 アデラ様と伯母様がいらしたので、私たちは立ち上がった。


「あら、ここにいたのね。エドガーのお気に入りの場所でしょう」

「お邪魔しております」

「どうぞ、ゆっくりしていって。小さい頃は、機嫌を損ねるといつもここへ隠れたものよ」

「母上」


 侯爵様の声が、いつもより少し低くなった。

 アデラ様は気にせず、にこにこと続ける。


「お菓子を持ってね。隠れているつもりでも、庭師から厨房まで、みんな居場所を知っているの」

「もう、その話は」

「今もあまり変わらないわ。忙しくなると一人で全部片づけようとして、ここで難しい顔をしているもの」


 彼が黙ったので、私は思わず言った。


「今日は、難しいお顔ではありませんでした」


 三人の視線が、私に集まった。

 どうして急に、皆様こちらをご覧になるのだろう。私は慌てて言い添えた。


「ご一緒させていただいて、楽しかったです」


 アデラ様が目元を和らげた。


「そう。それなら、よかった」


 侯爵様はこちらを見なかった。

 ただ、耳のあたりが少し赤くなっていた。

 気のせいではないと思う。



 屋敷へ戻ると、軽い昼食が用意されていた。

 菜園で採れた若い豆を使った料理だという。

 アデラ様が味を確かめるように一口召し上がり、満足そうに頷いた。


「今年は柔らかいわね」

「採る時期を早くしたそうです」


 母子の気安いやり取りを聞きながら、私は自分の皿へ目を落とした。

 この屋敷でお茶をいただいたことはあるけれど、食卓を囲むのは初めてだった。

 普段はどの席に座って召し上がるのだろうと、窓辺の小さな卓へも目が向いた。


 次もこの席に座れたらと思ってから、その嬉しさが少し怖くなった。


 気に入ってもらおうとしているうちに、自分ばかりがこの場所を好きになってしまったら。

 そんな考えが浮かんで、慌てて追い払った。

 まだ何も決まっていないのだ。


 帰り際、玄関で手袋を直していると、侯爵様が小さな包みを持ってきてくださった。


「厨房からです。今日のパンを、ご家族にもと」

「ありがとうございます。お母様も、きっと喜びます」

「あなたにも」


 もう一つ、小さな包みがあった。

 何かと尋ねると、昼食のあとに出た、薄い林檎の焼き菓子だという。


「二つ目を迷っておられたので」


 見られていた!


「迷っただけですわ!」

「はい。ですから、ご自宅でゆっくり迷ってください」


 侯爵様は澄ました顔でそう言った。

 私は包みを受け取って、彼を見上げた。


「遠慮したのです」

「存じています」

「でしたら、笑わないでくださいませ」


 そこでとうとう、彼が笑った。


 つられて笑うと、もう帰る時刻なのが惜しくなった。門の前に待つ馬車を見てから、私は彼へ向き直った。


「また、あの長椅子に座ってもよろしいですか」


 侯爵様の笑みが、少し静かなものに変わった。


「いつでも」


 門を出てから振り返っても、侯爵様はまだ見送ってくださっていた。私は包みを膝に置き、馬車の窓からそっと手を振った。

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