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笑わないと噂の侯爵様は、私の前ではよく笑う  作者: 九葉(くずは)


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第4話 笑い声の聞こえる席

 お芝居に誘われたとき、私は二度、招待状を読み直した。

 演目は、今の王都で評判の喜劇だった。

 笑わないと噂の侯爵様が喜劇に誘ってくださるなんて、その組み合わせだけで楽しくなってしまう。


「喜劇は、よくご覧になるのですか?」


 当日、劇場の廊下を歩きながら尋ねると、侯爵様は首を横に振った。


「子供の頃以来です。母が、あなたとならこれがよいと言うので」

「アデラ様が?」

「私が選ぶと、歴史劇になるだろうと」


 なるほど。それは、少し分かる気がする。


「お好きなのですか、歴史劇」

「はい。ただ、あなたがお好きかどうかは、知らなかった」

「わたくしも好きです。でも、今日は喜劇が嬉しいです」


 彼は小さく頷いて、桟敷席の扉を開けてくださった。

 お母様と伯母様は隣の席。私と侯爵様の前には、舞台を見下ろす低い手すりがある。


 幕が上がると、舞台に現れたのは、身なりだけは立派な貴族だった。

 借金を隠すために友人を別人に仕立て、来客が増えるたびに嘘を増やしていく。

 やがて当人さえ、誰が何者ということになっているのか、分からなくなるのだ。


 もう、どうしてそこでまた嘘をつくの! ばれるに決まっているのに、主人は得意げに胸を張っている。


 私は口元を押さえた。

 笑ってはいけないわけではない。周りからも楽しそうな声が上がっている。

 でも、こんなに大きく笑ったら、侯爵様に呆れられるかもしれない。


 隣を窺うと、彼は真面目なお顔で舞台を見ていた。

 やっぱり、お好みではなかったのだろうか。


 そのとき、役者が勢いよく椅子を引き、腰を下ろそうとした主人が、そのまま床へ座り込んだ。


 侯爵様の肩が揺れた。


 慌てて見ると、彼は片手で口元を覆っていた。

 隠しきれないほど目元が緩んでいて、私が堪えている間も笑っていらしたのだと分かった。


 私の視線に気づいた彼がこちらを見た。

 目が合った途端、なぜか二人とも、ますます可笑しくなった。


「あの方、まだ椅子に座ったつもりで話していますね」


 侯爵様が小声で言うので、私はもう駄目だった。

 笑いを堪えようとすると、変な息が漏れる。


「侯爵様、もうおっしゃらないで」

「申し訳ない」


 少しも申し訳なさそうではなかった。

 顔を背けているくせに、肩がまだ揺れている。


 幕間になったときには、私の頬はすっかり熱くなっていた。

 お母様が飲み物を取ってくださり、伯母様は侯爵様に、楽しんでいるかと尋ねる。


「はい。大変」

「それはよかったわ」


 伯母様は満足そうだった。

 こちらを見て、目だけで笑わないでほしい。


 二人が隣席の知人に挨拶をしているあいだ、侯爵様が私へハンカチを差し出した。


「目元に」

「えっ」


 笑いすぎて、涙が出ていたらしい。

 恥ずかしい。私は慌てて、自分のハンカチを取り出した。


「ありがとうございます。ですが、持っておりますので」

「そうでしたか」


 侯爵様は目を伏せ、ハンカチをしまいかけた。そのお顔が残念そうに見えて、私はつい尋ねてしまった。


「お借りした方が、よろしかったですか?」


 彼は意外そうに私を見た。

 そして、苦笑した。


「そのような顔をしましたか」

「少し」

「困りましたね。あなたの前では、あまり役に立たないらしい」

「何がです?」

「顔に出ないことが」


 私は手元のハンカチを、ぎゅっと握った。

 喜んでよい言葉なのか、からかわれているのか分からないまま、頬が熱くなった。


「では、次の幕で泣いてしまったら、お借りします」

「笑って泣いた場合でも?」

「もちろんです」

「承知しました」


 後半は、前半よりさらに大騒ぎだった。

 私は結局、彼のハンカチを借りた。

 侯爵様は勝ち誇るでもなく、ごく自然に渡してくださったけれど、その口元は、確かに笑っていた。



 観劇のあと、劇場に併設された小さな食堂で、軽い食事を取った。

 お母様たちは一緒の卓にいたけれど、途中から衣装の話で盛り上がり、私たちは劇の結末について話していた。


「最初に本当のことを言えばよかったのにと、最後まで思ってしまいました」

「そうすると、一幕で終わってしまいます」

「お芝居になりませんね」

「ええ。私たちも、こんなに笑えなかった」


 侯爵様がパンを割る。

 私は手袋を外したその指を見ていた。

 パンを分ける指が長い。ハンカチを受け取ったとき、手袋越しに触れた感触まで思い出してしまう。


 いけない。お話をしている最中に、何を考えているのだろう。


「侯爵様はお芝居の途中でも、あまり声をお出しにならないのですね」

「あなたも、初めはそうでした」

「わたくしは、気になることがあって」

「何が?」


 正直に言うのは、気恥ずかしかった。

 けれど、今日の劇の主人のように、言い繕っていくのも嫌だった。


「大きな声で笑ったら、お行儀が悪いと思われるかと」


 侯爵様はパンを皿に戻した。


「私に、ですか」

「はい」


 彼はしばらく私を見ていた。

 それから、少しだけ困ったように笑った。


「それで、途中から我慢をやめてくださった?」

「侯爵様も笑っていらしたので」

「では、今後も笑うようにします」

「無理になさることではありませんわ」

「無理ではありません」


 きっぱりと言われた。

 それきり黙ってしまった私に、彼は言い添えた。


「あなたが楽しそうにしていると、私も楽しいのです」


 そんなふうにまっすぐ言われたら、顔を上げられない。気の利いた返事を考えようとしたのに、彼の言葉ばかりが頭の中で繰り返された。


「わたくしも、侯爵様とご一緒だから楽しいのです」


 やっとそれだけ言うと、侯爵様はほっとしたように笑った。


 帰宅してから、借りたハンカチを広げてみた。

 隅に、小さく頭文字が刺繍されている。

 洗ってお返しするだけのものなのに、なぜかしばらく、手放したくなかった。


「お嬢様、洗濯にお出しするのでしたら」

「明日でいいわ」


 ミーナの目が、楽しそうに細くなる。

 何も言われないうちに、私はハンカチを差し出した。


「やっぱり、お願い!」


 帰りの馬車へ乗る前に、来週は庭を見にいらっしゃいませんか、と誘っていただいている。ハンカチをお返しするだけで終わらない次の約束が、もうあるのだった。

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