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笑わないと噂の侯爵様は、私の前ではよく笑う  作者: 九葉(くずは)


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3/15

第3話 同じ本を、違うところで

 侯爵様と書店へ行く日、私はいつもより早く支度を終えた。

 早く終えすぎて、薄青いリボンを真珠の髪飾りに替えようかと迷い始めていた。


「今のリボンがお似合いです」

「まだ何も言っていないわ」

「鏡を三度ご覧になりました」


 ミーナはそう言って、私の手から真珠の髪飾りを取り上げた。

 結局、最初に選んだ薄青いリボンのままで出かけた。


 西通りの書店は、外から見た印象より奥が深かった。

 棚が天井近くまで伸び、窓のそばには、新しく入った本を並べた机がある。

 伯母様は入るなり、顔なじみだという店主と話し始めた。私たちはその目の届く隣の棚へ向かう。


「何か、お探しのものは?」

「特には。見てから決めようと思います」

「私も、今日はそうしましょう」


 侯爵様が私の歩幅に合わせて、ゆっくり歩く。

 屋敷で向かい合っているときには気づかなかったけれど、かなり背の高い方だった。

 上の棚に欲しい本を見つけても、梯子を借りる必要がなさそうだ。


「今、便利だとお思いになりましたか」

「どうしてお分かりに?」

「棚と私を、交互にご覧になったので」


 私は笑ってしまった。


「申し訳ありません」

「構いません。少しくらい、お役に立ちたい」


 さらりと言われて返事に困っているうちに、彼は上段の本を一冊抜いてくださった。


「こちらですか?」

「はい。ありがとうございます」


 受け取ったのは、田舎へ帰った姉妹が古い家を立て直すという物語だった。

 よく知らない作家の本だけれど、店主の書いた小さな紹介札に惹かれた。

 喧嘩ばかりの姉妹が、最後には同じ食卓を囲むらしい。


「幸せな結末ですね」

「ええ。安心して夜に読めます」


 私たちは本の表紙を見て、顔を見合わせた。


 侯爵様も同じ本を選んだので、少し驚いた。


「お好きな種類ではないのでは?」

「読んだことがないので、まだ分かりません」

「無理に合わせてくださらなくても」

「あなたが好きなものを、一度読んでみたいのです」


 今度こそ何も言えなくなった。もう一冊の本を手にする彼のお顔は真面目で、からかっておっしゃったわけではなさそうだった。


「お嫌ですか」

「いいえ! ただ、感想が違っても怒りませんからね」

「それは助かります」


 同じ店の紙袋を一つずつ持って店を出た。

 たったそれだけなのに、お揃いの品を手に入れたようで、私は帰り道のあいだ何度も袋を見てしまった。



 一週間後、侯爵様は我が家へいらした。

 今度は伯母様ではなく、お母様が隣の部屋で刺繍をしながら、扉を開けていてくださる。


「読み終わりましたか?」


 挨拶のあと、待ちきれずに尋ねてしまった。

 侯爵様は持っていた本を卓に置いた。私も自分の本を膝から卓へ移す。


「昨夜、読み終えました」

「どこがお好きでした?」

「妹が、屋根の修理を断念するところです」


 私は目を瞬いた。


「そこですか?」

「あなたは?」

「姉が、妹のために一晩かけて上着を直すところです」

「なるほど」


 全然違う場面だったので、どうしてそこを選んだのか知りたくなった。


「屋根のところは笑ってしまいました。妹はあれだけ大丈夫だと言っていたのに、結局、梯子から降りられなくなるのですもの」

「私はようやく人を呼べたのだと思いました」


 侯爵様はページを開いた。

 妹が頑張ったせいで、かえって屋根に穴が増えてしまう。姉に梯子を押さえてもらってようやく降りたあと、二人はずっと避けていた隣家へ、修理を頼みに行くのだ。


「頼むまで、ずいぶん長くかかったでしょう」

「そうですね。でも、助けに来た隣人に文句を言ってしまうのです」

「そこも好きです。急には素直になれない」


 彼の言葉を聞いて、私はもう一度、その場面を読みたくなった。

 同じ本の中に、私の見ていなかったものがある。


「では、上着のところはいかがでした?」

「よかったと思います。ただ、翌朝までに必要なら、夜更かしをするより借りてくればよいのではとも思いました」

「侯爵様!」


 思わず声が大きくなった。

 彼が目を丸くする。


「あれは、お姉様がどうしても、ご自分で直したかったのです」

「ええ。読み返して、そう思いました」

「読み返してくださったのですか」

「あなたは、きっとここがお好きだろうと思ったので」


 私がいない場所でも、私を思い浮かべて読み返してくださった。そのことが嬉しくて、私は本の端をそっと撫でた。


 つい口元が緩んだ私を見て、侯爵様も笑った。


「今日は、よく笑われますね」

「侯爵様こそ」

「そうでしょうか」

「ええ。噂と違います」


 しまった、と思ったときには遅かった。

 でも彼は気を悪くした様子もなく、読みかけていたページに栞を挟んだ。


「笑わない、という噂ですか」

「はい」

「そんなに面白いことが、毎日あるわけではありませんから」


 それはそうだけれど、と言いかけてやめた。静かに本を読む日もお好きなのだろうし、いつも笑っていていただく必要もない。


「では、今日は面白い日なのですね」


 侯爵様が顔を上げた。


「はい」


 こちらを見る目があまりに優しかったので、私は本を閉じる手元へ視線を逃がしてしまった。


 その日、侯爵様が帰られたあと、お母様が私の本を見た。


「次は何を読むの?」

「まだ決めておりません」

「そう。では、また選びに行くのね」


 私は頷いてから、はっとした。

 また一緒に行くなんて、まだ約束していない。

 けれど、もうそれが当然のように思えている自分がいた。


 机の上に残った私の本を、もう一度開いた。侯爵様が好きだとおっしゃった、屋根の修理の場面だった。

 読み返したら、きっとまたお話ししたいことが増えてしまう。そう分かっていながら、私は椅子に座り直した。

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