第10話 言葉の少ない夜
エドガー様がお疲れのときは、眉間に少しだけ皺が寄る。
ご本人はお気づきでないようだけれど、私には分かるようになってきた。
その日は、夕方から雨だった。
王宮に近い役所での会議が長引くという使いが来て、私は一人で先に夕食を済ませた。
無理に待たなくてよいと、朝から言われていた。
それでも、帰ってきたときに誰もいないのは寂しいかしらと思い、居間で本を読んでいた。
もっとも、馬車の音がするたびに顔を上げてしまい、同じページを三度も読み直していた。
玄関の方から音がしたのは、夜もだいぶ更けてからだった。
廊下へ出ると、エドガー様が濡れた外套を脱いでいるところだった。
「お帰りなさいませ」
彼が顔を上げた。
眉間の皺が、少し緩む。
「起きていたのですか」
「ええ。本を読んでおりました」
「夜更かしを?」
「今日は、許される夜更かしです」
いつもならそこで何か返ってくるけれど、その日は小さく笑っただけだった。よほどお疲れなのだろう。
私は彼の前へ進みかけて、足を止めた。
聞きたいことはある。どんな一日だったのか、夕食は食べられたのか。
でも、先に温まっていただいた方がよさそうだった。
「居間に火が入っております。お食事も、すぐに用意できます」
「ありがとう。着替えたら行きます」
彼が私の指先を一度握って、離した。
挨拶に応える指の温かさは、いつもと変わらない。話を急がず、まずは休んでいただこうと思った。
やがて着替えてきた彼は暖炉に近い椅子へ腰を下ろした。
遅い夕食には、温かいスープと、食べやすく切った肉料理が出た。
私は向かいに座って、本を開く。
「待っていてくれたのですか」
「途中までは読書をしておりました。本当です」
「途中からは?」
「時計を見ていました」
彼は申し訳なさそうな顔をした。
「すまない」
「謝っていただくようなことではありません。勝手に気にしていただけですもの」
私は本のページを一枚めくった。
彼が匙を動かす音と、暖炉の火が小さく弾ける音がした。
それだけの時間が、思っていたより心地よかった。
無理に話題を探すこともなく、私は本を読み進めた。顔を上げるたび、向かいで彼が温かいものを食べている。それを確かめられるだけで安心した。
食事を終えた彼が背もたれへ身体を預けた。
「今日は、長かった」
ひどく正直な声だった。
私は本から顔を上げる。
「終わらない会議でしたか」
「三つの部署が別々に橋の修繕費を求めていたのですが、地図を突き合わせたら同じ橋でした。地区の名で呼ぶ者と、川の名で呼ぶ者がいて」
私は口を押さえた。
笑っていいのかしら。
彼は疲れた顔のまま、私を見た。
「笑って構いません。私も、分かったときには笑いたかった」
「でも、お笑いにならなかったのですね」
「三人とも自分の書類を見たまま黙ってしまったので、私が話を進めるしかなくて」
その場を取り仕切る彼の顔が浮かんだ。お気の毒だと思うのに、笑いを堪えられなかった。
「お帰りになるまで、長かったでしょうね」
「ええ」
彼が手を伸ばした。
私は本を閉じて、隣の椅子へ移った。
指を重ねると、いつもより力を抜いた手が、私の手を包んだ。
「今日は、何を?」
「お母様へ手紙を書いて、それからアデラ様に、冬の来客のことを教わりました。午後は少し、刺繍を」
「進みましたか」
「葉の色を間違えたので、ほどきました」
「それは残念でしたね」
「ええ。でも、自分でほどくだけで済みましたから。三人の相談をまとめるよりは楽ですわ」
エドガー様が笑った。
低い、少し掠れた笑い声だった。
私はそれを聞いて、今日、待っていてよかったと思った。
翌日の午後、私はアデラ様の離れを訪ねた。
来月、侯爵家で小さな晩餐を開くことになったのだ。
結婚後、私が初めて女主人として迎える席だった。
お客様は、侯爵家と古くから付き合いのあるご夫妻が二組と、エドガー様の仕事上のお知り合いが二人、合わせて六名だった。
名簿を見ながら、私はそれぞれのお好みや、避けた方がよい話題を教わった。
「全部を一度に覚えようとしなくていいのよ」
「はい。でも、当日になって慌てたくありませんので」
アデラ様は頷いて、私の書きつけを見た。
「こちらのご夫人は、昨年、足を痛めていらっしゃるから、座ってお話しできる場所があると喜ばれるわ」
「では、食前のお飲み物も、最初から応接室で」
「ええ。それがいいと思う」
分からないことが、一つずつ具体的になる。
そうすると、ただ怖がっていたときより、少し楽しみになってきた。
帰り際、アデラ様は私の手に、小さな布包みを載せた。
「厨房で多めに焼いたそうよ。エドガーにも持っていって」
中身は、林檎の焼き菓子だった。
私は思わず笑った。
「こちらへ伺うと、いつもお菓子をいただいてしまいます」
「あなたが美味しそうに食べるからよ」
夕方、執務室へ届けると、エドガー様は書類から顔を上げた。
「母のところへ?」
「はい。来月の晩餐のお話を」
「助かります」
何気ない言葉だった。
でも、私は嬉しくて、包みを開ける手に少し力が入った。
私にも、この家のためにできることがあるのだ。もう一度名簿を見直して、今日教わったことを書き足しておこうと思った。
「きちんと準備いたしますね」
彼は微笑んで、頷いた。
彼にも楽しんでもらえる晩餐にしたい。そう思うと、準備にも力が入った。




