第九章
数時間ぶりに、私は外へ出ることができた。
この大きな城は、正直なところ、居心地がよいとは言い難い。狭い部屋に長く閉じ込められていたせいか、すっかり気分も悪くなっていた。
玄関から外へ出ると、私は大きく息を吸い込んだ。
「あ、あの!」
声に振り返る。
「先ほどは、ありがとうございました。助かりました。無事に出てこられたんですね」
そこには、先ほどの女が立っていた。
深々と、私たちへ頭を下げている。
「ああ、先ほどの女ではないか。礼を言うために、わざわざ待っていたのか?」
「いえ、あの……私たちは、すぐに帰してもらえたんですけど……。私たちを助けたせいで、あなたたちが警察に連れていかれたわけですし。帰ってからも、何だか気になってしまって……」
「がははは! そうか、そうか。自分のせいで、他人が罰せられるのを気に病んだか!」
猿田彦が、豪快に笑い声を上げた。
女はその大きな声に驚き、身体をびくりと震わせた。
これでは、猿田彦が女を怯えさせる外道のようではないか。早く誤解を解かなくては。
「お、女。怖がらなくてよい。猿田彦は大柄なだけで、気のよい者だ。あなたの礼は受け取った。もう夜も遅い。早く帰って、身体を休めるとよい」
「ちょっと待った!」
猿田彦が、女を呼び止めた。
「おい、女。俺たちに悪いことをしたと思っているなら、少し頼みがあるんだ。聞いてくれないか?」
「え? それは……一応、あなたたちは恩人ですし……。私のせいで警察に連れていかれたことは、悪いと思っていますけど……」
「猿田彦? いったい何の話だ? 悪いのはあの男たちであって、この女ではないだろう?」
猿田彦は、いったい何を考えているのだろう。
その顔を見る限り、あまりよい企みとは思えなかった。
「俺は、うずめちゃんを捜しに行きたいんだよ。だから、ほんの少しの間でいい。こいつに、この街を案内してやってほしいんだ。頼めないかなぁ……」
「「えっ!?」」
猿田彦の要求に、私と女は同時に声を上げた。
「おっ! お二人さん、息ぴったり!」
「そういう話ではない!」
「あの、私も困ります!」
「まあ、聞けって。俺はこの土地に不慣れだ。それに、こんな見た目だろ? 人間は警戒して、まともに話もしてくれねぇ。人間のことは人間に聞くのが一番に決まってる。な? ちゃんと別の場所へ移る時には、俺が迎えに来るから!」
「い、いや、あの……困ります。確かに助けていただいた恩はありますけど、それとこれとは……」
「そうだ、猿田彦。何を言っている」
「月読、考えてもみろ。お前も俺も、現世には住む場所がない。二人でふらふら歩き回ったところで、俺はこんななりだ。警戒されて、人間はまともに相手をしてくれねぇ。今、こうして話をしてくれているのは、この女くらいだぞ」
確かに、猿田彦の言葉にも一理ある。
城の中で私の話を聞いていた男も、私の言うことなど、まるで信じていなかった。
だが、この女は明らかに困っている。
突然、見ず知らずの私を押しつけられようとしているのだ。当然の反応だろう。
はてさて、どうしたものか。
「あの……住むところ、ないんですか?」
女が、恐る恐る尋ねた。
「いや、あの、ちょっと待ってください。案内するって……まさか、うちに住むつもりですか?」
「それは、さすがに申し訳ない。もし、あなたが案内を引き受けてくれるのであれば、私はどこか別の場所で夜を明かす。明日、どこかで落ち合って案内してもらえると助かるのだが……」
「ええええっと……」
女は完全に天を仰いでしまった。
やはり、無理があるのだろう。
猿田彦には一刻も早く天宇受売を見つけてほしいが、残念ながら、もう少し待ってもらうしかない。
「はぁぁぁ……!」
女は、深い溜め息をついた。
「ごめんなさい。もう眠くて、頭が回らないです。一度、休みましょう。とりあえず、私の車に乗ってください」
女に促され、私たちは駐車場に止められていた箱の前まで移動した。
この箱は、車というらしい。
「大きい人は前に乗ってください。あなたは後ろへ」
女は猿田彦を前方の席へ押し込むと、私に後ろの戸を示した。
言われるまま戸を開け、そこで初めて、中に小さな人間がいることに気がついた。
先ほど、女と一緒にいた子どもだ。
外からは座席に隠れ、その姿が見えなかったらしい。子どもは、小さな椅子のようなものに身体を預け、すやすやと眠っていた。
私は起こさぬよう、静かにその隣へ腰を下ろした。
女が前方の席に座ると、車は、きらきらと輝く街の中を走り始めた。
人間が遠くへ移動するために使うものだということは分かった。前方に座る人間が動かさなければ、車は進まないらしい。今は、女がその役目を担っている。
しばらく移動すると、車が止まり、女が外へ出た。
「着きました。降りてください。もう夜も遅いので、静かに私についてきてくださいね」
女は後ろの戸を開け、眠っている子どもを抱き上げた。
そして、私たちが降りるのを待っている。
私は急いで車から外へ出た。
カッ、カッ、カッ、カッ――。
女は大きな建物の中へ入り、子どもを抱いたまま階段を上っていく。
やがて一つの扉の前で立ち止まると、ちゃらちゃらと軽快な音を立て、扉を開けた。
子どもを抱えながら、なんとも器用なものだ。
「どうぞ。狭いですけど、とりあえず中へ入ってください」
女はそう言うと、暗闇の中へずんずん入っていった。
私は猿田彦を見る。
猿田彦は顎をくいっと動かし、中へ入れと示した。
私は女の後を追い、狭く暗い通路へ足を踏み入れた。
しかし、すぐに女の姿を見失ってしまった。
しばらくすると部屋に明かりが灯り、ようやく、その居場所を見つけることができた。
確かに、女の言ったとおり、黄泉の国に比べれば随分と狭い部屋だった。
どうすればよいのか分からず、私は部屋の隅に立っていた。
「ちょっ、靴!」
「くつ?」
「足に履いてるものです! 玄関で脱いでください!」
女が私の足元へしゃがみ込み、履物を脱がせようとする。
私は言われるままに履物を脱いだ。
女はそれを手に取ると、先ほど入ってきた扉の前まで戻った。やがて、手ぶらで帰ってくる。
「とりあえず、そこら辺に座ってください。いろいろ……いろいろ、聞きたいことがあります」
女に促され、私はその場に腰を下ろした。
女は部屋に置かれた箱を操作すると、黒い液体を三つの器に注いだ。
二つを卓の上へ置き、残る一つを私に差し出す。
「コーヒーです。ブラックですけど、大丈夫ですか? っていうか……お友達は?」
「コーヒー? ブラック? お友達? すまない、女。何を言われているのか、よく分からない」
「それ、やめてもらえません?」
女が突然、声を荒らげた。
「先ほどから、女、女って! ものすごく嫌なんです! 助けていただいたことには感謝していますけど、その呼び方、何とかなりませんか!?」
「す、すまない」
「コーヒーも分かりませんか? 飲み物です! ブラックというのは、砂糖もミルクも入っていないから苦いという意味です! それから、お友達! さっきのでかいおじさんです!」
一息に早口で言われ、私はほとんど理解できなかった。
どうやら、この者は「女」と呼ばれたことに腹を立てているらしい。
では、何と呼べばよいのだろう。
「すまぬ。ええと……何と呼べばよいのだ?」
「私、神田といいます。神田です」
「分かった。神田だな」
それから私は、部屋の中を見回した。
猿田彦の姿は、どこにもない。
「して、神田。どうやら猿田彦は、天宇受売を捜しに行ってしまったようだ」
「……やられましたね」
神田は、使う者のいない三つ目の器を見つめた。
「私、あなたを押しつけられたんですね」
「すまぬ」
「はぁぁぁ……。何で、こんなについてないんだろう。私が何をしたっていうのよ……」
「すまない。猿田彦は、根は悪い者ではないのだ。あやつの言ったことは、なかったことにしてくれてよい。私はこれで失礼するよ」
これ以上、私がここにいることは許されない。
そう思い、立ち上がろうと腰を浮かせた。
その時、神田が笑い出した。
「もう、いいですよ。行くところ、ないんでしょう?」
「だが……」
「一晩くらい、泊めてあげます。といっても、もうこんな時間ですし、あと数時間もしたら起きてもらいますけど」
神田は私の衣を眺め、再び溜め息をついた。
「とりあえず……その服、動きづらいでしょう? 元夫のもので悪いんですけど、これ、着られるかな。スウェットしかないんですけど」
神田は引き出しから衣服を取り出し、私へ差し出した。
私は言われるまま、手渡された衣服へ着替えた。
「私は、ここにいてもよいのか?」
「仕方ないでしょう? とりあえず、今日はもう寝ましょう。布団はありませんけど、外よりはましですから」
「大丈夫です。ありがとう」
「ええ。はい。では、おやすみなさい」
そう言うと、神田は隣の部屋へ消えていった。
こうして、私の現世での一日目は終わった。
私は、現世というものをもう少し学んでから来るべきだったと、今さらながら後悔した。




