第八章
僕の名前は、山下恭平。
千樹警察署の刑事だ。
今から一時間ほど前、一本の一一〇番通報が入った。
場所は北千樹駅前通り。四号線から一本中へ入ったところにある、文房具店からだった。
最初に入った通報の内容は、こうだ。
『店の外で男女が揉めている。子どももいて、男が怒鳴っている』
近隣を巡回中だった警察官が現場へ駆けつけ、最初に目にしたのは、身の丈二メートルを優に超える大男の後ろ姿だったという。
警察官は大男に近づいて、ようやく、その足元に広がる惨状に気がついた。
一人は右腕を押さえて呻き、もう一人は右手から血を流して蹲っていた。
怪我をした二人は病院へ搬送され、別の刑事が話を聞くことになった。
現場に残っていた二人の男は抵抗することもなく、事情聴取のため警察署まで同行したらしい。
そのうち、奇妙な格好をした男の事情聴取を、刑事になって間もない僕が担当することになった。
もう一人の大男を担当したのは、先輩刑事の藤田さんだ。
ところが聴取を始めて間もなく、その藤田さんが僕を廊下へ呼び出した。
藤田さんは何も言わず、休憩スペースへ向かった。自動販売機で缶コーヒーを二本買うと、そのうち一本を僕に差し出し、そばにあるベンチへ腰を下ろした。
「藤田さん。もう、あの大男の聴取、終わったんすか? こっちは名前から住所から、でたらめばっかりですよ。身分証も持ってないし、正直もう、お手上げです」
一通り愚痴ってから、僕は缶コーヒーを一口飲んだ。
藤田さんは「ははは」と力なく笑い、同じようにコーヒーを口へ運んだ。
「……名前は猿田彦。住まいは三重の海の中。歳は分からない。仕事は導き……。お前が聴取している方は、月読命だそうだ。ははは」
僕は驚いて藤田さんを見た。
もうすぐ定年を迎えるベテラン刑事でも、相手からまともな話を引き出せないことがあるのか。
しかし、僕が口を開く前に、藤田さんが左手を差し出した。
掌の中央に、赤い窪みができている。
それよりも気になったのは、その指先だった。目で見てすぐ分かるほど、細かく震えている。
「どうしたんすか、その手。赤いところ、何かを突き立てた痕みたいですよ。痛そうだ」
「ああ。もう少し力を込めていれば、血が出ていただろうな。薄皮一枚ってところだ。突き立てたのが、ボールペンで助かった」
「はぁ? 自分でやったんすか?」
「……実験だよ」
藤田さんは、自分の掌にある赤い窪みを見つめた。
「奴は、自分に危害を加えた者が、同じだけの傷を負うと言った。報復ではない。自分は何もしないとな。俺が信じずにいると、奴は『ならば試してみればよい』と言って、左の掌を差し出した。俺はそこへ、ボールペンを突き立てた。結果は見てのとおりだ」
「ええ!? まずいっすよ。事情聴取中に暴行なんて、訴えられますよ?」
「ははは。同意の上での実験だ。それに、奴の手には、傷どころか何かが当たった痕すらない。綺麗な掌でしたとさ」
藤田さんは乾いた笑いを漏らした。
「俺は右手でボールペンを握り、奴の左の掌へ思い切り突き立てた。その瞬間、俺の左手に激痛が走った。痛みを堪えて、さらにボールペンをぐりぐりと押し込んだ。すると、俺の左の掌が、何も触れていないのに窪んで、赤くなっていった。痛いなんてもんじゃない。俺はボールペンを放り投げたよ」
藤田さんはそう言うと、スーツのポケットからスマートフォンを取り出した。
老眼のせいか、操作に少し手間取っている。
やがて見せられたのは、一本の動画だった。
「困ったもんだ。あの騒ぎの一部始終が、もうSNSに流れてる。もっとも、これを見ても、何が起きたのかの証明にはならねぇがな」
「え?」
動画を再生する。
画面の大半は暗かったが、一部分だけが僅かに照らされていた。おそらく、通報した文房具店の明かりだろう。
その頼りない光の中に、人影が四つ見える。そのうち一人は、背丈からして子どもらしい。
一人の男が、興奮した様子で怒鳴っている。
音が割れていて何を言っているのかまでは分からないが、大声で相手を威嚇していることだけは分かった。
やがて、もう一人の男が長い棒状のものを振り上げる。
おそらく凶器として押収された、鉄パイプだ。
だが、次の瞬間、鉄パイプを振り下ろした男自身が地面へ倒れた。
怒鳴っていた男が、さらに喚き散らす。
そして一瞬の間を置き、何もない空間へ向かって刃物を突き出した。
すると今度は、その男が自分の手を押さえ、その場へ蹲った。
「何ですか、これ? コスプレ男も、大男も映ってないじゃないですか」
「動画の題名を見てみろよ」
動画を止め、表示されている題名を確認した。
『透明人間!? 消えた平安男子とメタル大男』
投稿者の説明には、こう書かれていた。
『その場所には、確かに男四人と女一人、子ども一人がいた。なのに、スマホに映っていない男が二人いる。マジで怖い』
つまり、現場にいたはずなのにカメラには映らない二人が、今、僕たちが事情を聴いている男たちということになる。
「あれは、人間じゃねぇ。連れてきちゃいけない奴だ」
「オカルト的なやつですか? 藤田さん、そういうの信じる人でしたっけ?」
「刑事になって三十年、そっちの分野には懐疑的に生きてきたつもりだ。だがな、山下。今、俺たちの前にいる奴は、人間じゃねぇ」
藤田さんは、もう一度僕の前へ左手を差し出した。
「見ろよ。奴さんと向き合ってから、俺は寒くもねぇのに、ずっと震えてんだ」
その手は、確かに震えていた。
「……藤田さん。課長には、何て報告します?」
「なぁ……事件の関係者さ。あのお母さんと子どもは、もう調書を取り終わってんだろ?」
「あ、はい。彼女たちは身元もはっきりしていますし、もう終わっているはずです」
「それを確認してくれ。奴さんたちの話と照らし合わせて、食い違いがなければ帰しちまおうぜ。幸い、病院へ運ばれた二人は、ゆすりやたかりの常習犯だ」
「えっ!? 本気で言ってんすか? 身元もはっきりしないのに外へ出したら、それこそ問題になりますよ」
「俺に言わせりゃ、あいつらの身元なんて知りたくもないね」
藤田さんは、吐き捨てるように言った。
「世の中には、俺たちが触れちゃいけねぇものが存在するんだよ。早いところ、お帰りいただこうじゃないか」
わざと少しふざけた言い方をしていたが、その声は震えていた。
いったい何が、藤田さんをここまで怯えさせているのだろう。
おそらく、彼はもう、大男の待つ部屋には戻らない。
上から戻れと命令されれば、今すぐ刑事を辞めると言い出しかねないほど怯えている。
「……分かりました。親子の調書と、あの人たちの話を照らし合わせてみます。あ、藤田さん。コーヒー、ありがとうございました」
僕は藤田さんをベンチに残し、親子から取った調書を確認しに向かった。
その後、奇妙な格好の男が待つ部屋へ戻り、彼を連れて、大男の待つ部屋へ向かう。
休憩スペースを離れる直前、僕は一度だけ振り返った。
藤田さんはベンチに座ったまま、自分の掌にできた赤い窪みを見つめている。その指先は、まだ震えていた。
「ちっ……何だってんだ。あんなもんが、そこかしこにいてたまるかよ」
吐き捨てるような声が、僕の背中に届いた。




