第十章
「月読さん、おはようございます。あの、私、仕事に行くので……言いにくいんですけど……」
「ああ、神田。分かっています。すぐに出ていきます」
「ははは……何だか、すみません」
神田は申し訳なさそうに笑うと、隣の部屋へ入っていった。
しばらくすると、神田が部屋の中を行ったり来たりしながら、慌ただしく動き始めた。
何か手伝えることはないかと思い、声をかけてみる。
「私にできることはあるか? 随分と慌てているようだが」
神田は足を止め、こちらを見た。
眉間に皺を寄せ、首を右へ左へと傾げている。
「月読さんって……熱を出した子どもの世話なんて、したことないですよね?」
「熱? そもそも、子どもの世話というものをしたことがないが」
「……ですよね」
神田は、小さく溜め息を吐いた。
「あ、いいんです。仕事は休みますから。たぶん、昨日の疲れが出たのかなぁ。それほど高いわけじゃないし。でも、一応病院……いや、今日一日様子を見て、明日も続くようなら病院かな……」
「子が、氣枯れたのか?」
「は?」
神田の顔色が変わった。
「何? 穢れって、汚れているってことですか? うちの子を病原菌みたいに。失礼じゃないですか! 汚れているっていうなら、あなたの方がよっぽどでしょう!」
何か、気に障ることを言っただろうか。
神田は明らかに不機嫌な顔をして、強い口調で私を責めている。
「怒っているのか? なぜだ?」
「別に怒ってませんよ。あなたが子どものことを『穢れ』なんて言うから、イラッとしただけです」
それを、怒っているというのではないのか。
怒ってはいないのに腹を立てているとは、どういうことだろう。
「氣枯れとは、汚れているという意味ではないぞ」
「違うんですか?」
「氣が枯れると書いて、氣枯れだ。氣とは、つまり力のこと。その力が失われ、弱っているという意味だ」
「ああ……そっち」
「ところで、子はいくつだ?」
「五歳ですけど……」
「七つまでは、神のうち……」
「あ、それなら知っています」
神田は少し得意げな顔をした。
「数え年で七歳になる前の子どもは、まだ神様に近い存在だから、わがままや非礼があっても責任を問われない、という意味ですよね? それが何なんですか?」
「ここでは、そのような意味になっているのか?」
「もう一つの意味もありますけど……。今は佑の具合が悪いから、言いたくありません」
「ほう。まあ、よい。子は、佑という名なのか」
「そうですけど」
「少しの間、会わせてもらえるだろうか」
「え? あなた、医者……じゃないわよね。会うって言っても、熱を出して寝ているんですけど……」
「話しかけたりはしない。見るだけだ」
「何なのよ……。少し覗くだけなら……でも、触らないでくださいよ」
私は頷き、隣の部屋へ入った。
布団に寝かされた佑は、顔を赤くして眠っていた。
私は右目を手で覆い、左目だけで佑を見る。
「なるほど……」
「何ですか?」
背後に立っていた神田が、間を置かずに尋ねてきた。
私は振り返り、答えた。
「氣が減っている。枯れきるほどではないが、おそらく昨晩の出来事が原因だろう」
「昨日の……?」
「神田。佑の左手に、触れてもよいか?」
「え……?」
神田は警戒するように私を見た。
それから佑へ目をやり、しばらく迷った末、小さく頷いた。
「……少しだけなら」
私は佑へ向き直り、布団から出ていた左手を取った。
その小さな手を包み込み、私の内に満ちる氣を、ゆっくりと流し込んでいく。
右目を覆ったまま、左目で確かめる。
弱っていた光が少しずつ強さを取り戻し、やがて佑の身体を満たしていった。
私は、その手を静かに離した。
「神田。少し、話をしたい」
佑の様子に心を乱していた神田は、先ほどよりも幾分落ち着きを取り戻していた。
神妙な面持ちで、ゆっくりと頷いた。




