第四章
「俺、猿田彦ってんだ。久延毘古のじいちゃんには、彦って呼ばれてる。よろしくな。じいちゃんから言われてんのは、あんたに現世を案内しろってことだけだ。まずは、何が見たい?」
眼下に広がる山々を眺めながら、猿田彦が言った。
しかし私は、行き先よりも先に、気になって仕方のないことを口にした。
「猿田彦。この馬はいったい何なのだ? 死霊か、それとも神使か何かか? 生き物ではあるまい。だが、動くうえに鳴き声まで上げている」
「あれぇ? じいちゃんからは、あんた、月に一度は現世を見に来てたって聞いたけど……知らない? これはバイクっていうんだ。見たことあるだろ? 俺は身体がでかいから、それ用に作ったんだけどよ。小さいやつなら、街中をいくらでも走ってるぜ」
ここでそれを言われると、少しばかり恥ずかしい。
現世へ来ていたとはいえ、一瞬だけ華やかな景色を眺めていただけだとは、なんとなく言いづらかった。
「あまり……長い時間はいられなかったから。この馬は見たことがない」
「だからぁ、馬じゃなくてバイク! 機械なんだよ。で、どこへ行けばいい?」
「機械か……猿田彦が作ったのか? すごいな、現世の神は……」
私の言葉を聞きながら、猿田彦は振り返った。何かを言おうとしたらしい。
だが私と目が合うと、その目を伏せ、何も言わずに前へ向き直った。
「……どこへ行けばよいか、ということだが。申し訳ない。私にも分からないのだ。いったい、どこへ行けば現世の人間を理解できるだろうか?」
「……はぁ。月読さんは、人間を見に行きたかったのか。それなら街だな。よし、分かった。街へ連れていけばいいんだな」
猿田彦は、そこで一度言葉を切った。
「……っと、その前によ。一つ、寄っていきたいところがあるんだ。いいか?」
どことなく儚げな表情を浮かべる猿田彦に、否とは言えなかった。
私が頷くと、バイクはそのまま空を駆けていった。
しばらくして猿田彦が降り立ったのは、海原に浮かぶ二つの岩の前だった。
寄り添うように並ぶ岩と、その周りで静かに揺れる水面を見つめながら、猿田彦は口を開いた。
「俺ね、一目惚れしたのよ。その子、邇邇芸命御一行の中にいてさ。俺、もう、こんなに美しい人がいるものなのかって思ったね。この人と少しでも一緒にいられるならって、それで思わず邇邇芸命の道案内を申し出たくらい……ははは」
「うん」
「俺にとって、うずめちゃんは女神様だったわけよ。分かる? 道中、何とか仲良くなりたくて、あの手この手で近づいては話しかけるんだけどさ、ぜーんぜん振り向いてくれないわけ」
「うん」
「それでね、俺の悪い虫が出てきちゃって……ついね、つい。他の人の誘惑に乗っちゃったのよ。一瞬。ほんの一瞬だけ……」
「うん」
「そしたらさぁ、そのまま俺、海に引きずり込まれちゃってさ」
そう言って、猿田彦は目の前の水面を長い手で、すっと撫でた。
「人が……人間がさ、俺とあの人は一緒になったってことにしてくれたんだよね。俺、気がついたら祀られてて……あの人も祀られてて……。だから、きっとまた逢えると思ってるんだけど……見つからないんだよね」
「猿田彦が逢いたい人の名は、何というのだ?」
猿田彦は水面から手を離した。
ふっと、ひとつ息を吐く。
そして、静かにその名を口にした。
「天宇受売」




