第三章
永い時を、私は黄泉での務めに費やした。
年に一度、出雲で行われる神議り。その後の新月の夜に現世へ赴き、議事録を受け取る。私はそれと照らし合わせながら、黄泉にいる魂たちを、それぞれの生まれ先へと案内した。
初めのうちは、それで事足りていた。
しかし年月が過ぎるにつれ、時の流れる速さそのものが変わったのではないかと思うほど、現世の有り様は目まぐるしく変わっていった。
年に一度では追いつかず、半年に一度となり、三ヶ月に一度となり、今では月に一度、新月のたびに現世の縁結びを確かめざるを得なくなっていた。
なぜなら、縁を結ぶはずだった先が消えてしまうからだ。
現世に生まれ変わるはずの魂の縁が、いつまで経っても繋がらないのである。
人の心が変わりやすいのか。あるいは、当人同士の縁は繋がれど、その先を子へと繋ぐ意思がないのか。
とにかく魂たちは、待てど暮らせど、行くべきところへ行ってはくれなかった。
果てには、魂自身が生まれ変わりを拒む始末である。
私は、ただ頭を抱えることしかできずにいた。
「このままでは、黄泉の国が魂で溢れかえってしまう。イザナミとて、一日に千の命を奪うと言ったとはいえ……」
まさか――。
私は、はっとした。
だが、すぐに浮かんだ考えを打ち消した。
そんなはずはない。
そう、自分に言い聞かせた。
「いったい何が起こっているのだ。現世の神々は、何をしている」
私は頭を抱えながら、久延毘古の神を呼び寄せた。
久延毘古の神はイザナミと酒盛りをしていたらしい。しばらくすると、奥から、ぴょこん、ふらふら、ぴょこんと、一本足でやってくる姿が見えた。
「どれだけ飲んだのですか。もう足にきているではありませんか」
「月読クン、呼んだかのぉ? 私はちと、今忙しくてのぉ」
(ツクヨミクン……? 久延毘古の神、完全にできあがっている……)
「あ、あの、久延毘古の神。お聞きしたいことがありまして」
「何でしょうなぁ。手短に願いますよ。ヒック!」
久延毘古の神は、赤らんだ顔で私の前に立っている。さっさと言えと言わんばかりに身体をふらつかせ、座ろうともしない。
「久延毘古の神。近頃の現世の様相を聞きたいのだが……なぜ皆、生まれ変わりを拒絶するのか……」
「はぁああ……へぇ。現世ですかぁ? はぁ、へぇ、ヒィック。うぅ……知ってますよぉ、ええ。おっとっと」
久延毘古は、大きな一つ目を半分ほど閉じ、じとりと私を見た。それでも座る素振りは見せず、ふらふらと身体を揺らしては、今にも均衡を崩しそうになっている。
(奥からここまで、それほどの距離もないというのに。イザナミは、いったいどれほど飲ませたのだ? 目まで座っているではないか)
その時、奥からイザナミが久延毘古を呼ぶ声がした。
よほど上機嫌なのか、その声は愉快そうに跳ね上がっていた。
久延毘古は奥を気にしながら、私に向き直った。
「……月読命。ふぅ。あなた様は、己の使命を全うなされよ。ヒィック……悪いことは言わん。間違っても、現世に首を突っ込むでないぞ……ふぅ、はぁ……イザナミが呼んでおるでのぉ。はぁ、ここは良き所じゃ……あちらは……ふふ」
そう言うと、久延毘古は片手をひらひらさせながら踵を返し、イザナミのいる奥へとふらふら帰っていった。
どうやら久延毘古の神は、私を現世に関わらせたくないらしい。
現世に関わるな――そう告げた時の一つ目だけは、酔っているとは思えぬほど、真っ直ぐに私を捉えていた。
「白兎」
遠ざかっていく久延毘古の背を見つめながら小声で呼ぶと、物陰に隠れていた白兎が顔を出した。
私が何を考えているのか察したらしい。白兎は、たちまち強い口調になった。
「駄目ですよ。駄目、駄目。あなた様がいなくなったら、誰が魂の話を聞くというのです? 誰が氣を満たすというのです? 駄目ですからね。絶対に」
「自死によって氣枯れた魂に、無理に氣を満たさずともよいと言ったのは白兎、お前ではないか。永い間、私のそばにいたお前なら、魂の話を聞くことも容易いだろう?」
「あー、やだ。あー、やだぁ!」
白兎は長い耳を両手で押さえ、聞こえませんとばかりに大声を出した。
その姿があまりにも可愛らしく、私はつい笑ってしまった。
「ふふ。子どもですか?」
「いや、でも! あなた、骸の兵が増えるのは困ると言っていたではありませんか! だから氣を満たし続けてきたのでしょう? それを今さら、何を考えているのですか?」
白兎の必死な訴えを聞いていると、すべてを押しつけるのは、さすがに可哀想にも思えた。
だが、私とて思いつきだけで、このようなことを言っているわけではない。
黄泉の国で今起こっている異変に、現世が関係しているのは明らかだった。
「白兎……私が黄泉の国を統べよと命ぜられ、ここへ来たことは知っているね。私は永い間、ここでやるべきことをやってきた。それでも今、黄泉に異変が起きているのは確かだ。しかも、それは現世と深い関わりがあるように思えてならない。だから、どうか私の願いを聞いてくれないか?」
白兎は眉を寄せ、目を閉じた。
しばらく考え込んだのち、ゆっくりと目を開き、私をじっと見つめた。
「……ひと月。次の新月から、ひと月だけです。それ以上は……無理」
「ありがとう。恩に着る」
こうして私は、黄泉の国で起きている異変の原因を探るため、次の新月の夜に現世へ旅立つこととなった。
とはいえ、出立までにやるべきことがある。
まず私は、白兎を自分と同じ姿形に変えた。
久延毘古の神に警告されたからだ。
あの時、久延毘古は酔っているように見えた。だが、私の考えていることなどお見通しだと言わんばかりに、先回りして釘を刺してきた。
しかしそれは裏を返せば、現世には何かがあると告げているようなものだった。
「あのう……似ていますか、これ。月読様に」
私と同じ姿に変わった白兎が、手と足を交互に眺めながら尋ねた。
自分の姿など、これまでまじまじと見たことがない。似ているかと聞かれても、正直なところ私にも分からなかった。
だが――。
「そっくりだよ。大丈夫。ここへ来る魂は、皆、初めて私を見るのだから。少しくらい違っていても分からないよ」
「本当ですかぁ?」
「本当、本当。白兎は魂の話を聞いて、氣が枯れていない者はそのままでよい。氣枯れている者や、穢れを負っている者は白兎の手には負えないだろうから、忙しいとか何とか理由をつけて、イザナミに頼むといい」
イザナミに頼めと言った途端、私の姿をした白兎が、心底嫌そうな顔をした。
「イザナミ様にですか!? えぇ……嫌だなぁ。それは本当に嫌だなぁ……」
「そう言われてもなぁ……白兎は本当にイザナミが苦手だね。でも、お願いだよ。このとおり」
私は白兎に頭を下げた。
白兎は後ろへ跳び退き、慌てて声を上げた。
「月読様! 頭なぞ下げないでください! 駄目です、駄目、駄目! 分かりましたから。やれるだけのことはしますから! 頭を上げてください!」
私は顔を上げ、にっこりと笑った。
白兎はなんだかんだと言いながら、私に甘い。
それから数日後、私は黄泉と現世を繋ぐ道を歩いていた。
細く暗い道を進んでいくと、やがて二手に分かれる場所へ行き着く。
私は、高天原から黄泉へ来た時に通った道とは逆の、もう一方の道へと進んだ。
しばらくすると、大きな一枚岩が現れた。
この岩の向こうが現世だ。
父が黄泉から逃げ帰った際、出入り口を岩で塞いだとは聞いていた。だが、内側から見るのは初めてだった。
私は手を伸ばし、岩の塞ぎ目を探った。
だが、どこをどう触ってみても、隙間らしきものはない。出入り口は、隙間なく岩で覆われていた。
「はて? どういうことだ? これでは開けられない……」
一人、暗闇の中で呟いた。
いくら考えても妙案は浮かばない。
開かないのであれば、現世へ行くこともできない。私は途方に暮れ、岩で塞がれた出入り口をじっと見つめた。
その時だった。
突如、大きな音を立てて、岩が動き始めた。
人ひとりがようやく通れるほどの隙間ができると、その向こうから声が聞こえた。
「月読命! 蔦がここを塞ぐ前に、早う出てきてくだされ!」
私は慌てて、声のする隙間へ身体を捩じ込んだ。
多少の傷は負ったものの、何とか岩の外へ出ることができた。
岩戸を押さえている者へ振り返り、声をかける。
「どこのどなたか存じませんが、助かりまし――く、久延毘古の神!? あなたが、なぜここに?」
手についた土をぱんぱんと払いながら私のもとへやってきたのは、久延毘古の神だった。
久延毘古は一本足で私の前にどかりと座り、頭を下げた。
「中の久延毘古から聞いております。私の役目は、月読命を黄泉からお出しすること。もうすぐ彦がやってきます。あなた様をご案内すると、意気込んでおりましたからな」
「いや、それよりも、開けてもらって助かった。まさか継ぎ目を塞いでいた蔦が、石に変わっているとは思いもしなかった。そうか。中の久延毘古が分霊であることは聞いたが、では、あなたが久延毘古の神の本神なのか?」
「いえいえ。私もまた、久延毘古の分霊。中にいるのがその一なら、私はその二でございます。我々は、どこにでもおりますゆえ」
「そうなのか」
「しかし、あなた様は月に一度、現世へ来られていたのでしょう? なぜ、この岩戸が外側からしか開かぬことをご存じなかったのでしょう。私には、それが不思議でなりません」
「それは、その……意識を飛ばしていたにすぎないのだ。それも、ほんの一瞬だけ。次から次へと魂が黄泉へやってくるから、身体ごと離れるわけにはいかない。現世の景色を一瞬だけ見て、すぐに黄泉へ戻っていた。岩戸に近づいたこともなかったのだ」
「はぁ、なるほど。ほかの久延毘古の分霊たちが言っていた意味が、ようやく分かりましたよ。新月の夜、身体も持たぬ月読が何をしに来たのかと思えば、一時も留まらず黄泉へ帰ってしまう。ただただ一瞬、現世を見たかっただけなのですね。現世は華やかですものなぁ、黄泉とは違って」
久延毘古の言葉を聞いた途端、これまで自分がしてきたことが、急に恥ずかしく思えた。
そうだ。
その二の言うとおり、私はただ、華やかな現世を見たかっただけなのだ。
だが、今回は違う。
黄泉の異変を知るために、私は現世へ来た。
「認めるよ。いくら広いとはいえ、黄泉は岩に覆われた闇だ。それに引き換え、現世にはどこまでも広がる空と、きらきらと光る星がある。私は、ほんの一瞬だけ現世へ来て空を眺めることを、息抜きにしていたのだ」
「別に、よいではありませんか。私は責めやしませんよ。それで心穏やかにいられるのなら、やったほうがよいことです。そもそも、あなた様は立派に使命を果たしておられる」
「なんだか、中にいるその一と、あなたは違うね。その一は酒盛りが大好きで、時折、酔って正体をなくしているのに。あなたは、その……何と言うか、真面目だ」
私がそう言うと、久延毘古その二は一つ目を大きく見開いた。
そして、わなわなと身体を震わせる。
「やつは……中で酒盛りを? 酔って正体をなくす?」
しまった。
久延毘古の神々の間で、酒盛り禁止令でも出ているのだろうか。
だが、次の瞬間、久延毘古その二の口から飛び出したのは、まったく予想もしない言葉だった。
「ずるい!ずるいぞ、私だって酒には目がないというのにー!」
何を言うかと思えば、その二も酒が好きだったとは。
自分の要らぬ思い込みに、私は苦笑した。
「ですが、今回の世渡りは、現世の華やかなところを見るだけでは終われませんよ」
不意に、久延毘古の神の声色が変わった。
その一つ目には、先ほどまでのふざけた様子など欠片もなく、真剣な光が宿っていた。
「分かっている。私には、知らなければならないことがたくさんある」
すると、遠くから何かが近づいてくる音がした。
久延毘古も気づいたらしく、大きな一つ目をぐるりと音のする方へ向けた。
そちらに生えていた木々が大きく撓み、左右へと分かれていく。
まるで、自ら道を開けているかのようだった。
その間から、けたたましい轟音とともに現れたのは、黒く光る甲冑に覆われた馬と、それに跨る大漢だった。
「わりぃな。遅くなっちまった」
「待ちくたびれたぞ、彦! どうせ、よそ見でもしながら来たのであろう」
大漢が悪びれた様子もなく言うと、久延毘古その二が呆れ顔で物申した。
「そんなに怒るなや、爺さん。いやぁ、うずめちゃんに似た娘を見つけたから、ちょっと確かめていただけだろぉ。時間に遅れたことは謝る。すまん、すまん」
「まったく、お前というやつは。ああ、こちらが月読命だ。この方をご案内せい」
「はいよ、月読さんね。じゃあ、後ろに乗ってくれ。あんたが行きたいところへ案内するからさ」
(後ろ? この馬の後ろに座ればよいのか? というより、彦と呼ばれるこやつは、いったい何者なのだ?)
そう思いながら久延毘古その二をちらりと見ると、早く行けと言わんばかりに頷き、手をしっしと振っている。
仕方なく私は、甲冑の馬の背に跨り、大漢の後ろに腰を下ろした。
途端に馬は、ブルルッと轟くような嘶きを上げた。
「とりあえず、上がるぞ!」
彦が言うが早いか、馬は地を蹴った。
次の瞬間、私たちの身体は、あっという間に空高く舞い上がっていた。




