第二章
黄泉を預かってから、私はまずイザナミに、この国について尋ねた。
「この国は、どこまで続いているのでしょう」
「さて。どこまででしょうね」
返ってきたのは、あまりに頼りない答えだった。
イザナミは一度だけ、黄泉が天と地を外側から包むほど広大な場所であることを私に見せた。だが、広さが分かったからといって、その内側に何があるのかまで分かるわけではない。
深い闇の中には、イザナミさえ知らない場所が幾つもあるという。
彼女が黄泉へ来てから、まだそれほど時は経っていなかった。分からないことが多いのも致し方ない。
骸の兵についても尋ねた。
「あれは、もとから黄泉にいたものではないのですか」
「いいえ。イザナギがここへ来た時に生まれたものよ」
黄泉から逃げ帰ろうとするイザナギを追わせるため、イザナミがその辺りに転がっていた骸へ穢れを吹き込んだ。すると骸は立ち上がり、剣を手にして兵となったらしい。
つまり、この国に何があり、どのような理で動いているのかを、イザナミ自身もまだ知らないのだ。
黄泉を譲られたはよいが、私は何を統べればよいのだろう。
しかし、それよりも差し迫った問題があった。
イザナミが、私から離れなくなったのである。
長いとは言えぬまでも、一人で黄泉にいた時間がよほど寂しかったらしい。政について話すのならばよい。知らないことばかりの私にとって、彼女の知識は頼りになる。
だがイザナミは、私の姿を見つけるたびに奥から現れ、決まって同じことを尋ねるのだ。
「月読。あなた、本当は怒っているでしょう」
「怒っておりません」
「では、怨んでいる」
「怨んでもおりません」
「嘘。三歳で海に流されたのよ。何とも思わないはずがないでしょう」
これで何度目になるだろう。
私は手にしていた書状を置き、イザナミを見た。
「そもそも、過ぎたことを繰り返し確かめて、何になるというのです」
「では、その時は怨んだのでしょう」
「その時に抱いた気持ちは、その時のものです。いつまでも持ち続けていれば、やがて別のものに変わってしまう。今の私が、昔の私に代わって怒り続ける必要はありません」
「でも、怨んだのでしょう?」
「ふふ」
「なぜ笑うの」
「怨まれたい、とおっしゃっているように聞こえたものですから」
「怨んでほしいわけではないわ。ただ、怨まれているのだろうと思ってしまうの。私が、今もイザナギを怨んでいるように」
「あなたは、今もイザナギを怨んでいるのですか」
イザナミは答えなかった。
しばらく考え、やがて首を傾げた。
「……分からないわ。あなたが来てから、なぜか怨みもつらみも薄らいでしまったの」
「よいではありませんか」
「よいのかしら」
「昔どう思っていたかより、今どう思っているかです。理由は分からなくとも、怨みが薄れたと感じている。それでよいのだと思います」
イザナミは、どこか納得のいかない顔で私を見た。
私は再び書状を手に取った。
「私も、あなたが昔のことばかり尋ねに来るのを、少々わずらわしく思っております」
「やはり、私のことを――」
「ですが」
慌てて遮った。
「あなたがこうして話しかけに来ることを、楽しみにもしております。今は」
「……月読」
「ただし、仕事の邪魔はしないでいただきたい」
「ひどいわ。やっぱりあなた、私を怨んで……」
「いないと言っているでしょう。この話を、あと何度繰り返せば気が済むのですか」
黄泉の果ては見えず、骸の兵がなぜ動くのかも分からない。
母との話は、いつも同じところへ戻ってくる。
イザナギは、ここで私に何をさせたかったのだろう。
*
ある時、私のもとへ幾つかの魂がやって来た。
彼らは、現世で生を終えた人の魂だった。
人には寿命というものがあり、それを終えると肉体を離れ、黄泉へ来るらしい。彼らは皆、もう一度現世へ生まれることを望んでいた。
しかし、私はその方法を知らなかった。
「あなた方を現世へ送り返すには、どうすればよいのでしょう。それに、何として生まれ変わるおつもりですか」
一つの魂が、私の前へ進み出た。
光の中に浮かぶ姿は、三つか四つほどの幼子に見える。
「私は幼くして、事故で現世を去りました。けれど、父と母はとてもよい人でした。願わくば、もう一度あの方々の子として生まれ、今度は父母を助けられるよう働きたいのです」
生まれ変わりたいという意志は分かった。
だが肝心の、その方法が分からない。
私が困り果てていると、イザナミが姿を現した。
「何やら、困っているようね。月読命」
その目は、妙にきらきらと輝いている。何でも聞きなさい、と言わんばかりの得意げな顔だった。
よほど自信があるのだろう。
「実は、この者たちが現世へ生まれ変わる方法を知りたいのですが」
「そうだろうと思って、連れてきました」
イザナミが、後ろに隠していた両手を私の前へ差し出した。
その手の上に、小さな人形のようなものが載っている。
顔には細い髭があり、足は一本しかない。
「ええと……こちらは?」
「久延毘古の神よ。月読命が困っているから、来てもらっちゃった」
「来てもらっちゃった?」
それはつまり、地上の神を黄泉へ引きずり込んだということではないだろうか。
背筋が冷えた。
父が黄泉から逃げ帰った一件から、まだ大して時は経っていない。今度は母が地上の神を捕らえたと知られれば、黄泉と地上の争いになりかねない。
「イザナミ、あなたは一体――」
「案ずるな」
低く穏やかな声が響いた。
イザナミの手の上にいた小さな神が、自ら口を開いたのだ。
「私は私の意志でここへ来た。この身体が小さいのは、分霊ゆえのこと。月読命が気に病む必要はない」
「そうでしたか」
私は胸を撫で下ろした。
「それで、何に困っておる」
「この幼子の魂が、亡くなる前と同じ父母のもとへ生まれ変わることを望んでおります。しかし、私にはその方法が分かりません」
久延毘古は幼子の魂を見た。
「ほう」
一つ頷くと、イザナミの手から私の膝へ飛び移る。
見た目は人形そのものだが、動きは存外に軽い。
「この魂は、事故で亡くなったのであろう。氣枯れてもおらず、穢れてもいない。このままここで待っておれば、次の満月には母親の腹へ戻ることができよう」
「そのようなことまで分かるのですか」
「分かる」
「久延毘古の神はね、とても物知りなのよ。すごいでしょう」
イザナミが自分のことのように胸を張った。
連れてきただけで、なぜ母が誇らしげなのかは分からない。
しかし、久延毘古が黄泉へ来てくれたのは幸いだった。
「私はイザナギから、黄泉を統べるよう命じられました。ですが正直に申せば、自分がここで何をすべきなのか、いまだに分からないのです。久延毘古の神よ、どうか教えていただけませんか」
久延毘古は、一本しかない足で私の膝の上に立ち、私を見上げた。
「月読命よ。イザナギは、イザナミの荒御魂を鎮めるため、お前を黄泉へ贄として置いたのだ」
贄。
その言葉だけが、耳の奥に残った。
一度目は葦の舟に乗せられ、海へ流された。
二度目は母の怒りを鎮めるため、黄泉へ送られた。
父は私がヒルコであったことに気づいていた。だから母のもとへ送り込んだのだと、私も考えていた。
間違ってはいなかったらしい。
今さら、そのことに怒りは湧かなかった。
ただ、父は一度くらい、私自身に行きたい場所を尋ねてもよかったのではないかと思った。
「月読?」
イザナミが心配そうに顔を覗き込んでいる。
「何でもありません。続きをお願いします」
久延毘古は頷いた。
「すでにイザナミの荒御魂は鎮まりつつあり、和御魂が優勢となっている。ゆえに、お前は現世での生を終えた魂と話せばよい。氣枯れた者には氣を満たし、穢れた者は祓う。そのどちらでもない者は、再び現世へ生まれる時が来るまで、ここで待たせればよい」
「私は、魂を見分け、話を聞き、必要なものを与えればよいのですね」
「そうだ」
「それだけでよいのでしょうか」
「それだけではない」
久延毘古は、幼子の魂へ顔を向けた。
「生きた年月も、死に方も、戻りたい理由も、一つとして同じ魂はない。何を与えるべきかは、お前がその者の話を聞いて決めよ」
私は、もう一度幼子を見た。
「次の満月まで、ここで待てますか」
「はい」
「では、その間に、父上と母上のお話を聞かせてください」
幼子の光が、嬉しそうに揺れた。
*
それから私は、黄泉へ来る魂たちと話すようになった。
氣枯れた魂には氣を満たした。
穢れを帯びた魂は祓った。
何も損なわれていない魂とは、再び現世へ戻る時が来るまで言葉を交わした。
ある者は、長い生涯に満足していた。
ある者は、残してきた子を案じて泣いた。
戦で命を奪われた者は、自分を殺した者への怒りを抱えていた。疫病で家族と共に来た者は、次もまた同じ家に生まれたいと願った。災いが起これば、一度に数え切れないほどの魂が押し寄せることもあった。
それでも私は、一つずつ話を聞いた。
誰かと同じ生を送った魂など、一つもなかったからだ。
私は彼らから聞いたことを、書へ記した。
その者がどこで生まれ、何を喜び、何を悔やみ、どのように生を終えたのか。
魂の数だけ過去があり、魂の数だけ真実があった。
長い時が流れた頃、一つの魂が私に仕えたいと申し出た。
「なぜです」
私は尋ねた。
「ここで待っている間、ずっと月読様を見ておりました」
その魂は答えた。
「どれほど多くの魂が来ても、あなた様は一人ずつ話を聞かれる。急かさず、比べず、どのような話も途中で遮られない。私も、あなた様のお力になりとうございます」
その魂には、氣枯れも穢れもなかった。
本来なら、時が来ればそのまま現世へ戻れる魂だった。
「ここに残れば、次にいつ生まれ変われるか分かりませんよ」
「承知しております」
「私は、人使いが荒いかもしれません」
「今のお仕事ぶりを見ていれば分かります。月読様は何でもお一人でなさろうとする。放っておいたほうが、後々よほど大変になりそうです」
随分とはっきり物を言う魂だった。
だが、私はその言葉を不快には思わなかった。
「では、どのような器を望みますか」
「月読様のおそばで働けるものならば、何でも」
私は、黄泉に浮かぶ魂の光へ手を伸ばした。
柔らかな毛。長い耳。暗闇の中でも周囲を見渡せる赤い目。
そうして与えた器を見て、魂はしばらく黙っていた。
「……兎ですか」
「不満でしたか」
「いいえ。ただ、もう少し威厳のある姿を想像しておりました」
「よく似合っていますよ」
「月読様。今、笑いましたね」
それが、今も口やかましく私に仕えている白兎である。
白兎が来てから、魂の記録は整えられ、現世へ戻る時を迎えた者を見落とすこともなくなった。
イザナミは相変わらず、私が自分を怨んでいないか確かめに来た。
久延毘古も時折、分霊を黄泉へ寄越してくれた。
光のない黄泉に、魂たちの声が増えていった。
依然として暗く、果ての見えない国ではあった。
それでもいつしか黄泉は、私にとって居心地のよい場所になっていた。




