第一章
第一章
一昔前、ここには光というものがなかった。
上も下もなく、果ても分からない。ただ、どこまで行っても闇だけが続いていた。
黄泉は狭い。
少なくとも、ここにいる者にはそう見える。
だが本当は、天よりも高く、地よりも深い。天と地をひとまとめに包み込んでなお余るほど広大な場所だ。その果てしなさを闇の内側へ折り畳み、私たちの目から隠しているのは、黄泉を生んだ母の力だった。
私は長い間、そのことを知らなかった。
私はここを、光の届かない狭い場所だと思い込んでいた。
そして、父の命に従い続けていた。
私を生んだ父、イザナギは、私に黄泉の国を統べるよう命じた。
それ以来、私が繰り返してきたことは一つしかない。
現世から送られてくる氣枯れた魂を迎え、その身に再び氣を満たし、新たな生として送り返す。
ただ、それだけだ。
「月読様。いかがでしたか、先ほどの氣枯れは」
そう尋ねてきたのは、長いこと側近として私を支えてくれている白兎だった。
丸い目に長い耳。見た目だけなら可愛らしい。しかし今は眉間に深い皺を寄せ、大層困り申した、と顔いっぱいに書いてある。
安心させてやりたい気持ちはある。
だが残念ながら、先ほどの問いには首を横に振るしかなかった。
私は手元の書状へ目を落とし、読んでいるふりをした。
「またですか。理由は何か申しておりましたか」
「この国へ生まれ変わることに、意味はないそうだ」
「それで月読様は、また頷かれたわけですか」
白兎の眼差しが鋭くなる。
私は書状から目を上げないまま、わずかに頷いた。
「ああ……」
盛大なため息をつき、白兎は外へ目を向けた。
かつて、黄泉へ光が差すことなどなかった。闇は闇のまま、どこまでも沈黙していた。
だが今、白兎の視線の先では、幾千もの光の粒が瞬いている。
あれは星ではない。
私が氣を満たした魂たちだ。
現世へ戻ることを拒み、黄泉にとどまり続ける魂が、暗い世界を淡く照らしている。
光を嫌う骸の兵たちは、それが瞬くたび一斉に身を引いた。骨を擦り合わせながら、黄泉のさらに奥深くへ逃れていく。
「ああ、骸たちが怯えていますよ。まずいんじゃないですか、これ。いつイザナミ様がお怒りになって兵を差し向けてくるか、分かりませんよ」
「そうは言っても、生まれ変わりたくないという者を、無理やり現世へ押し戻すわけにもいかないだろう」
「月読様は、そのように何でも受け入れてしまわれるから困るのです」
「先ほどの者は、現世で働いていた。だが、仕事場で嫌がらせを受け続け、心を病み、ついには辞めさせられたそうだ」
私は書状を置いた。
「氣枯れたところへ邪が入り込んだのだろう。自ら首を掻き切って命を絶った。もう二度と、この国には生まれたくないそうだよ」
「ああ、自死でしたか」
白兎の耳が力なく垂れた。
「近頃、増えましたね。いっそ、自ら命を絶った者に氣を満たすのは、およしになってはいかがです」
「そういうわけにはいかない。穢れたままにしておけば、いずれ骸の兵になる。それはそれで困るだろう」
「しかし、氣を満たせばここに居座る。どちらに転んでも困るではありませんか」
「だから困っている」
以前は、これほど難しい役目ではなかった。
黄泉へ来た魂は、誰もが我先にと生まれ変わりを望んだ。私が氣を満たせば、あとは勝手に現世へ還っていく。次は何になろう、どこに生まれようと、皆が騒がしく希望を語っていたものだ。
ところが昨今は、まるで事情が違う。
氣を満たしても、誰も現世へ戻ろうとしない。
満ちた魂のまま、黄泉に居座り続けている。
「この数は異常だよ」
闇に浮かぶ光を見上げながら、私は言った。
「彼らは、なぜ現世よりも黄泉を選ぶんだ。現世は物質の世界だろう。光も、色も、触れられるものもある。ここには何もないというのに」
「月読様は、月に一度、新月の夜にしか現世へ行けませんからねえ。それも、一瞬だけの意識渡り。何でもあるからといって、よい場所とは限りませんよ」
白兎は、どこか同情するような目を私に向けた。
私は再び目を伏せた。
何でもあるのに、戻りたくない場所。
何もないのに、離れたくない場所。
私には、どうしても分からなかった。
黄泉を治めているというのに、私は現世のことも、この国のことも、何一つ理解していないのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、私は初めてこの国へ来た日のことを思い出していた。
*
山の一角にある黄泉の入り口へ着くと、そこには巨大な一枚岩が立ちはだかっていた。
私は岩へ両手をかけ、わずかにずらした。
開いた隙間から光が差し込み、その一瞬だけ、深い闇が遥か彼方まで続いているのが見えた。
だが次の瞬間、岩の下から這い出した木の根が隙間を塞いだ。光は細く削られ、やがて完全に消えた。
私は一人、先へ進んだ。
暗闇で見通しは悪かったが、何も見えないわけではない。細く長い道を、足元を確かめながら歩いた。
やがて、周囲の空気が変わった。
どれほどの広さかは分からない。それでも、目の前に巨大な空間が広がっていることだけは肌で感じた。
その奥に、誰かがいる。
「何用か」
女の声だった。
私が目を凝らすと、背後から奥へ向かって、蝋燭がひとつずつ灯り始めた。
小さな火が連なり、闇の輪郭を浮かび上がらせていく。
そこは巨大な洞窟だった。
濡れた岩壁に沿って、剣を携えた骸の兵が並んでいる。灯りが増えるたび、錆びた剣先が一つ、また一つと姿を現した。
すべての切っ先が、私へ向けられている。
当たり前だが、歓迎されてはいないらしい。
「何用かと聞いておる。答えよ」
奥に鎮座する女が、再び声を上げた。
「初めまして。私は、イザナギより生まれた月読と申します。イザナミ、あなたに話があって参りました」
「話?」
女の声が、わずかに低くなった。
「ああ、イザナギの子か。私の前でその名を臆面もなく口にするとはな。して、何の話だ」
「ここからでは少々遠すぎます。近くへ参ってもよろしいでしょうか」
骸の兵に剣を突きつけられたまま、私は尋ねた。
「ほう。怯えぬか。よい、近くへ来い」
私は返答を待ってから、洞窟の中央を真っすぐ歩き始めた。
足を踏み出すたび、ぴちゃり、ぴちゃりと水音がした。床一面に、ごく浅く水が張られている。無数の蝋燭の火が、その水面で揺れていた。
イザナミの前まで進むと、私は濡れた床に膝をつき、一礼した。
「顔を上げよ。それで、話とは何だ」
「イザナミ。あなたが治める黄泉の国を、この月読に譲っていただきたい」
顔を上げ、真っすぐにイザナミの目を見た。
「ほう」
イザナミは、口調を変えなかった。
「間近でこの顔を見ても怯えぬか。イザナギとは違うのう。だが、その戯言は聞けぬ」
「戯言ではございません。なぜ聞けないのか、理由をお尋ねしても?」
「お前が、イザナギの子だからだ。私はあれが憎い」
「なぜ、憎んでいらっしゃるのでしょう」
「あれは、私が命懸けで産んだ子を、母殺しと忌み嫌って斬り捨てた」
洞窟の火が、一斉に揺れた。
「私が命と引き換えに産んだ、火の神をだ」
父から聞いていた話とは違っていた。
イザナギは、亡くなった妻を連れ戻すため黄泉を訪れた。だが、決して見るなという約束を破り、変わり果てた妻の姿を目にして逃げ帰った。
イザナミは、醜い姿を見られた怒りから父を追ったのだと聞かされていた。
しかし、今ここにいる母は、自らの姿を恥じて怒っているのではない。
殺された子のために怒っていた。
私は、思わず口元を緩めた。
「なぜ笑う」
イザナミの目が細くなる。
「私は嘘を申してはおらぬ」
「ええ、そうでしょうとも」
私は答えた。
「我が子を殺された母親は、その愛が深ければ深いほど、鬼にもなりましょう」
イザナミの怒りは、憎しみだけから生まれたものではない。
愛が強すぎたのだ。
強すぎる愛が行き場を失い、怒りとなって黄泉を満たしている。
「では、私のことはどうでしょうか」
「お前は、憎いあれの子であろう。受け入れはせぬ」
「確かに私は、イザナギの禊から生まれました」
私はそこで言葉を切った。
「ですが、その前に一度、あなたにお会いしております」
イザナミが初めて表情を変えた。
私の顔をまじまじと見つめる。だが、そこに覚えのある面影を見つけることはできないらしい。
「私は月読となる前、三歳の時に葦の舟へ乗せられ、海へ流されました」
洞窟から音が消えた。
「名もつけていただきました。覚えていらっしゃいませんか」
私は、母の目を見たまま告げた。
「私は、ヒルコです」
蝋燭の火が大きく揺れ、水面を走った。
イザナミは目を見開いた。
父と母が最初に授かった子。その名はヒルコ。
身体に骨がなく、三年経っても立ち上がれなかった子。
不具の子として葦の舟に乗せられ、海へ流された子。
「お前は……あの時の子か」
「ええ。私はヒルコであり、月読です」
自分の声が、広いはずの黄泉へ静かに吸い込まれていく。
「海辺へ流れ着いた私は、人間たちに拾われました。その時には、すでに息がなかったそうです。それでも彼らは私を捨てず、祀ってくれた。そして私は、イザナギの禊によって月読として生まれ変わりました」
母は何も言わなかった。
「少々強引ではありますが、私はかつて、あなたの子でした。それでも受け入れてはいただけませんか」
空気が張り詰めていく。
壁際に並ぶ骸たちは動かない。無数の剣先だけが、今も私を狙っている。
「お前は」
長い沈黙の末、イザナミが口を開いた。
「海へ流した母を怨んでおるか」
「……いいえ」
「ならば、なぜここへ来た。イザナギの命と偽り、この母を討つつもりか。生憎、この身はすでに死んでおる。首を斬られようが、胸を貫かれようが、再び死ぬことはないぞ」
「今、ご自分を『この母』とおっしゃいましたね」
イザナミが口を閉ざした。
「では、私をあなたの子と認めてくださったわけだ」
私は深く頭を下げた。
「ならば先ほどの戯言を、捨てた子が初めて願うこととして、聞いてはいただけないでしょうか」
イザナミは、すぐには答えなかった。
「怨んでおらぬと申したな」
「はい」
「海へ流され、死んだというのにか」
「寂しくなかったと言えば、嘘になります」
そこで初めて、私は母から目を逸らした。
「月読として生まれた私を見ても、あなたが気づかなかったことも。しかし、父は気づいておりました。私がヒルコであることに」
だからこそ、父は私に黄泉へ行けと命じた。
かつて捨てた子を、今度は母のもとへ送り込んだのだ。
「私に黄泉を治めさせれば、あなたを奥へ退けることができる。争いになったとしても、元はあなたの子である私なら、討たれることはない。おそらく、そのように考えたのでしょう」
イザナミの口から、小さな笑いがこぼれた。
「ふふ。あれの考えそうなことよ」
その笑いは、すぐに闇へ溶けた。
「よかろう。この国は、お前に譲る」
私は顔を上げた。
「よろしいのですか」
「勘違いするでない。この黄泉は、誰か一柱が玉座に座れば治められるような、小さな国ではない」
イザナミが片手を上げた。
その瞬間、足元の水が震えた。
洞窟の壁が遠ざかる。
天井が消える。
闇が裂け、私の目では捉えきれないほど広大な空間が、一瞬だけ姿を現した。
遥かな下に地があった。
遥かな上に天があった。
黄泉はそのどちらにも属さず、天と地のすべてを外側から包み込んでいた。
私は息をのんだ。
次の瞬間には、すべてが元へ戻っていた。
狭い洞窟。濡れた床。壁際に並ぶ骸の兵。
目の前には、変わらずイザナミが座っている。
「私が黄泉の奥へ退けば、お前たちの目には、ここは再び狭く暗い国としか映らぬだろう」
母は言った。
「私は奥にて、この国を支える。お前はここへ流れ着く魂を迎え、氣を満たし、再び生ある場所へ送り出せ」
「それが、黄泉を譲る条件ですか」
「母から子へ頼む、最初の願いだ」
私は、今度こそ深々と頭を下げた。
「承知いたしました。イザナミ、あなたのご決断に感謝いたします」
「月読」
立ち上がろうとした私を、母が呼び止めた。
「ここへ来る魂を、見捨てるでないぞ」
私は振り返らずに答えた。
「一つたりとも」
その時から私は、黄泉を統べる神となった。




