第三十八章
黄泉へ戻ってからも、月読の前には日々、魂が訪れていた。
その日も、一つの魂が長い話を終えたところだった。
「……もう少し、考えてみます」
「ああ。今日、決める必要はない。また話したくなったら来るとよい」
魂は小さく揺れ、月読の前を離れていった。
その光が遠ざかるのを見送っていると、足元から声がした。
「月読さま」
白兎が、両耳をぴんと立ててこちらを見上げていた。
「次の魂を呼んでもよろしいですか」
「ああ。頼む」
「その前に、申し上げたいことがございます」
月読が目を向けると、白兎は鼻をひくつかせた。
「現世からお戻りになってから、話を聞く時間が、ますます長くなっております」
「そうか」
「そうか、ではありません。お待ちの魂は、まだ大勢いるのですよ」
白兎は長い耳を一度伏せ、また立てた。
「しかも、一度話を聞いた魂まで、何度もお呼びになる。先日も同じ話を伺ったばかりではありませんかと申し上げたら、もう一度聞くとおっしゃって」
「同じ話でも、聞きそびれたことがあるかもしれぬ」
「同じ話ですよ?」
「話すうちに、思い出すこともあろう」
白兎は首を傾げた。
「いったいぜんたい、どうなっているのですか。これでは、いつまで経っても終わりません」
「終わらせるためだけに、聞いているのではない」
月読が答えると、白兎は口を閉じた。
しばらく月読の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……では、次の方を」
白兎が身を翻す。
やがて、一つの魂が月読の前へ進んできた。
「八木」
名を呼ぶと、魂は足を止めるように、その場に留まった。
「何度聞かれても、答えは同じです。私は、生まれ変わるつもりはありません」
「今日は、その話ではない」
月読は、目の前の光を見つめた。
「私には、少しやんちゃだが、気持ちがよいくらい優しい弟がいるんだよ」
魂が微かに揺れた。
「弟……?」
「素戔嗚という」
その名を口にしてから、月読は八木へ氷川神社での出来事を話した。
自分がそこで知った、弟の過去。
八木を失ったことを、長い時が経ってもなお悔やんでいたこと。
魂は何も言わずに聞いていた。
「人の世界に疎かった弟は、やり方を間違えた。だが、それによりあなたの命を奪ったと思い、至極悔やんでいた」
八木の魂が、強く光った。
「違う」
月読は口を閉じた。
「あれは、自分で選んだ結果です。あの子は……あなたの弟は、関係ない」
「そうか」
「そうです。私が選んだんだ。あの子が悔やむことではない」
魂は、言い終えても揺れていた。
月読は、その光が落ち着くまで待った。
「それでも弟は、あなたを失ったことに心を痛めていた。今も、あの岩山で、あの地を守っている」
八木は答えなかった。
「弟だけではない。あの時、あなたを追い詰めた刑事もまた、あなたの死を悔やんでいたよ」
「……あの時私に声を掛けた刑事が?」
「ああ。私は、本人から話を聞いた」
魂の光が、ゆらゆらと揺れた。
先ほどのように強く輝くこともなく、消えることもなく、月読の前に留まっている。
長い沈黙のあと、八木がぽつりとこぼした。
「そんな……あなたは、ずるい」
月読は何も言わなかった。
「そんなことを言われたら……」
その先は、言葉にならなかった。
月読は急かさず、八木がそこにいるのを見ていた。
やがて、静かに口を開いた。
「あなたの死を悔やみ、今も忘れずにいる者がいる。それを、知っていてほしかった」
「だから、もう一度生きろと?」
「いいや」
月読は首を横に振った。
「穢れが祓われたからといって、すぐに生まれ変わりなさいという話ではない。今日は、ただそれを伝えたかっただけだ」
八木の魂は、しばらく月読の前で揺れていた。
「……少し、考えさせてください」
「ああ」
「生まれ変わることではありませんよ」
「分かっている」
月読が答えると、魂はゆっくりと離れていった。
「月読さま」
白兎の声がした。
「次の方がお待ちです」
「ああ。呼んでくれ」
白兎が去っていく。
月読は座り直し、次の魂が来る方へ顔を向けた。
わずかな待ち時間に、現世の食卓がふと思い浮かんだ。
小さな器と、手にした匙。
口に入れた時の、あの甘さ。
月読は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「はぁ……ぷりん食べたい」




