第三十七章
岩戸の前まで来ると、素戔嗚は足を止めた。
「俺は、ここにいる」
月読は頷き、一柱で岩戸へ近づいた。
大きな岩の継ぎ目から、細い光が漏れている。
その前に立っただけで、月読は肌がじりじりと熱くなるのを感じた。
「天照」
声をかけると、少しの間を置いて返事があった。
「……誰だ」
「月読です。お話ししたいことがあり、参りました」
「素戔嗚の追放は済んだのか」
月読は岩戸を見つめた。
「そのことも含めて、お聞きいただきたい」
「済んでおらぬのか」
「素戔嗚は、側仕えを死なせてはおりません」
向こうで、何かが動く気配がした。
「何を申す。久延毘古から、確かに聞いた」
「その久延毘古が、イザナミに手を貸していたのです」
返事はなかった。
月読は続けた。
「イザナミはあなたに成り代わり、高天原に座っておりました。今は黄泉へ戻られましたが、私たちは先ほどまで、天照だと思って話をしていた」
長い沈黙のあと、岩戸の向こうから声がした。
「……そこに、素戔嗚もおるのか」
「おります」
「本人に聞こう」
岩戸が軋んだ。
開いた隙間から、強い光が溢れ出した。
月読は思わず目を細め、一歩退いた。胸の奥まで、熱が入り込むようだった。
「月読。離れよ」
光の中から、天照が姿を現した。
月読の顔を見ると、すぐに歩みを止める。
「陰の氣には強すぎたか。無理をするでない」
月読は呼吸を整え、頭を下げた。
「失礼いたしました」
「謝ることではない」
天照は少し距離を取り、素戔嗚へ目を向けた。
素戔嗚は腕を組んだまま、姉を見ていた。
「お前が暴れたと聞いた」
「俺は会いに来ただけだ。門前払いされて、お前の顔さえ見てねぇ」
「織物をしていた者を死なせたとも」
「その者の顔も知らねぇよ」
天照は、素戔嗚を見つめた。
怒鳴りもせず、視線も逸らさず、弟の返事を受け止めている。
やがて、ゆっくりと目を伏せた。
「……なぜ、お前の話を聞かなかったのだろうな」
素戔嗚は何も言わなかった。
「私は、あの者たちを守るつもりで、お前と戦おうとした。久延毘古に止められ、争わずに収められるならと、その言葉に従った」
天照は顔を上げた。
「だが、お前に確かめるべきであった。すまなかった」
素戔嗚の腕が、ゆっくりとほどけた。
「……今、聞いてくれたなら、それでいい」
月読は二柱の間に立ち、御殿で起きたことを話し始めた。
イザナミが国を生み直そうとしていたこと。
そのために現世へ干渉し、穢れが留まるよう手を加えていたこと。
黄泉に天と地を呑み込ませることを、月読が拒んだこと。
天照は、口を挟まずに聞いていた。
だが、話が邇邇芸命へ及んだ時、その目が大きく開いた。
「待て。邇邇芸命が、降りたと?」
「ええ。あなたの命として、大国主に地を譲るよう迫った」
月読が答えると、天照は素戔嗚を見た。
「お前の子からか」
「ああ」
天照は、しばらく黙っていた。
「あれは、昔からそういうところがあった。欲しいと思ったものは、喜んで掴みに行く。周りの迷惑など、お構いなしだ」
その声には、孫をよく知る者の困惑が滲んでいた。
「そうか……我が孫が、地を乱しかねぬことをしたのだな」
天照は、素戔嗚へ向き直った。
「お前の子が治めた地に、我が孫が無礼を働いた。すまなかった」
素戔嗚は、姉を見た。
御殿に座っていた者は、譲り受けた地だから、どうしようと勝手だと言った。
今、目の前にいる姉は、同じ出来事を聞いて頭を下げている。
「……お前が命じたんじゃねぇんだろ」
「それでも、我が孫の行いだ。知らなかったで済ませるつもりはない」
素戔嗚は一度口を開きかけ、それから短く息を吐いた。
「分かったよ」
天照は頷き、月読へ顔を向けた。
「月読。黄泉を用いることを、母に認めなかったのだな」
「ええ」
「これからも、現世を残したいと思うか」
「思います」
月読は答えた。
「人間の愚かさも見ました。ですが、それだけではなかった。氣を枯らしかけながらも、懸命に生きる者たちがおります。私は、彼らを守りたい」
天照は、その言葉に静かに頷いた。
「ならば、黄泉の務めを果たせ。魂を迎え、氣を満たし、再び生ある場所へ送り出す。お前が望む現世を、黄泉から支えるのだ」
月読は、深く頭を下げた。
「承知しました」
「素戔嗚。お前はどうする」
問われた素戔嗚は、少し考えてから答えた。
「人間を好きになれと言われても、まだ無理だ」
「そうなれとは申しておらぬ」
「だが、この大地は好きだ。そこに生きるものの居場所は、守ると決めてる」
「そうか」
天照は、二柱を見た。
「私は高天原へ戻る。長く目を離していた分、確かめねばならぬことがある」
誰も、すぐには言葉を続けなかった。
岩戸の外を風が通り、月読の髪を揺らした。
「それぞれ、在るべき場所で務めを果たそう」
天照が言った。
「ただし、次に何かあれば、まず互いの話を聞く。誰かから聞いただけで、決めつけることのないように」
「今度は、門前払いすんなよ」
素戔嗚が返すと、天照は弟を見た。
「お前も、扉を壊す前に声をかけよ」
素戔嗚は、御殿の方へ目をやった。
「……開けたんだよ。壊してねぇ」
月読の口元が、僅かに緩んだ。
天照も、その様子を見て小さく笑った。
「では、行くがよい」
月読は一礼した。
素戔嗚は片手を上げ、月読と並んで歩き出した。
少し進んだところで、月読は振り返った。
天照は、開いた岩戸の前へ立ち、二柱を見送っていた。
月読を気遣っているのか、その身から放たれる光は抑えられ、もはや肌を灼くほどではなかった。
月読がもう一度頭を下げると、姉は静かに頷いた。
そして天照も、高天原の御殿へ向かって歩き出した。




