第三十六章
「存外、早く見破ったのう」
イザナミは笑った。
月読は座敷を見つめたまま、動かなかった。
隣の素戔嗚が月読の顔を見て、それから座敷へ向き直る。その目が大きく開いた。
「……お前が、なぜここに」
イザナミは袖を口元へ寄せた。
「少し下がれ。お前の氣は、どうにも障る」
素戔嗚は眉を寄せたが、半歩退いた。
月読が母を見上げる。
「なぜ、あなたが高天原においでなのです」
「修理固成」
返ってきたのは、そのひと言だけだった。
月読はしばらく黙っていた。
かつて父と母が命じられた、国生み。
「……すべてを流し、新たに国を生むおつもりか」
「そうだ」
イザナミは静かに頷いた。
「新たな国には、穢れを祓った魂だけを置く。氣が枯れることもなく、常に良き氣に満ちた国となろう」
「待て。その前に、天照はどこだ」
素戔嗚が口を挟んだ。
「岩戸の内におる」
「なぜだ」
「自ら入ったのだ。私が押し込めたわけではない」
素戔嗚は口を引き結んだ。
「俺は、天照に会うことさえできずに追い返された。その俺が暴れ、織物をしていた側仕えを死なせたからだと聞いた。どういうことだ」
「そのように伝わっておるのう」
「俺は、その側仕えの顔さえ知らねぇ」
イザナミは素戔嗚を見ていた。
やがて、その顔から目を逸らす。
「天照は、お前と戦うつもりであった。だが、そうなれば天と地の戦となる。争わずとも、他の神々にお前を追放させれば済むことよ」
「それと、岩戸に入ることに何の関係がある」
「天照が隠れれば、世界は闇に閉ざされる。光を取り戻したくば、素戔嗚を高天原から追放するほかない。久延毘古がそう神々に進言した」
素戔嗚の口が、わずかに開いた。
「……久延毘古が?」
「知識の神の言葉だ。天照は是として、自ら岩戸を閉めた」
「俺が何をしたか、確かめもせずにか」
答えはなかった。
素戔嗚は拳を握った。座敷へ踏み出しかけた足を止め、イザナミを睨みつける。
月読はその横顔を見てから、母へ向き直った。
「天照を退け、あなたがここに座るための策だったのですね」
「力ずくで退けたわけではない」
「側仕えが死んだという話を、誰が天照に伝えたのです」
イザナミは口元を緩めた。
「久延毘古は、よう働いてくれた」
素戔嗚が低く息を吐いた。
月読は母を見つめたまま、問いを重ねた。
「いつから、国を生み直すことを考えておいでだったのです」
「長い時を掛けたことよ。あの男に背を向けられてから、考える時だけは十分にあった」
月読は眉を寄せた。
人々が八百万の神を敬い、祀っていた頃から、母はこの計画を進めていた。
昨今の人間の愚行を見て、思い立ったのではない。
「イザナギが憎いから、国まで流すのか」
素戔嗚の声に、イザナミの目が細くなった。
「お前には分からぬ」
「分からねぇよ。だが、父が憎いからと、俺の息子が治めた地まで流されてたまるか」
イザナミは素戔嗚から視線を外した。
「月読。お前も現世を見てきたのであろう」
「ええ」
「ならば分かるはずだ。人間は奪い、傷つけ、穢れを生み続けておる。もはや、あの国はすべてを流すことでしか救えぬ」
「そのために、現世へ干渉してきたのですか」
月読が問うと、母は事もなげに答えた。
「多少、手を加えたにすぎぬ。穢れを生んだのは人間だ。私は奪えとも、殺せとも命じておらぬ」
「それはそうだ」
素戔嗚が頷いた。
「あいつらが愚かだったことは、俺がよく知ってる。自分で金を欲しがり、自分で人を傷つけた。それを、お前のせいにする気はねぇ」
イザナミが素戔嗚を見た。
「だが、その愚かさを、お前がすべてを流す理由に使うな」
「では、どう救う。穢れは絶えず生まれておる」
「それが留まるよう、あなたは手を加えた」
今度は月読が答えた。
「人の愚かさは、人のものです。ですが、それを利用したあなたの行いまで、人のせいにはできません」
「月読。言葉が過ぎるぞ」
母に名を呼ばれ、月読は一度口を閉じた。
黄泉で初めて向き合った時も、母はこの声で自分を呼んだ。
その時、月読は膝をつき、願いを聞いてほしいと頭を下げた。
今は、下げることができなかった。
「今、あの地で生きている者たちを、どうなさるおつもりです」
「黄泉へ送る」
イザナミは答えた。
「穢れを纏った者も、そうでない者も、すべてだ。一度流さねば、新たな国は生めぬ」
月読の顔が歪んだ。
神田が佑の傷を手当てする姿が浮かぶ。佑が母親の身体を気遣う声が、耳に蘇った。
中村も、藤田も、あの地で今を生きている。
「氣枯れに立ち向かい、懸命に生きる者たちもおります。子のため、自身のため、他人のために。彼らまで、流すとおっしゃるのか」
「大義のためには、多少の犠牲は付きものよ」
「……多少だと?」
月読の声が低くなった。
イザナミは口調を変えなかった。
「あの国は、私とあの男、二柱で生んだから失敗した。今度は私が生む。あれの手を借りねば、同じことにはならぬ」
月読は母を見つめた。
「あなたは、また過去を繰り返すのですか」
「何を申す」
「あなたは私を、ヒルコを、失敗した子として海へ流した」
イザナミの口元から笑みが消えた。
「今度は国生みそのものが失敗だったと、国を流すおつもりか」
「こじつけを申すでない」
「失敗を、なかったことになさるのかと聞いている」
イザナミは、しばらく子の顔を見ていた。
「神々の行いは、すべてが是。誰にも、それを止める権利はない」
「なら、なぜ姉の姿を使った」
素戔嗚が言った。
「誰にも止める権利がないというなら、初めからイザナミとして座っていればよかっただろう」
イザナミは素戔嗚を一瞥した。
すぐに月読へ視線を戻す。
「話はここまでだ」
膝の上に置いていた手を動かした。
「用が済んだなら、帰るがよい」
「それでも――」
月読が言いかけても、母は聞こうとしなかった。
立ち上がろうとする姿を見て、月読は黙った。
母は、聞き違えたのではない。
こちらの言葉を理解できないのでもない。
聞いたうえで、自分が決めたことを変える必要はないと思っている。
月読は一歩前へ出た。
「それならば」
イザナミが顔を向けた。
「私は黄泉の国を統べる者として、黄泉に天と地を呑み込ませることを認めません」
母の動きが止まった。
「……何を申した」
「あの地を流すために、黄泉を用いることは許さぬと申したのです」
「何の権利があって、そのような戯言を」
「私は、あなたから黄泉を譲り受けた」
月読は母の目を見た。
「ならば、黄泉の理は私が決める」
イザナミは口を開きかけた。
だが、言葉は出なかった。
月読も、それ以上は何も言わなかった。
素戔嗚がその隣へ並んだ。
座敷の淡い光の中で、母と子は互いを見つめていた。
やがて、座敷の裏から小さな笑い声が漏れた。
久延毘古が姿を現した。
その目は、真っ直ぐに月読へ向いていた。
黄泉へ送り出した時とは違う。母を前にしても退かず、自らの国の理を告げる姿に、久延毘古の頬が思わず緩んだ。
月読はそちらを見た。
久延毘古は笑みを残したまま、イザナミの横へ進んだ。
「……イザナミ。これは、わしらの負けじゃな」
イザナミは振り返らなかった。
「黄泉が天と地を呑まぬとなれば、流した魂は行き場を失う。彷徨った末に骸と化しては、修理固成どころではあるまい」
久延毘古は月読へ、もう一度目を向けた。
「黄泉を統べる者が、こう決めたのじゃ」
イザナミはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……随分と、偉そうになったものよ」
月読は答えなかった。
イザナミは、その顔を眺めた。
「よかろう。そこまで申すなら、しばし様子を見よう」
素戔嗚が、わずかに肩の力を抜いた。
イザナミは今度こそ立ち上がり、久延毘古へ目を向けた。
「帰るぞ」
「そうじゃな」
久延毘古は、まだ嬉しそうに笑っていた。
二柱が座敷の奥へ向かおうとすると、素戔嗚がすかさず声を掛けた。
「待て。天照は、そのままか」
イザナミは足を止めた。
面倒そうに、肩越しに振り返る。
「まだ何かあるのか」
「岩戸を内側から開けさせるには、どうすればいい」
「そんなもの、外から声を掛ければよかろう」
素戔嗚が眉を寄せると、イザナミは月読を見た。
「ただし、月読がな。天照の陽の氣にあてられるかもしれぬが……」
その目が素戔嗚へ戻った。
「そこな男が声を掛ければ、ますます出てこぬぞ」
イザナミは笑った。
素戔嗚は言い返しかけたが、口を閉じた。
月読が一度頷く。
「私が呼び掛けます」
「好きにするがよい」
それだけ言うと、イザナミは二柱に背を向けた。
久延毘古が月読へ小さく頷き、その後に続く。
座敷の奥へ進んだ二柱の姿は、淡い光の中へ静かに消えていった。




