第三十五章
道の先には、煌びやかな御殿があった。
二柱が近づくと、扉は静かに内側へ開いた。
だが、人一人がようやく通れるほどの隙間を残して、その動きは止まった。
月読は足を止め、扉の向こうを見た。
「……歓迎はされてねぇようだな」
素戔嗚は隙間へ手を掛けた。
押しても、扉は動かなかった。
「二柱で来てるのが、見えねぇのかよ」
素戔嗚が肩を入れ、力を込める。
重い扉が軋み、さらに奥へ開いた。
素戔嗚は扉を押さえたまま、月読へ顎をしゃくった。
「行けよ」
月読が中へ入ると、素戔嗚もその後に続いた。
御殿の内側も、外と遜色のない煌びやかな造りだった。
柱には細やかな彫り物が施され、壁を飾る金銀の模様が、歩くにつれて輝きを変える。窓は見当たらない。それでも広い部屋の隅々まで、煌々と光に満ちていた。
その中を進んでいくと、一段高くなった座敷が見えてきた。
そこだけは、周囲の絢爛とした輝きとは少し違う、落ち着いた淡い光に包まれていた。
中央に、天照大神が鎮座している。
月読は座敷の前で足を止めた。
黄泉へ向かう前、天照から言われたことを思い出す。
新参者が無礼を働くことのないように。礼儀を尽くせ、と。
月読は膝をつき、一礼した。
「突然の訪問をお許しください。お尋ねしたいことがあり、参りました」
頭上で、小さな笑い声がした。
「そのように畏まることはない。神たる者、どこへ赴こうと堂々としておればよい」
月読は顔を上げた。
天照は穏やかな笑みを浮かべている。
かつて教えられた言葉とは、随分違う。
月読はその顔をしばらく見つめてから、立ち上がった。
「それで、何用か」
「なぜ、あの地を沈めようとなさるのか」
月読が問うと、天照は軽く笑った。
「あの地は、私の孫が、そこな素戔嗚の息子から譲り受けた地。ならば、祖である私がどうしようと勝手ではないか」
「無理やり奪っておいて、譲り受けたとはお笑い草だ」
素戔嗚が一歩前へ出た。
その瞬間、天照がわずかに身を引いた。
袖を口元へ寄せ、素戔嗚を見据える。
「近づくでない」
「何だと?」
「陰陽、二つを纏う者と話すつもりはない。均衡が崩れる」
素戔嗚は眉をひそめた。
「今さら何を言ってやがる」
「そこにおれ」
天照の声が冷たくなった。
月読は二柱を見ていた。
素戔嗚が纏う氣は、陰だけではない。その身に満ちる陽の氣が、前へ出たことで座敷へ届いている。
天照は、その氣を避けるように身を退いた。
陽を統べる神が、陽の氣を嫌うのか。
陰のみを纏う月読には、近づくなとは言わなかった。
月読は、奥座敷の淡い光へ目を向けた。
御殿の隅々まで満ちる煌々とした輝きが、そこだけは薄い。
先ほどは、ただ落ち着いた座敷だと思っていた。
天照が再び素戔嗚の顔を見た。
その目が、さらに険しくなる。
素戔嗚は顎を上げ、座敷を睨んでいた。眉の形も、目元も、口を引き結ぶ仕草も、父であるイザナギによく似ている。
天照の視線は、その顔から逸れた。
月読は、ゆっくりと周囲を見渡した。
広い部屋には、誰もいなかった。
扉を開ける者も、訪問を取り次ぐ者もいない。座敷の脇にも、柱の陰にも、側仕えの姿はなかった。
高天原を治める神の御殿に、他の神々が一柱もいない。
陽の氣を纏う天宇受売も、天の入口にいたきりだった。
月読は座敷へ向き直った。
以前とは違う言葉。
陽の氣を避ける仕草。
周囲の輝きから退くような、淡い光の座敷。
そして、誰も近くに置かないこの御殿。
目の前の神は、天照大神ではない。
月読は、そう思って改めて見た。
衣も、座敷も、何ひとつ変わらなかった。
ただ、そこに座る顔が、見知ったものとして目に映った。
黄泉で、久延毘古と酒を酌み交わしているはずの顔だった。
「……イザナミ」
隣で素戔嗚が振り向いた。
月読は、座敷から目を離さなかった。
イザナミは、その顔を見て笑った。




